第9話 王妃の不興
娘に送った手紙は、まだ戻ってこなかった。
フォーリア侯爵は、執務机の上に置かれた封蝋の控えを見つめていた。銀の葉をかたどった侯爵家の印。代々、王家に仕えてきた証でもある。
その印を押した手紙に、アデリナが返事をしない。
そんなことは、これまで一度もなかった。
幼い頃から、あの娘は聞き分けがよかった。母を早くに亡くしても泣きわめかず、家庭教師の課題を遅らせず、社交界に出てからも過不足なく振る舞った。
王宮礼法局に入ってからは、さらに落ち着いた。
王妃様から信任を受け、慈善会にも外交夜会にも名を連ねる。フォーリア家の娘として、これ以上ない働きだった。
だからこそ、今回のことは困る。
非常に困る。
「旦那様、王宮よりお使いが」
家令が扉の前で告げた。
侯爵は背筋を伸ばした。
「通せ」
入ってきたのは、王妃付き侍従の一人だった。柔らかな物腰の男だが、その袖口には王妃宮の銀糸が光っている。それだけで、部屋の空気は少し重くなった。
「侯爵閣下。王妃殿下より、フォーリア嬢のお体を案じておられるとのお言葉でございます」
「恐れ入ります。娘は一時の疲れから、少々取り乱しているだけでございましょう。すぐに私からも戻るよう申し含めます」
言葉は淀みなく出た。
父としてではなく、侯爵として。
侍従は微笑んだまま、少しだけ目を伏せた。
「王妃殿下は、決してお急かしではございません。ただ、慈善会後の礼法局に多少の混乱がございまして」
「混乱」
「花の手配、控室順、寄付目録の扱いなど、細部に確認すべきことが多く」
侯爵は指先を机に置いた。
「礼法局には局長も若い礼法官もいるはずです。娘一人が不在だからといって、王宮の務めが揺らぐことはございますまい」
そう言ってから、侍従の沈黙が少し長いことに気づいた。
「もちろんでございます」
侍従は丁寧に頭を下げた。
「ただ、フォーリア嬢がどちらでご静養か、閣下よりお聞かせ願えればと」
侯爵は返答に詰まった。
アデリナの居場所。
修道図書館らしい、という話は聞いている。王弟殿下が関わっているとも。だが、それを王妃宮の侍従にどう伝えるべきか、侯爵は一瞬で判断できなかった。
娘が父の屋敷に戻らず、王弟の後援する図書館に身を寄せている。
それは、家の管理が届いていないと言っているようなものだ。
「娘は、親族のもとで静養を」
嘘ではない。
王家も広く見れば、王国の親族のようなものだ。そう自分に言い聞かせた。
侍従はそれ以上追及しなかった。
「王妃殿下も、ご安心なさることでしょう。なお、ガルディス伯爵家との件につきましては、伯爵ご本人より、しばし確認のお時間をいただきたいとの申し出がございました」
「確認?」
「はい」
それだけ言って、侍従は退出した。
扉が閉まる。
侯爵はしばらく動けなかった。
ガルディス伯爵が、確認の時間を求めた。
王妃様がご厚情で整えてくださった再婚話に、相手方が間を置いた。アデリナが辞表を出し、屋敷へ戻らず、手紙にも返事をしないからだ。
つまり娘の不始末が、王妃様のお顔を曇らせ、伯爵家にも疑念を抱かせている。
「まったく」
侯爵は声を低くした。
「あの子らしくもない」
その言葉は、部屋の壁に薄く返った。
あの子らしくない。
では、あの子らしさとは何だったのか。
聞き分けがよいこと。
王妃様の思し召しを理解すること。
家名を傷つけないこと。
父の手紙には、必ず返事をすること。
侯爵は椅子から立ち上がった。
落ち着かない時は、家の中を歩くに限る。屋敷は整っている。廊下は磨かれ、壁の肖像は正しく並び、使用人たちは音を立てずに動く。フォーリア家はまだ少しも揺らいでいない。
そう思った。
朝食室の前を通った時、足が止まった。
長卓には、使われていない椅子が一脚あった。
アデリナの席だ。
王宮勤めが始まってから、娘は朝食を屋敷で取ることが減った。それでも椅子はそこに残されている。薄紫の座布は新しく張り替えられ、背には控えめな刺繍がある。
侯爵はその椅子を見た。
最後に娘がここで朝食を取ったのは、いつだったか。
思い出せない。
紅茶が冷める前に席を立ち、王宮から届いた書類に目を通していたことは覚えている。侯爵が「無理をするな」と言うと、娘は「承知いたしました」と答えた。
それだけだ。
顔は、思い出せなかった。
「旦那様」
家令が再び現れた。
「午後の招待状の件で、確認を」
「何だ」
「ローデン辺境伯夫人への返礼状でございます。昨冬の穀物支援について、どの順で謝意を述べるべきか、控えが見当たりません」
「それはお前が管理しているだろう」
「はい。ただ、王宮慈善会に関わるご婦人方への文言は、フォーリア様が毎回お直しを」
「侯爵家の返礼状まで、アデリナが?」
「旦那様のご指示で、王妃宮との整合を取るようにと」
言われて、思い出した。
確かにそう命じた。
王宮の慈善方針と家の社交文書に齟齬があってはならない。アデリナは礼法局にいるのだから、そのあたりは分かるだろう、と。
分かるだろう。
その言葉を、自分はどれほど使ってきただろう。
「控えを探せ」
「探しておりますが、フォーリア様の私的な覚書までは」
「私的な覚書など、家の文書ではない」
「ですが、それがないと夫人方の事情が」
家令は言いかけて、口を閉じた。
侯爵は苛立ちを覚えた。
使用人までが、まるでアデリナの不在を問題の中心に置いている。
娘一人が返事をしないだけだ。
少し疲れ、少し感情的になっただけだ。
聞き分けがよい娘なのだから、すぐ戻る。
そうでなければ、困る。
執務室へ戻ると、机には新しい招待状が置かれていた。
差出人はダルトン侯爵夫人。
王妃主催ではない、小さな午後の集まりへの案内だ。侯爵は封を開き、文面を読んだ。
丁寧な言葉が並んでいる。
だが、そこにアデリナの名はなかった。
以前なら、フォーリア侯爵令嬢にもぜひ、と一行添えられていた。王妃のお気に入り、礼法局の若き才媛。そう呼ばれ、娘の名は家名に花を添えた。
今は、ない。
単なる失念かもしれない。
いや、違う。
社交界は、失念という形で距離を置く。
侯爵は招待状を机に置いた。紙の端が、指に少し食い込む。
王妃様の不興を買う。
それだけは避けねばならない。
そのためには、アデリナを戻す必要がある。礼法局に、王妃様のそばに、あるいはガルディス伯爵家の婚儀の席に。
娘の心情など、後でよい。
そう思った瞬間、朝食室の空いた椅子が頭をよぎった。
後で。
いつも、後でだったのではないか。
母を亡くした後も、社交界に出た時も、王宮勤めで夜遅く戻った時も。侯爵は娘の心情を後回しにした。家名が先で、王妃の信任が先で、手順が先だった。
それで問題はなかった。
少なくとも、これまでは。
「便箋を」
侯爵は家令に命じた。
「もう一通、アデリナに出す。今度は急ぎだ」
銀の葉の便箋が用意される。
侯爵はペンを取った。
アデリナ。
お前の行動は、王妃様のお心を煩わせている。
フォーリア家の娘として、速やかに父のもとへ戻り、事情を説明しなさい。
お前は聞き分けがよいのだから、これ以上大げさにすることはない。
そこまで書いて、ペン先が止まった。
大げさ。
この言葉を、娘はどう読むだろう。
いや、読むだろうか。
前の手紙にも返事はない。
侯爵は便箋を見下ろした。インクが乾く前に、文字の端がほんの少し滲む。
窓の外では、夕方の鐘が鳴っていた。
王宮での会議が終わる時刻だ。以前なら、その頃にアデリナから短い報告が届いた。慈善会のこと、外交客のこと、王妃様のご機嫌のこと。
今日は何も届かない。
侯爵は初めて、王妃の不興よりも静かなものがあることを知った。
父の命令に返事をしない娘の沈黙である。




