毒味のいらないスープと、武装解除の夜
毒味のいらないスープと、武装解除の夜
「はい、お待たせ。コンソメスープ、ベーコンと玉ねぎ多めに入れておいたから。温かいうちにどうぞ」
ふわりと立ち上る湯気とともに、ヒカリはコトンとマグカップをローテーブルに置いた。
部屋中に、炒めた玉ねぎの甘い匂いと、胡椒のスパイスの香りが広がる。
ソファに背筋をピンと伸ばして座っていたシンは、差し出されたマグカップをじっと見つめた。
手を出そうとして、無意識にピクリと指が止まる。
彼が地球でシークレットサービスとして生きていた頃から、そしてこの危険な異世界にやって来てからも、彼にとって「他人が作った食事」とは「最も警戒すべき毒物」と同義だった。
だからこそ、彼は自身のユニークスキル【安全保障配給】を使い、毒物混入率0%の、しかし味気ない栄養ブロックや無機質な携帯食ばかりを口にして生きてきた。
(……このスープに、自白剤や遅効性の毒が入っている確率は? いや、そもそもこの空間のルールが本当ならば、悪意のある物質は機能しないはず……)
シンの脳内で、プロとしての危険予測が高速で回転する。
しかし、そんな彼の葛藤をよそに、ヒカリは向かいの椅子に座り、自分の分のマグカップを両手で包み込んで「ふーっ、ふーっ」と息を吹きかけていた。
「どうしたの? 熱かった?」
「あ、いえ……」
「安心してね。睡眠薬も毒も入ってないから。入ってるのは、スーパーの特売で買ったベーコンの旨味だけだよ」
ヒカリはえへへ、と笑ってスープを一口飲んだ。
その、あまりにも無防備で、日常の延長線上にしかない彼女の仕草に、シンの胸の奥がチクリと痛んだ。
自分がどれほど異常な警戒心の中で生きているかを、思い知らされるようだった。
シンが意を決してマグカップに手を伸ばそうとした、その時だった。
「――ゲホッ! ゴホッ……! ぜえ、ぜえ……」
ギィィ……と、ログハウスの扉が重々しい音を立てて開いた。
シンは瞬時に立ち上がり、反射的に腰のホルスターへ手を伸ばす(が、銃はまだ部屋の隅でふかふかのクッションに包まれて浮いている)。
「そこまでだ! 動くな!」
シンの鋭い声にビクッと肩を揺らしたのは、扉の隙間からよろよろと入ってきた二人の少女だった。
一人は、頭にピンと張ったウサギの耳を持つ、ラフなパーカー姿の美しい女性。
彼女の腕には大量の書類が抱えられているのだが、その口元からはタラリと真っ赤な血が流れ落ち、書類を赤く染めていた。
「ぜえ……村の境界に、異常な魔力反応……村長として、確認、しなきゃ……ゲホッ!」
「ちょ、ちょっとキャルルさん!? また自分の血を抜いて治癒薬を作ったんですか! 死にますよ!」
シンが血相を変えて叫ぶ。彼女はポポロ村の村長、キャルル・ムーンハートだった。
そして、そのキャルルの背後から、芋ジャージに健康サンダルという絶望的にダサい格好をしたもう一人の少女――リーザが、ふらふらと幽鬼のように顔を出した。
彼女の口には、カチカチに乾燥した『パンの耳』が咥えられている。
「くんくん……何か、すごく美味しくて……温かい匂いがしますわ……。パンの耳じゃない、貴族の食べ物の匂いが……」
血を吐きながら書類仕事をするウサギ耳の村長。
パンの耳をかじりながら飢餓状態をさまようジャージの美少女。
その異様すぎる光景に、ヒカリは固まった。
だが、それは恐怖によるものではない。ヒカリの前世――ブラック企業で培われた「社畜のセンサー」が、限界突破の警報を鳴らしたのだ。
「ちょっと! 血!? 吐血してるじゃないですか! それにそっちの子、なんでそんな干からびたパンの耳なんて食べてるの!?」
ヒカリは慌てて駆け寄ると、ポケットからお手製の『人参柄の刺繍ハンカチ』を取り出し、キャルルの口元の血をぐいっと拭った。
「えっ……あ、あの」
「喋らないで! 血を吐きながら仕事するなんて、労基が黙ってないよ! っていうか過労死するよ!」
「ろ、ろうき……?」
「そっちの子も! そんなパンの耳、栄養ないでしょ!」
ヒカリは空中に浮かぶ半透明のパネル【ダンジョンクリエイト】を素早く操作した。
パァン!と軽い音が鳴り、マスタールームの空間がググッと横に広がる。そこに出現したのは、大きなダイニングテーブルと、ふかふかの座布団が敷かれたこたつ、そして大量の焼きたてパンと温かいシチューだった。
「ほら、二人ともそこに座って! 血が止まるまで動いちゃダメ! パンもシチューも好きなだけ食べていいから!」
ヒカリは強引にキャルルとリーザの手を引き、温かいこたつへと押し込んだ。
「あ、あわわ……こ、こんな温かいお食事、本当にいただいても……?」
リーザが感極まったようにシチューの皿を抱きしめる。
「私……こんな風に、誰かに優しく叱られたの、初めて……」
キャルルは、ヒカリから渡された人参柄のハンカチをぎゅっと握りしめ、頬を赤らめてヒカリを見つめていた。
「全く、どいつもこいつもボロボロじゃない……」
ヒカリは腰に手を当てて、ふう、と息を吐く。
前世のイベント会社でもそうだった。みんな疲れて、倒れる寸前まで働いて、誰も自分を大切にしていなかった。
(……決めた。もしこの世界が、こんなに過酷でボロボロな人たちばっかりなら)
ヒカリの中で、「おもてなし」と「空間プロデュース」の魂に火がついた。
(私がここを、世界一安全で、誰もが心底休める『極上の娯楽施設』にしてやる!)
ヒカリが一人で勝手に決意を固めている間。
部屋の片隅のソファで、シンはその光景を静かに見つめていた。
血を吐く村長。飢えた少女。そして、侵入者である自分。
本来なら、武力で制圧するか、警戒して追い出すべき不審者たちだ。
それなのに、目の前の女性――ヒカリは、全員を等しく「ただの疲れている人たち」として扱い、温かい場所と食事を与え、当然のように世話を焼いている。
(……この空間には、本当に誰も傷つけるものが存在しない)
シンは、手の中ですっかり適温になったマグカップを見下ろした。
ゆっくりと、唇をつける。
そして、コンソメスープを一口、飲み込んだ。
「――っ」
玉ねぎのじんわりとした甘み。ベーコンの塩気。
胃の腑に落ちたそれは、ただの温かい液体ではなかった。
「食べて、休んでほしい」という、誰かの純粋な気遣いそのものだった。
数年間、常に「誰かに狙われている」「毒が入っているかもしれない」と怯え、武器を抱いて浅い眠りを繰り返してきたシンの身体に、その温かさが細胞の隅々まで染み渡っていく。
張り詰めていた鋼の糸が、ぷつりと切れた。
「あ……」
シンの瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
一度決壊した涙は、もう止まらなかった。
銃を構える手も、周囲を警戒する視線も、すべてがどうでもよくなるほどの、絶対的な安心感。
「美味しい……。本当に、美味しいです……」
シンはマグカップを両手で包み込んだまま、声を震わせて泣いた。
そして、スープを最後の一滴まで飲み干した瞬間、彼を苛んでいた極限の緊張が完全に溶け落ちた。
「……えっ? お兄さん、泣いて……わっ!?」
ヒカリが振り返った時、シンはマグカップをテーブルにコトンと置き、そのまま横倒しにソファへ倒れ込んでいた。
「ちょっと! 大丈夫!? 救急車! ……あ、異世界に救急車ない!?」
ヒカリがパニックになりながら駆け寄ると、シンからは規則正しい、深く穏やかな寝息が聞こえてきた。
彼は気を失ったのではない。数年ぶりに、心からの安心に包まれて「泥のような深い眠り」に落ちたのだ。
「……なんだ、ただの寝落ちか。びっくりさせないでよ」
ヒカリはホッと胸を撫で下ろし、システムから取り出した毛布を、丸くなって眠るシンの肩にふわりと掛けた。
こたつでは、リーザが「美味しいですわぁぁ!」と泣きながらシチューを平らげ、キャルルが「ヒカリお姉ちゃん……」と熱い視線をこちらに向けている。
そしてソファでは、正体不明の黒服の男が、子供のような顔で熟睡している。
「……ふふっ。いらっしゃいませ、私だけの絶対安全ダンジョンへ。今夜はみんな、ゆっくり休んでね」
限界社畜OLと、世界一臆病で過保護な暗殺者。
そしてワケありの村人たち。
彼らが本当の意味で「家族」となり、このダンジョンを大陸一のテーマパークへと作り変えていく物語は、この温かいスープの夜から始まった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
常に毒味を気にし、眠ることすら恐怖だったシンくん。
ヒカリちゃんの「当たり前の優しさと温かいスープ」に触れて、ついに心が限界突破(良い意味で)して熟睡してしまいました。
ヒカリちゃんの社畜センサーにかかれば、血を吐く村長も飢えたアイドルも、ただの「休ませなきゃいけない人」です!(笑)
次回からは、この居候たちを巻き込んで、ダンジョンを本格的な「娯楽施設」へと発展させていく準備が始まります。
目覚めたシンくんの、ヒカリちゃんに対する『限界突破した過保護&溺愛』もいよいよスタートです!
「シンくん、ゆっくり寝てね!」「ヒカリちゃんの優しさに泣けた」「ここからどうやって遊園地を作るの?」と思っていただけましたら、
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皆様からの応援やポイントが、ヒカリちゃんたちのテーマパークを広げる最高の建材になります。
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