表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
後宮妖譚録:誤訳すれば妖が湧き、正しく訳せば妖は消える 〜七つの言語を操る亡国の翻訳姫は、男装して後宮の妖を言葉で祓う〜  作者: 翠蘭


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/7

第1話:誤訳は、召喚

この物語の武器は、剣でも毒でもなく「言葉」です。

誤って訳された一語が妖を呼び、正しく訳し直せば妖は消える。 そういう後宮の話です。

男装した亡国の翻訳姫が、七つの言語で妖を祓い、誤訳の裏に隠された陰謀へ近づいていきます。

 言葉は、間違えれば妖になる。

 それを紅蘭こうらんが思い知ったのは、九つの歳。祝いの言葉をたった一語、訳し違えた使者のせいで、二つの国が戦になり、家族ごと故郷が燃えた夜のことだ。

 だから今、後宮の回廊を黒いもやが這うのを見ても、彼女は悲鳴を上げなかった。ただ、静かに舌打ちをした。


「――またか。今度は誰が、何を訳し違えた」


 大国・こうの後宮、深夜。月のない夜に限って、妖は湧く。

 昼は朱と金で塗り固められた回廊だ。柱は丹塗にぬり、欄干には金泥の鳳凰が舞い、妃たちの香が幾筋も流れる。その華やかさを、墨を流したような靄が一息に呑んでいく。床を舐め、灯火を一つ、また一つと喰い消す。朱金の絢爛が、片端から色を失っていく。

 女官たちが寝間着のまま転がり出て、声にならぬ声で逃げ惑う。靄の中心では、本来あるはずのない人影が、ぐにゃりと長く伸びていた。

 潜入してまだ三日。少年通訳官「李冰リヒョウ」として後宮の門をくぐったばかりの紅蘭は、胸に巻いた布の下で、息を浅く整えた。

 布はきつい。一日締め続ければ、あばらが軋む。それでも、緩めるわけにはいかない。ここでの紅蘭は、平らな胸の、声の低い少年でなければならないのだ。

(声を、落とせ。歩幅を、広く)

 喉の奥で一度、声色を確かめる。それから、潰した平らな体のまま、靄の根へ歩み寄った。

 誤訳は召喚。正訳は祓い。これが母国の――滅びた小国の陰陽祓いの、たった一つのことわりだ。家を焼かれ、言葉だけを抱えて逃げ延びた娘が、唯一受け継いだ家業でもある。

(言葉の事故は、もうたくさんだ)

 胸の奥でそう呟いて、紅蘭は逃げ遅れた女官の一人に問うた。


「今宵、西方の妃が皇后へ献じた詩文があったな。宮廷通訳が、その一語を『呪い(ノア)』と訳した」


 女官は、震えながら頷いた。

「ええ、ええ……『あなたに、ノアを』と。だから皆、呪われたと……!」

 無理もない、と紅蘭は思う。

 西方から輿入こしいれした妃が、皇后への歩み寄りにと、故国の言葉で短い詩を捧げた。本来なら、それは橋になるはずだった。派閥に裂かれた後宮の、東と西をつなぐ細い橋に。

 ところが宮廷通訳がその一語を読み下した途端、橋は呪いに変わった。皇后への祝福が、皇后への呪詛と告げられたのだ。後宮はざわめき、献じた妃は青ざめ、皇后の宮は門を閉ざしたという。妃付きの女官は咎めを受け、西方の宮は今ごろ針のむしろだろう。

 一語が裏返るだけで、国と国の間に置かれた橋は、こうもたやすく折れる。――それを、紅蘭は誰よりよく知っている。

莫迦ばかが」

 紅蘭は懐から、写しておいた原文を引き抜いた。月明かりはないが、文字は読める。

 いや――読める、というのとは少し違う。七つの言語が、彼女の頭の中ではいつも、淡く光って見える。西方の古語、北方の古詩、煌の官語。文字の一つ一つに、意味の筋が色をまとって走り、どこで意味がねじれたかが、地図の上の道のように見えてくる。

 この一語は、ねじれていた。誰かの手が、無理に裏返した跡のように。

(……いや。今は、祓いが先だ)

「西方の古語で『ノア』は、文脈で意味が裏返る。戦の詩なら呪い。だが献上詩の、しかも『花ひらくときに』と続くこれは――」

 靄が、ぞろりと首をもたげた。人の形を捨てた口が、紅蘭めがけて開く。墨色の奥から、生臭い夜気が噴き出す。

 彼女は怯まず、右手を上げ、空に指を走らせた。

 指先が、見えない紙をなぞる。墨も筆もない。けれど幼い頃、母の手に添えられて覚えたこの所作は、体が忘れない。一画ごとに、指の腹にかすかな抵抗がある。文字が、宙にとどまろうとする手応え。

 なぞった軌跡に、淡い金の文字が浮かぶ。真名まなを、正しい意味で、書く。


「『祝福ノア』だ。――『あなたに、祝福を』」


 誤って呼ばれた妖は、正しい名を返された瞬間、行き場を失う。

 靄が、内側から砕けた。光の粒になってほどけ、回廊に夜気が戻る。喰われていた灯火が、ぽつ、ぽつ、と息を吹き返し、丹塗りの柱に、朱と金の色がじわりと戻ってくる。女官たちが、信じられぬという顔で、平らな胸の少年通訳官を見上げる。

 助かった。今夜は。

 だが、爽快が引いたあとに残るのは、いつもの疲れだ。一語を正すたび、体の芯から何かが抜けていく。

 紅蘭は息を吐き、額の汗を袖で拭った――その手首を、背後から掴まれた。


「見事だ。宮廷通訳が三人がかりで沈められなかった妖を、たった一語で」


 低い、若い男の声。振り向くと、皇族の証である紫の衣をまとった青年が立っていた。皇弟・蒼月そうげつ。後宮の妖害を密かに調べているという、噂の人物。

 まずい。見られた。紅蘭は手を引こうとしたが、青年の指は離れない。それどころか、彼は掴んだ手首を、灯火にかざすようにして、まじまじと見た。

 ほんの数秒。だが、その数秒で、互いが互いを値踏みしていた。この男は、妖を見ていない。最初から、妖を祓った者のほうを見ていた。

「ほう」

 蒼月の目が、すっと細くなる。からかうような、それでいて底の知れない声で、彼は紅蘭の耳元に唇を寄せた。


「お前――女の手を、しているな」


 心臓が、跳ねた。

 胸の布。潰した体。声色。三日かけて、寝る間も惜しんで作り上げた「少年・李冰」が、たった一言で、内側から崩れていく音がする。

 ここで正体が露見すれば、後宮を欺いた罪で首が飛ぶ。亡国の姫だと知れれば、政治の駒にされる。家族を喪った理由に、もう一度近づくことすら、できなくなる。

 逃げるか。叫ぶか。否――言葉で返すしかない。それが、この娘の唯一の得物だ。

 紅蘭は、奥歯を噛んだ。そして、七つの言語で鍛えた舌で、にこりと笑ってみせた。


「皇弟殿下は、妖よりも先に、人を疑うのがお好きとみえます。――それとも、男の手をした少年がお望みでしたか?」


 蒼月の眉が、わずかに上がる。掴んでいた手が、ほんの少し緩んだ。面白い、とでも言いたげに。

 短い沈黙。互いの目が、剣の間合いを測るように、動かない。

 この男は、もう答えを知っている。知っていて、なお泳がせている。なぜ。――その問いに構っている暇はない。

 その隙を、紅蘭は逃さない。手首を引き抜き、深く一礼して、靄の消えた回廊を足早に去る。背に、青年の楽しげな声が刺さった。


「逃がさんよ、李冰。お前の言葉は、後宮で一番面白い。――次は、お前が何を隠しているのか、訳させてもらう」


 逃げながら、紅蘭は冷たい汗を握りしめた。

 誤訳が妖を呼ぶこの後宮で、一番厄介なのは、妖ではない。

 私の嘘を、正しく訳そうとする、あの男だ。


 そして――もう一つ。

 今夜の妖を呼んだ「ノア」の誤訳。宮廷通訳が「呪い」と訳したあの一語に、ほんのかすかな、引っかかりが残っていた。

 文脈を見れば、難しい訳ではなかったはずだ。『花ひらく季に』と続く献上詩を、どう読めば「呪い」になる。少しでも西方の古語を学んだ者なら、迷うところではない。

 ただ、それだけ。きっと、ただの不注意だ。

 紅蘭は足を止め、闇の奥を振り返った。

(……何を、気にしている)

 胸の奥で、八年前に燃えた故郷の匂いが、ほんの少しだけ、よみがえって――九つの歳に喪ったものの輪郭が、一瞬、闇に滲んで――すぐに、消えた。


 お読みいただきありがとうございます。「誤訳は召喚、正訳は祓い」――言葉を間違えると妖が湧き、正しく訳し直せば消える後宮の物語、第1話でした。

 男装の翻訳姫・紅蘭が、なぜ後宮に潜り込んだのか。手首を掴んだ皇弟・蒼月は、なぜすぐに正体を暴かなかったのか。そして今夜の「誤訳」は、本当に偶然だったのか。

 この物語は、一話=一誤訳事件で必ず解決していきます。次回は、男装の通訳官・李冰として後宮の通訳房に立った紅蘭が、前例しか認めぬ通訳長と、言葉の壁に閉じ込められた妃を前に、後宮の「言葉の壁」と向き合いはじめる話。

 面白いと思っていただけたら、ブックマーク・評価で応援いただけると、紅蘭が次の妖を祓う励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ