第25話:国書の、罠
締結の前夜、煌の宮は、いつにも増して朱く、金に輝いていた。
隣国・西燕の和平使節を迎える大広間には、新しい紗が張られ、卓には金の杯が並べられている。明日の朝、両国の国書が読み交わされれば、二十年ぶりの和睦が成る――そのはずだった。
だが李冰――男装の紅蘭は、その華やぎの裏側で、一人、唇を噛んでいた。
「肝心の国書の訳が、私には回ってこない」
通訳房の隅、灯火の届かぬ卓で、紅蘭は低く呟いた。
明日読み上げられる国書――その煌語への訳文は、白霜の息のかかった通訳の手で仕上げられ、固く封をされていた。黎大人も「前例どおり、当代の宮廷通訳が訳す」と取り合わない。
(黒幕の名は割れた。けれど、肝心の一手が、こちらの目から隠されている)
偶然ではない。締結という、最も大きな舞台でこそ、白霜は最も大きな誤訳を仕込む。八年前、紅蘭の故郷を滅ぼした戦も、こうして始まったのではなかったか。
「李冰さま」
闇に滑り込むように、小鈴が駆け込んできた。そばかすの顔が、緊張で強ばっている。その手には、墨の匂いも生々しい一枚の紙。
「裏の写し役から、こっそり借りてきた。明日読む訳の、控えだって。……あたしの足、後宮の裏道なら誰にも負けないんだから」
紅蘭は息を呑み、紙を受け取った。封のされた正本ではない。だが、同じ手が同じ字を写した、確かな写し。
「上出来だ、小鈴。――誰にも見られていないな?」
「うん。けど、早くして。あの靄……また、出てる気がするの」
紅蘭は答えず、懐から、もう一枚の紙を抜いた。
隣国の国書の、原文の写し。使節の従者に頼み込み、桂才人の口添えで、ようやく一枚だけ控えさせてもらったものだ。事件のたびに原文を控える――それだけは、母国から続く、彼女の崩さぬ習いだった。
原文と、訳文。二枚を卓に並べ、灯火を引き寄せる。七つの言語が、紅蘭の頭の中で、いつものように淡く光りはじめた。
和平の誓いの一句は、両国が共に範とする古い盟約語で記されていた。
原文――「両国、相並びて、天を戴かん」。
対等の盟い。肩を並べ、共に天を仰ぐという、和睦の核心の一句だ。
紅蘭の指が、その一語の上で止まった。
(……ここだ)
昨夜、回ってきた訳の端に覚えた、あのかすかな傾き。気のせいかと取り逃した違和感の正体が、いま、二枚を並べて、はっきりと形を結んだ。
盟約語で「相並ぶ」を意味する語は《セナ》。だが、語尾をたった一つ書き換えれば、《セナル》――「相下る」、膝を折って従う、という意味に裏返る。
そして、白霜系列の通訳が仕上げた訳文には、こう書かれていた。
――「西燕は、煌に相下りて、天を戴かん」。
対等の誓いが、屈服の誓いに化けていた。
紅蘭の背筋を、冷たいものが走った。
(知らない語を間違えたんじゃない。どちらにも訳せる一語を、わざと、悪いほうへ倒した。――八年前と、同じ型だ)
これが明日、満座で読み上げられれば、隣国の使節は侮辱と受け取る。二十年ぶりの和睦は宣戦に裏返り、両国の面子は潰れ、戦になる。
そして――誤訳は、召喚。
偽りの誓いが大きいほど、それが孕む妖は大きい。妃の恋文の一語が中庭に靄を湧かせたのなら、国と国とが交わす偽りの誓いは、後宮で見たどの墨色より深い、国家級の妖を呼ぶだろう。考えるまでもなかった。
「桂才人さま。これを」
紅蘭は、原文の一句を、隣に控えていた桂才人へ示した。たどたどしい煌語で、しかし誇りを込めて、西方の妃は答えた。
「……《セナ》。この語、わたしの故国でも、誓いの、語。並んで、立つ、という意味。決して……下る、では、ない」
西方と隣国は、古い盟約語を分かち合う。桂才人の一言が、紅蘭の読みに、揺るがぬ裏打ちを与えた。
桂才人の褐色の指が、原文の一語を、そっと撫でた。
「わたしも……言葉が、通じなくて。下に見られる。何度も」たどたどしい煌語が、わずかに掠れる。「だから、分かる。これは、わざと。誇りを、折るための、訳」
言葉の壁ゆえに孤立してきた妃の声には、この罠の悪意を、誰よりも正しく読む重みがあった。
そのときだった。
灯火が、ふっと暗くなった。窓の外、宮の甍の上を、墨を流したような靄が、音もなく這いはじめている。月のない夜。妖の湧く夜だ。
まだ、誤った国書は読まれていない。なのに靄は、もう宮を覆おうとしている。偽りの誓いが封の内で熟し、明朝の召喚を待ちかねるように。
「李冰さま、あれ……」
小鈴の声が震えた。紅蘭は窓辺に立ち、墨色の宮を見据えた。
(これは、ただの妖害じゃない。国書そのものが、大妖を呼ぶ仕掛けだ)
「李冰」
いつのまにか、戸口に蒼月が立っていた。紫の衣に、夜の冷えをまとって。からかいの色は、もうどこにもない。
「顔色が悪いな。――何を、訳した」
「殿下」
紅蘭は、二枚の紙を差し出した。「明日の国書は、罠です。誓いの一語が、わざと裏返されている。読み上げられれば、戦が起き、宮を覆うあの靄が、国家級の妖に育ちます」
蒼月は、二枚を見比べ、ただ一語の違いを指で押さえた。聡い男だ。説明は要らなかった。
「白霜の、最後の一手か」
「ええ。――そして、私が正しく訳し直した控えは、すでに黎大人の卓で握り潰されています」
苦い味が、舌に残った。正しい訳は、いつもこうして闇へ消される。八年前も、誰かが正しい訳を握り潰した。だから、戦は止められなかった。
(同じことを、もう一度、見過ごせるものか)
「ならば」蒼月の目が、鋭く光った。「正本が読まれる前に、止めるしかない。皇族の足なら、締結の場へは入れる。段取りは、俺がつける」
「いいえ、殿下」
紅蘭は、首を振った。封は、明朝まで解かれない。握り潰された控えは、もう誰も信じない。残された道は、ただ一つ。
「止めるのでは、間に合いません。――読まれたその場で、私が、正しく訳し直します」
満座の前。男装の崩れる危うさも、亡国の姫だと露見する恐れも、いまは遠い。倒された一語を正しい意味へ返すこと。歪められた誓いに、真の名を返すこと。武器は、言葉しかない。それで、足りる。
蒼月が、束の間、紅蘭を見つめた。
「――露見すれば、首が飛ぶぞ。男と偽って後宮に入った罪も、亡国の姫であることも、満座の前で晒される」
「承知の上です」
紅蘭は、ためらわなかった。「黙って正しい一語を呑み込むより、首を懸けて返すほうが、私には、ずっと易い」
蒼月の口の端が、わずかに緩んだ。からかいではない。確かな信を込めた、短い笑みだった。
「いい顔だ。――ならば、俺が皇族として、お前の隣に立とう」
紅蘭は、原文の写しを、胸の前で固く握りしめた。
指先に、八年前に燃えた故郷の匂いが、よみがえる。あのとき返せなかった一語を、今度こそ、満座で返す。
胸の奥で、淡い金の文字が、もう一字、形を結びはじめていた。
「殿下、桂才人さま、小鈴。――明日、締結の場へ、踏み込みます」
第25話、お読みいただきありがとうございます。第3章「亡国の影」、いよいよ締結の前夜です。
白霜が後宮に仕掛けた最後の罠は、二十年ぶりの和睦を結ぶ国書そのものでした。「相並ぶ(セナ)」というたった一語を「相下る(セナル)」に裏返すだけで、対等の誓いが屈服の誓いに化け、戦を――そして国家級の大妖を呼びます。知らない語を間違えるのではなく、どちらにも訳せる一語をわざと悪いほうへ倒す。八年前、紅蘭の故郷を滅ぼした戦と、まったく同じ型でした。
原文の写しを控える習い、桂才人の故国の言葉、小鈴の裏道の足――これまで積み上げてきたものが、ここで一つに繋がります。正しい訳はすでに握り潰され、残された道は「読まれたその場で訳し直す」一手のみ。
次回、紅蘭は正体露見を覚悟で、満座へ踏み込みます。墨の靄が育つ締結の朝、国書は読み上げられ――。どうか、ブックマーク・評価で応援いただけると、紅蘭の励みになります。




