第24話:使節、来たる
隣国・西燕の使節が都に入った朝、煌の宮城は、紅蘭がこれまで見たどの祭礼よりも、固く張り詰めていた。
朱と金で塗り込められた正門に、見慣れぬ旗が並ぶ。藍と銀の、隣国の色だ。二十年来、煌と西燕は国境で刃を交えてきた。紅蘭の故郷を焼いた、あの遠い戦とは、別の戦だ。その二国が、ついに和を結ぶ。
締結の証となるのは、一巻の国書。両国の皇が署する、和平条約の文だった。
通訳房から正門の人波を見下ろして、李冰――男装の紅蘭は、胸の奥で静かに息を詰めた。
(言葉ひとつで、戦は始まる。なら、言葉ひとつで、終わらせることもできる)
九つの歳、たった一語の誤訳が二つの国を焼いた。あの夜の逆を、いま、この都でやろうとしている。そう思うと、指先が、わずかに冷えた。
使節の正使は、サルガという名の、白髪を編み込んだ偉丈夫だった。馬上から宮城を見上げる目に、敵意はない。ただ、慎重だった。たどたどしい煌語で「和を、運んでまいった」と告げる声に、長く戦った者の疲れが滲んでいた。
使節の一行は、宮城の客館へ通された。締結の儀は、二日の後。その日まで、両国の文官が国書の文言を擦り合わせ、双方の言葉で寸分違わぬ一巻へと仕立て上げる。一字でも食い違えば、和は成らない。
後宮もまた、ざわめいていた。長い戦の間に、夫や兄を戦場へ取られた妃は少なくない。和が成れば、もう誰も、刃の下へ送られずに済む。期待と、にわかには信じられぬ不安とが、朱と金の宮を、ひたひたと満たしていた。
その日の午後、通訳房に、通訳長・黎大人が一同を集めた。
「条約の国書――その訳を、誰が担うかが、決まった」
房の空気が、ぴんと張る。国書の翻訳は、通訳官にとって最も重く、最も誉れある務めだ。西燕の古語と煌語、その双方を正しく移し替えられる者でなければ、務まらない。
紅蘭は、懐の原文の写しに、そっと手を添えた。七つの言語が頭の中で光って見える自分なら、務まる。務めたい。倒された一語で人が死ぬのを、もう見たくない。
だが、黎大人の口から出たのは、別の名だった。
「国書の訳は、女官房付きの通訳に委ねる。後宮の儀礼に通じ、上つ方の信も篤い者だ」
李冰、ではなかった。
房の隅で、紅蘭はわずかに眉を寄せた。女官房付き――つまり、白霜の差配する手の者だ。
「黎大人」紅蘭は声を抑えて進み出た。「西燕の古語は、宮廷の儀礼語とは別系統です。和平の文は、一語の取り違えが、両国の面子を潰しかねません。原文の照合だけでも、私に――」
「ならぬ」
黎大人の声は、いつになく硬かった。形式主義のこの上司が、かつて紅蘭の正訳に折れたこともある。だが今日の彼は、目を合わせようとしない。
「これは、上つ方のお決めになったことだ。国書は、女官房から出て、女官房へ戻る。お前が触れることは、ない」
(……女官房へ戻る)
紅蘭の背を、冷たいものが伝った。国書は、白霜の手の内で訳され、白霜の手の内で読み上げられる。誰の目にも、触れぬまま。
(なぜ、私ではない)
握った写しの端を、指の腹で押す。誉れが欲しいのではない。ただ、西燕の古語を儀礼語のついでに扱える者など、この宮にそう多くはいない。最も適した手をわざわざ退けて、女官房に握らせる。その不自然さが、喉に小骨のように刺さった。
西七宮の事件も、ノアの夜も――白霜は、いつも「どちらにも訳せる一語」だけを倒してきた。ならば、国家の和を誓う一巻に、その手が伸びていないと、どうして言える。
房を出た回廊で、紫の衣が壁に背を預けていた。皇弟・蒼月。
「いい話ではなさそうだな、その顔は」
「国書の訳が、女官房に握られました」紅蘭は短く言った。「白霜の手の内で、誰の照合も受けずに」
蒼月の目が、すっと細くなる。からかいの色はない。「黒幕が、国家の文に手を伸ばした、ということか」
「まだ、何も起きてはいません。ただ――」
(嫌な、予感がする)
紅蘭は、言葉を呑んだ。証はない。あるのは、八年前に焼けた故郷の匂いに似た、胸の底の冷えだけだった。
「予感、か」蒼月は、壁から背を起こした。「お前の予感は、よく当たる。――いいか、一人で踏み込むな。動くなら、俺を連れていけ」
紅蘭は、答えなかった。だが、断りもしなかった。守られる側だった自分が、いつのまにか、皇弟と並んで黒幕の手を読む側に回っている。
その冷えを、もう一人、分かち合う者がいた。
夕刻、通訳房を訪ねてきたのは、桂才人だった。褐色の肌に、異国の刺繍衣。その顔は、いつにも増して張り詰めている。
「李冰。西燕と煌が、和を結ぶというのは――本当なの」
「ええ。明後日には、国書が交わされます」
桂才人は、胸の前で両手を、固く握り合わせた。
「私の故国は……西燕の、隣にある。煌と西燕が和せば、その道は、私の国にも繋がる。戦の道が、和の道に変わる。ずっと、ずっと、願ってきたこと」
たどたどしい煌語が、祈るように震えた。いつか彼女が紅蘭の手に握らせた、和を願う故国の言葉。その願いが、いま、現実の条約の上に、重なろうとしている。
「だから……怖い。言葉が、また、別のものに変わってしまうのが」
桂才人の瞳が、まっすぐ紅蘭を射た。「あなたは、その国書を、訳すの?」
紅蘭は、すぐには答えられなかった。
「……私の手には、回ってきません」
桂才人の顔が、目に見えて強張った。「では、誰が」
その問いに、紅蘭は答えを持たなかった。
桂才人は、衣の袖に縫い取られた、和を願う故国の文字を、そっと指で押さえた。いつか紅蘭の手に託したのと、同じ言葉だ。
「あなたに、託したわ」声が、震えた。「正しく訳して、と。でも――その一巻に、私の言葉が届く前に、別の手が、触れているのね」
紅蘭は、唇を結んだ。桂才人の故国の望みまでもが、白霜の手の内に握られたのだと、胸の底で、静かに悟っていた。
夜半、通訳房に、一枚の紙が回ってきた。締結の儀で読み上げられる、国書の煌語訳――その、ごく一節の写しだった。記録のための、形ばかりの回覧。訳そのものは、あくまで女官房の手の内にある。
紅蘭は、触れるなと言われた訳の、その端だけを、目にした。
西燕の古語で書かれた原文の写しは、いつものように懐にある。頭の中で、両の文が、淡く光って並んだ。
和を誓う、一節。原文は――「両国、相並びて、天を戴かん」。肩を並べ、共に天を仰ぐという、対等の盟いだ。その核に置かれた一語が、《セナ》。西燕の古語で「相並ぶ」を指す、誓いの語だった。
(……並んで、立つ)
煌語訳の、その一句へ目を移す。読み下せば、意味は通っている。和を誓う文として、表向き、どこも破綻してはいない。
だが。
紅蘭の目が、《セナ》の移し方に、ほんの一瞬、引っかかった。語の据わりが、わずかに傾いている気がする。対等の盟いにしては、どこか――一方へ、重心が寄っているような。
(気の、せいか)
確かなことは、何も言えなかった。手元にあるのは、原文のごく一節と、訳のごく一節だけ。きちんと突き合わせるには、紙が足りない。指先でなぞった違和感は、形になる前に、するりと逃げていく。
それでも――ノアの夜も、謝の夜も、はじまりはいつも、この小さな引っかかりだった。どちらにも訳せる一語が、ほんのわずか、悪いほうへ傾いているときの。
紅蘭の指先が、紙の上で止まった。背筋を、八年前に焼けた故郷の匂いが、かすかに撫でていく。
「――この一語、確かめておかねば」
まだ、決めつけるには早い。和を誓う文の、たった一語。気のせいかもしれぬ、わずかな傾き。だが、この胸騒ぎを、放ってはおけなかった。
明後日、これが満座で読み上げられる、その前に。
紅蘭は、懐の原文の写しを、強く握りしめた。
第24話、お読みいただきありがとうございます。第3章「亡国の影」もいよいよ大詰め、隣国・西燕の和平使節が来朝し、八年以上続いた対立に終止符を打つ国書が、交わされようとしています。
けれど、その最も大切な一巻の訳が、紅蘭の手には回りませんでした。握っているのは、女官房――白霜の手の者です。第5話で桂才人が紅蘭に託した「和を願う故国の言葉」も、いまこの和平に重なっています。だからこそ、訳が誰の手にあるのかが、重い。
そして紅蘭は、和を誓う一語の据わりに、かすかな違和感を覚えます。まだ確証はなく、気のせいかもしれない、わずかな傾き。けれど、あの「どちらにも訳せる語を、悪いほうへ倒す」手口の、はじまりの匂いでした。武器は、最後まで言葉だけ。次回、紅蘭は原文の写しと突き合わせ、その違和感の正体を突き止めます。和平の文が、戦の文に化ける前に――。
面白いと思っていただけたら、ブックマーク・評価で応援いただけると、紅蘭の励みになります。




