日本語には主語はない?
男「主語の話をしよう」
女「ちょっと待てや、今はそれどころじゃないでしょ」
男「ああ、心配しないで。後できちんと書くから」(当時作者は「描写の基礎的な考え方2」をまだ出していなかった)
女「本当かねえ」
男「まあまあ、それじゃあいくよ」
この文章の主語はなんだろうか。
・象は鼻が長い。
主語は象、だろうか。
否、答えは鼻である。象が長いのではない。長いのは鼻である。
故に、「鼻」は主語で、「長い」は述語である。
これは象鼻文と呼ばれる例文である。
女「ほう、主語の候補は二つあるのにね」
男「僕らは無意識の内に読んでいるが、いざ主語を決めるとなると、難しい」
女「「は」と「が」がついたら主語、とかよく聞くけど」
男「そうとは限らないさ。「は」という助詞がかなりファジーなのさ。下の引用を見よう」
A▼ページURL
http://homepage2.nifty.com/office_takagi/015essay.htm
▼ページタイトル
(15)「日本語に主語はいらない」だって!−その2
より引用
B『日本語文法の謎を解く』より引用
−−以下引用B−−
<総主論争>
これは、最初の学校文法の提唱者である大槻文彦が「文は主語と説明語よりなる」と1897年に主張したのを受けたもので、草野清民という若い文法研究者が直ちに異を唱えた。
大槻は、主義や説明語はひとつの文の中に複数あり得るとした。
例えば、次のような文を、その下方のカッコに入った言葉で説明したのである。
東京の都は 面積 広く、 人口 多し。
(主語) (主語) (説明語) (主語) (説明語)
大槻の主張はつまり二重主語文である。
なお、この文で「は」の付かない「面積」や「人口」は後に「面積が」「人口が」と変わる。
−−引用B終−−
つまり、「東京の都は」という言葉は述語がない主語になる。
もしくは、主語でもなんでもない謎の言葉になる。
この事にたいして、草野清民という学者は、次のように説明した。
総主というものがある、と。
総主とはどのようなものなのか、Aから引用させて頂こう。
−−以下、引用A−−
草野清民は、明治の文法学者の重鎮・大槻文彦にもの申したわけですが、それは、総主というものがあるとして、次のように説明したというのです。
東京の都は 面積 広く、 人口 多し。
(総主) (主語) (説明語) (主語) (説明語)
この文で、草野は「は」のつくものを「総主」、「が」のつくものを「主語」と呼んだそうです。
−−引用A終−−
この解釈はなるほど、と言えなくもないのだが、この話はまだまだ物議を醸す。
最終的に僕が納得がいったのは、日本語には主語がない、という説だ。
女「いや、日本語にも主語はあるだろ」
男「いやいや、違うんだ。主語があるのは外国語だ」
女「つまり?」
男「主語、という概念は外国から来たんだよ」
女「……ふむ?」
男「つまり、日本語にはそもそも主語、という概念がなかったんだよ。だから、今になってこんな問題が生まれたんだよ」
もう少し引用させて頂く。
「日本語主語無用論」を最初に唱えた、三上章という学者がいる。
彼の代弁者である金谷氏は、次のように語った。
−−以下、引用B−−
この文には主語がひとつもない。
日本語にそもそも主語など不要なのだから当然と言えば当然だが、二重主語どころではないのだ。
「象は」は主題であり、文がここで切れている。「象について話しますよ」と聞き手の注意を引いておき、それに続く話し手のコメントが「鼻が長い」だ。
「主語」という外来の範疇に囚われているから総主「論争」などが出てくるので、これは初めから前提が間違っている「疑似問題」なのである。
『日本語文法の謎を解く』79〜80ページ
−−引用B終−−
女「……うーむ、なるほどね」
男「主語、とはsubject。
日本語でこそ『主』だから、まるで文の主人公のようなニュアンスがある。
ところが英語では、『sub(受け身のニュアンス)』。
英語の解釈ではこうだ。『subjectは周囲の修辞語に支えられている物だ』
つまり、subjectは周囲に飾りたてられるというのが英語の考え方だ。
ところが、日本語では『主』だ。
日本語では『話題の主体(主題)という意味での主語 = 総主』と『被修辞語としての主語』がごっちゃに扱われているんだな」
女「だから、話題の主体「東京の都は」が主語に見えちゃう、と」
男「うん。主語、という和訳がまずかった。被修辞語、という和訳ならよかったかもしれない」
女「んで、文章の書き手としてこれをどう活かせばいいのかな?」
男「さあ」
女「おい」
男「まあ、この知識は無駄にはならないさ。
例えば主題や主語。これをころころと変えてしまうとわかりにくい文章になるんだ。
その点、主題や主語を統一しておくと文がすらすらと読める。
Bの引用では、夏目漱石の例があげられている」
−−以下、引用B−−
三上は、冒頭の題目「吾輩は」の文はピリオドを3回にわたって越えている、と分析する。つまり、以下のような方で示せるのである。
吾輩は−−>猫である。
−−>名前はまだない。
−−>どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。
−−>なんでも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事丈は記憶して居る。
こう説明されると、「は」のスーパー助詞ぶりは明らかだろう。それぞれの述語との文法関係とは一切無関係のまま、「は」はひとつひとつの文に係っては結び、その勢いを次へ次へと及ぼすことが出来るのだ。
−−引用B終−−
一方、主語や主題をころころ変えるとこうなる。
民謡学者である彼には、空が一瞬近く見えた。
都会の空の銀の色は、今はもう息をひそめている。
この錯覚は、彼がいかに都会っ子だったかを示している。
透明な空は大変新鮮で、零れ落ちそうな星の光一つ一つが彼の心を掴んで離さない。
女「これはこれでよさ気な気がしなくもない」
男「だね。ただ、『吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。なんでも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事丈は記憶して居る。』みたいなリズム感はないね。
この引き込まれるようなリズムが小説の冒頭にくるとなったら、そりゃあもうプロだろうか。
『民謡学者である彼には、』の方は、リズムが延びているね。情景をゆっくり描写する手法としては悪くない。
このシーンではまさに情景を描写しているから悪くないように思うんだな。
逆に、リズムよくとんとん拍子に話を進めたいなら、主語は整えたほうがいいね」
女「つまり、どうでもいいようなシーンは主語を揃えてサクッとすませちゃえ、みたいな?」
男「まあ、『主語を揃えて』というよりはむしろ、『文を短くして』サクッとすまして欲しいね」
女「ふむ、なるほど」
男「というわけで主語の話でしたー」
女「久しぶりにためになる話だ」
男「おいこら」