第26話:大妖、湧く
その日、煌の正殿は、戦を止めるための場であったはずだった。
朱の柱に金の盤龍が巻きつき、玉座の左右に重臣が居並ぶ。階下には西燕の大使節が、青い礼服を整えて控えていた。妃たちは御簾の奥から息を殺し、香の煙だけが、張りつめた空気を細く昇っていく。
数十年の対立に終止符を打つ、和平条約の締結。両国の使者が幾度も筆を交わし、ようやく一巻の国書にまとまった。これを満座の前で読み上げ、皇帝が玉璽を押せば、戦は遠のく――はずだった。
李冰――男装の紅蘭は、通訳房の末席に控えながら、奥歯を噛んでいた。
(おかしい。この国書の訳は、私に回らなかった)
昨夜、彼女が原文の写しを求めても、国書は白霜系列の通訳の手に固く握られていた。だから紅蘭は、西燕の使者にひそかに頼み、原典の一節だけを懐に控えている。七つの言語が、頭の中でいつものように淡く光る。
そして今、壇上で国書を読み下しているのは、白霜の息のかかった、若い宮廷通訳だった。
「――両国は、ここに永く相和し。西燕は、煌の御前に……『膝を、折る』」
とたん、紅蘭の頭の中で、その一語がぐにゃりと色を変えた。
(違う――!)
西燕の古語で、原文の一語は「セナ」。両つの国が、膝を折らず、肩を並べて立つ――対等に並び立つ、という盟約の語だ。次の句も「対等の友として」と続く。並び立つ、以外にあり得ない。少しでも西燕の言葉を学んだ者なら、間違えようがない。
なのに通訳は、その「セナ」に一字を足して「セナル」と読み下した。たった一字で、意味は裏返る。膝を折らず並び立つ、が、一方が膝を折って従う、へ。和平の盟約を、属国への要求に化けさせて。
西燕の大使節の顔が、見る間に朱に染まった。
「これが……これが、煌の答えか。我らに、膝を折れと」
重臣の側からも、抑えのきかぬ怒声が上がる。両国の面子が、たった一語で、音を立てて崩れていく。
そして、国書の墨字が――嗤った。
巻物の一行から、墨が、ぼたりと床へ滴った。一滴が十滴に、十滴が濁流に。これまで紅蘭が祓ってきた、回廊を這う靄とは、桁が違う。墨色の奔流が正殿の床を呑み、柱を這い上がり、金の盤龍を塗り潰していく。
灯火が、列をなして喰い消されていった。重臣が、使節が、妃の御簾が、墨の波に足を取られて沈んでいく。悲鳴が幾重にも重なり、香の煙も墨に溺れた。墨の表面には、和平の国書から零れた一語が、無数の「膝を折る」となって浮かび、ぶくぶくと泡を立てていた。
壇の隅で、配膳に紛れていた下働きの小鈴が、柱にしがみついて叫ぶ。「李冰さま、床が、墨が……っ、人を、呑んでる!」御簾の奥では、西方の桂才人が褐色の手で口を押さえ、たどたどしい煌語で「これは……戦の、言葉……ちがう、ちがう」と呟いていた。
濁流の中心が、ゆっくりと、人より遥かに大きな頭をもたげる。それは、二つの国の怒りと屈辱を喰らって膨れ上がった、国家級の大妖だった。誤って「膝を折る」と呼ばれた盟約が、行き場を失い、両国を呑もうと牙を剥く。喉の奥からは、これまでのどの妖より低い、地鳴りに似た唸りが、絶え間なく零れていた。屈辱に「折れ」と命じられた誇りが、行き場をなくして、吠えている。
「――戦だ。煌は、我らを謀った!」
大使節が剣の柄に手をかけ、煌の重臣もまた、抜き放つ。「無礼を申すか。膝を折れと書いたは、そちらの国書ぞ!」「ならばこの場で、煌の血を見せよう!」墨の濁流の上で、二つの国が、いままさに斬り結ぼうとしていた。歪んだ一語が、数十年の和議を、瞬きの間に灰へ変えていく。墨の唸りは、その怒声を喰らって、いよいよ高く膨れ上がった。
その混乱のただ中で、ひとつだけ、笑い声があった。
「ふふ。――ようやく、お湧きになったわね」
御簾の陰から、鈴の音とともに、白霜が進み出た。墨の波が、彼女の裾を避けるように引いていく。長爪を口元に当て、満座の崩壊を、まるで自分の作品でも眺めるように見下ろしている。
「お探しでしょう、李冰。この誤訳を仕組んだ者を」
白霜の優美な微笑みが、底冷えのする刃に変わった。
「『膝を折る』と訳させたのは、わたくしよ。この国書も、八年前の――あの戦の国書も。歪んだ一語で国を焼くのは、存外、容易いの」
白霜は、墨に溺れる重臣たちを、慈しむように見渡した。「国書は、誰も原文を読めない。読めぬ者ばかりが、訳された一語を信じる。だから、わたくしが書き換えた一語が、そのまま真実になる。――後宮で続いた誤訳の数々も、みんな、わたくしの手すさびよ」
仕組まれた誤訳の、すべての糸が、白霜の長爪へ集まっていく。墨の唸りに掻き消され、満座の誰もがその言葉の意味を解せぬまま、ただ一人、紅蘭だけが、告白の重さを正面から受け止めていた。
紅蘭の息が、止まった。
(八年前――今、この女は、八年前と言ったか)
燃え落ちた故郷の匂いが、墨の臭気に混じって、胸の底からせり上がる。仕組まれた誤訳の黒幕は、白霜。そして白霜は、故郷を滅ぼしたあの戦の誤訳にも、手をかけていた。後宮の事件と、紅蘭自身の喪失が、一本の糸で、ぴたりと繋がった。
「言葉は、支配する側のためにあるの」白霜は墨の濁流を振り仰いだ。「歪める者が勝ち、信じた者が喰われる。――さあ、戦をお始めなさい。この国も、西燕も、わたくしの一語で」
紅蘭は、懐の写しを握りしめた。西燕の原典。「セナ」が、本当はどう書かれていたかを記した、ただ一枚の紙。
これを満座の中央で広げ、正しく訳し直せば――大妖は祓える。戦は、止められる。
(だが)
原文を読むには、西燕の古語を七つ目の母語のように操ると、満座の前で証さねばならない。一介の少年通訳官に、できる芸当ではない。亡国の翻訳姫が、男装して紛れ込んでいたと、知れ渡る。
李冰が女だと露見すれば、後宮を欺いた罪で首が飛ぶ。亡国の姫だと知れれば、政治の駒にされる。後宮へ潜り込んでからの日々、胸の布も、声色も、墨で汚した指先も、すべてはこの正体を隠すためのものだった。それが、この一歩で、永遠に崩れる。
黙っていればいい。末席で身を縮めていれば、誰も、少年通訳官の正体になど気づかない。
(――だが、それで?)
黙したまま戦が始まれば、また二つの国が焼ける。今度は、誤訳を握り潰した者の側に、私が立つことになる。九つの夜、家族ごと故郷を奪った、あの沈黙の側に。
「李冰」
墨の濁流の向こうから、低い声。柱に凭れた皇弟・蒼月が、紫の衣を墨に濡らしながら、まっすぐに紅蘭を見ていた。からかいの色は、もう、ない。
「――お前の言葉が、要る場所だ」
紅蘭は、目を閉じた。
誤訳で、二つの国がまた焼ける。九つの夜と、同じ光景が、いま満座で繰り返されようとしている。
(言葉の事故は、もう、たくさんだ)
奥歯を、強く噛む。胸に巻いた布が、息に合わせて軋んだ。
首が飛ぶ。それでも。
ここで黙って訳さなければ、私はあの夜、誤訳を握り潰した者たちと、何も変わらない。
紅蘭は、瞼を上げた。冷たい汗の滲んだ手で、懐の写しを抜き、それを胸の前で、はらりと広げる。
そして、墨の濁流が逆巻く満座の――その中央へ向けて。
平らな胸の少年通訳官は、正体露見を覚悟で、一歩を、踏み出した。
第26話、お読みいただきありがとうございます。第3章のクライマックス、ついに国書の誤訳が、国家級の大妖を呼び覚ましました。
これまで紅蘭が回廊で祓ってきた靄とは、桁違いの墨の濁流。和平の盟約だったはずの一語「セナ」に一字が足され、「セナル=膝を折る」と歪められ、両国の面子が潰れ、いままさに戦が始まろうとしています。そして、すべてを仕組んだ黒幕が、満座で正体を現しました――女官長・白霜。後宮の誤訳事件も、八年前に紅蘭の故郷を焼いた戦の誤訳も、彼女の一語だったのです。
大妖を祓える者は、原文を正しく訳せる者だけ。けれどそれは、「李冰」が女であり、亡国の翻訳姫であると、満座に証すことに等しい。首が飛ぶと知りながら、紅蘭は写しを手に、一歩を踏み出しました。
次回――満座の中央で、彼女は何を、どう訳し直すのか。ブックマーク・評価で応援いただけると、紅蘭が次の一語を書く励みになります。




