第1話:誤訳は、召喚
この物語の武器は、剣でも毒でもなく「言葉」です。
誤って訳された一語が妖を呼び、正しく訳し直せば妖は消える。 そういう後宮の話です。
男装した亡国の翻訳姫が、七つの言語で妖を祓い、誤訳の裏に隠された陰謀へ近づいていきます。
言葉は、間違えれば妖になる。
それを紅蘭が思い知ったのは、九つの歳。祝いの言葉をたった一語、訳し違えた使者のせいで、二つの国が戦になり、家族ごと故郷が燃えた夜のことだ。
だから今、後宮の回廊を黒い靄が這うのを見ても、彼女は悲鳴を上げなかった。ただ、静かに舌打ちをした。
「――またか。今度は誰が、何を訳し違えた」
大国・煌の後宮、深夜。月のない夜に限って、妖は湧く。
昼は朱と金で塗り固められた回廊だ。柱は丹塗り、欄干には金泥の鳳凰が舞い、妃たちの香が幾筋も流れる。その華やかさを、墨を流したような靄が一息に呑んでいく。床を舐め、灯火を一つ、また一つと喰い消す。朱金の絢爛が、片端から色を失っていく。
女官たちが寝間着のまま転がり出て、声にならぬ声で逃げ惑う。靄の中心では、本来あるはずのない人影が、ぐにゃりと長く伸びていた。
潜入してまだ三日。少年通訳官「李冰」として後宮の門をくぐったばかりの紅蘭は、胸に巻いた布の下で、息を浅く整えた。
布はきつい。一日締め続ければ、肋が軋む。それでも、緩めるわけにはいかない。ここでの紅蘭は、平らな胸の、声の低い少年でなければならないのだ。
(声を、落とせ。歩幅を、広く)
喉の奥で一度、声色を確かめる。それから、潰した平らな体のまま、靄の根へ歩み寄った。
誤訳は召喚。正訳は祓い。これが母国の――滅びた小国の陰陽祓いの、たった一つの理だ。家を焼かれ、言葉だけを抱えて逃げ延びた娘が、唯一受け継いだ家業でもある。
(言葉の事故は、もうたくさんだ)
胸の奥でそう呟いて、紅蘭は逃げ遅れた女官の一人に問うた。
「今宵、西方の妃が皇后へ献じた詩文があったな。宮廷通訳が、その一語を『呪い(ノア)』と訳した」
女官は、震えながら頷いた。
「ええ、ええ……『あなたに、ノアを』と。だから皆、呪われたと……!」
無理もない、と紅蘭は思う。
西方から輿入れした妃が、皇后への歩み寄りにと、故国の言葉で短い詩を捧げた。本来なら、それは橋になるはずだった。派閥に裂かれた後宮の、東と西をつなぐ細い橋に。
ところが宮廷通訳がその一語を読み下した途端、橋は呪いに変わった。皇后への祝福が、皇后への呪詛と告げられたのだ。後宮はざわめき、献じた妃は青ざめ、皇后の宮は門を閉ざしたという。妃付きの女官は咎めを受け、西方の宮は今ごろ針の筵だろう。
一語が裏返るだけで、国と国の間に置かれた橋は、こうもたやすく折れる。――それを、紅蘭は誰よりよく知っている。
「莫迦が」
紅蘭は懐から、写しておいた原文を引き抜いた。月明かりはないが、文字は読める。
いや――読める、というのとは少し違う。七つの言語が、彼女の頭の中ではいつも、淡く光って見える。西方の古語、北方の古詩、煌の官語。文字の一つ一つに、意味の筋が色をまとって走り、どこで意味がねじれたかが、地図の上の道のように見えてくる。
この一語は、ねじれていた。誰かの手が、無理に裏返した跡のように。
(……いや。今は、祓いが先だ)
「西方の古語で『ノア』は、文脈で意味が裏返る。戦の詩なら呪い。だが献上詩の、しかも『花ひらく季に』と続くこれは――」
靄が、ぞろりと首をもたげた。人の形を捨てた口が、紅蘭めがけて開く。墨色の奥から、生臭い夜気が噴き出す。
彼女は怯まず、右手を上げ、空に指を走らせた。
指先が、見えない紙をなぞる。墨も筆もない。けれど幼い頃、母の手に添えられて覚えたこの所作は、体が忘れない。一画ごとに、指の腹に微かな抵抗がある。文字が、宙にとどまろうとする手応え。
なぞった軌跡に、淡い金の文字が浮かぶ。真名を、正しい意味で、書く。
「『祝福』だ。――『あなたに、祝福を』」
誤って呼ばれた妖は、正しい名を返された瞬間、行き場を失う。
靄が、内側から砕けた。光の粒になってほどけ、回廊に夜気が戻る。喰われていた灯火が、ぽつ、ぽつ、と息を吹き返し、丹塗りの柱に、朱と金の色がじわりと戻ってくる。女官たちが、信じられぬという顔で、平らな胸の少年通訳官を見上げる。
助かった。今夜は。
だが、爽快が引いたあとに残るのは、いつもの疲れだ。一語を正すたび、体の芯から何かが抜けていく。
紅蘭は息を吐き、額の汗を袖で拭った――その手首を、背後から掴まれた。
「見事だ。宮廷通訳が三人がかりで沈められなかった妖を、たった一語で」
低い、若い男の声。振り向くと、皇族の証である紫の衣をまとった青年が立っていた。皇弟・蒼月。後宮の妖害を密かに調べているという、噂の人物。
まずい。見られた。紅蘭は手を引こうとしたが、青年の指は離れない。それどころか、彼は掴んだ手首を、灯火にかざすようにして、まじまじと見た。
ほんの数秒。だが、その数秒で、互いが互いを値踏みしていた。この男は、妖を見ていない。最初から、妖を祓った者のほうを見ていた。
「ほう」
蒼月の目が、すっと細くなる。からかうような、それでいて底の知れない声で、彼は紅蘭の耳元に唇を寄せた。
「お前――女の手を、しているな」
心臓が、跳ねた。
胸の布。潰した体。声色。三日かけて、寝る間も惜しんで作り上げた「少年・李冰」が、たった一言で、内側から崩れていく音がする。
ここで正体が露見すれば、後宮を欺いた罪で首が飛ぶ。亡国の姫だと知れれば、政治の駒にされる。家族を喪った理由に、もう一度近づくことすら、できなくなる。
逃げるか。叫ぶか。否――言葉で返すしかない。それが、この娘の唯一の得物だ。
紅蘭は、奥歯を噛んだ。そして、七つの言語で鍛えた舌で、にこりと笑ってみせた。
「皇弟殿下は、妖よりも先に、人を疑うのがお好きとみえます。――それとも、男の手をした少年がお望みでしたか?」
蒼月の眉が、わずかに上がる。掴んでいた手が、ほんの少し緩んだ。面白い、とでも言いたげに。
短い沈黙。互いの目が、剣の間合いを測るように、動かない。
この男は、もう答えを知っている。知っていて、なお泳がせている。なぜ。――その問いに構っている暇はない。
その隙を、紅蘭は逃さない。手首を引き抜き、深く一礼して、靄の消えた回廊を足早に去る。背に、青年の楽しげな声が刺さった。
「逃がさんよ、李冰。お前の言葉は、後宮で一番面白い。――次は、お前が何を隠しているのか、訳させてもらう」
逃げながら、紅蘭は冷たい汗を握りしめた。
誤訳が妖を呼ぶこの後宮で、一番厄介なのは、妖ではない。
私の嘘を、正しく訳そうとする、あの男だ。
そして――もう一つ。
今夜の妖を呼んだ「ノア」の誤訳。宮廷通訳が「呪い」と訳したあの一語に、ほんのかすかな、引っかかりが残っていた。
文脈を見れば、難しい訳ではなかったはずだ。『花ひらく季に』と続く献上詩を、どう読めば「呪い」になる。少しでも西方の古語を学んだ者なら、迷うところではない。
ただ、それだけ。きっと、ただの不注意だ。
紅蘭は足を止め、闇の奥を振り返った。
(……何を、気にしている)
胸の奥で、八年前に燃えた故郷の匂いが、ほんの少しだけ、よみがえって――九つの歳に喪ったものの輪郭が、一瞬、闇に滲んで――すぐに、消えた。
お読みいただきありがとうございます。「誤訳は召喚、正訳は祓い」――言葉を間違えると妖が湧き、正しく訳し直せば消える後宮の物語、第1話でした。
男装の翻訳姫・紅蘭が、なぜ後宮に潜り込んだのか。手首を掴んだ皇弟・蒼月は、なぜすぐに正体を暴かなかったのか。そして今夜の「誤訳」は、本当に偶然だったのか。
この物語は、一話=一誤訳事件で必ず解決していきます。次回は、男装の通訳官・李冰として後宮の通訳房に立った紅蘭が、前例しか認めぬ通訳長と、言葉の壁に閉じ込められた妃を前に、後宮の「言葉の壁」と向き合いはじめる話。
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