第10話 伯母の朱印
伯母様は、父の屋敷で誰よりもまっすぐに歩いた。
ラウレンス家へ封書を送ってから、四日が過ぎた。
その間、父は私の手紙について一度も触れなかった。
怒られないことは、許されたことではない。
それを、私は母が亡くなった頃から知っている。父は大きな声を出さない。代わりに、沈黙で壁を作る。気づいた時には、こちらの逃げ道が細くなっている。
朝の支度を終えた頃、ニナが息を弾ませて部屋へ入ってきた。
「ヴィオラお嬢様。ラウレンス侯爵夫人が、お越しでございます」
櫛を持つ手が止まった。
「伯母様が?」
「はい。まず亡き奥様の肖像へご挨拶を、と」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
伯母様らしいと思った。
父に会う前に、妹である母へ挨拶する。礼を欠いているわけではない。むしろ、誰よりも筋を通している。
私は菫色のリボンを選んだ。母がよく身につけていた色だ。今日は隠さずに結ぶ。
母の肖像画の部屋には、旅装の伯母様が立っていた。
マティルダ・ラウレンス侯爵夫人。
灰色がかった髪をきっちりまとめ、濃紺の外套には馬車道の砂が薄く残っている。母より少し背が高く、目元は鋭い。
けれど、私を見る目だけは、記憶より少し柔らかかった。
「ヴィオラ」
「伯母様。急なお手紙を失礼いたしました」
「迷惑なら返書で済ませています」
それだけ言って、伯母様は私の顔をじっと見た。
「少し痩せましたね」
「そうでしょうか」
「そういう返事をする時は、たいてい痩せています」
ニナが背後で息を止める。
伯母様は彼女へ視線を向けた。
「あなたがニナね。この子が茶を冷めるまで放っておいたら、遠慮なく替えなさい」
「かしこまりました」
私は少しだけ頬が熱くなった。
伯母様は外套の内側から、革張りの書類筒を取り出した。深い赤茶色の革に、ラウレンス家の紋が押されている。
「あなたの手紙は読みました。正式な記録を持ってきています」
心臓が強く鳴った。
父の書斎へ向かう間、屋敷の空気がいつもと違っていた。使用人たちは深く礼をする。高位貴族への礼だけではない。母がこの屋敷にいた頃を覚えている者たちの沈黙が、廊下に薄く漂っていた。
父は書斎で待っていた。
「マティルダ義姉上。急な来訪とは驚きました」
「突然で失礼いたしました、オルディス公爵。ヴィオラから母方財産に関する正式な照会がありましたので」
父の顔は穏やかだった。
けれど、目は笑っていない。
「娘がご心配をかけたようです」
「心配をかける内容だった、とは言えます」
伯母様は机の上に書類筒を置いた。重い音がした。
「エレノア・ラウレンスの婚前財産および遺言に関する正式写しです。ラウレンス家保管印、王都法務院確認印、立会人の署名があります」
取り出された紙は、私が母の書棚で見つけた写しより厚く、端に深い朱印が押されていた。
伯母様は条文の一部を指で示す。
「エルム川流域水利権、白楡の離れ、その付帯収益および管理書類。ヴィオラ・オルディスが十八歳を迎えた後、本人を署名権者とする」
父は黙っていた。
「譲渡、担保設定、共同運用、長期貸与、または婚姻先家産への組み込みには、署名権者本人の確認署名を要する」
聞いたことのある文だった。
けれど伯母様の声で読まれると、母の記憶ではなく、制度としてそこに立ち上がる。
紙の朱印が、私の足元へ小さな杭を打ったようだった。
父がようやく口を開いた。
「それは分かっている」
伯母様の眉が、わずかに動いた。
「では、なぜヴィオラが私へ確認を求める必要があったのでしょう」
「家の中で相談中のことです。義姉上がわざわざ出向かれるほどではない」
「ラウレンス家由来の財産が、婚姻契約に組み込まれようとしているなら、私が出向く理由になります」
父の指が、机の端を押した。
「組み込むと決まったわけではない」
「決まる前だから来ました。決まってからでは遅いことがあります」
書斎の空気が、急に細くなる。
父は私へ視線を移した。
「ヴィオラは少々、婚姻について慎重になりすぎている。母を早くに亡くしたせいで、財産の扱いにも過敏になっている」
過敏。
また、私の判断が感情の箱に入れられる。
けれど今日は、伯母様がその箱の蓋を開けた。
「母を早くに亡くしたからこそ、記録を確認する必要があります」
父は黙った。
伯母様は続ける。
「ダリウス公爵。あなたが法を知らない方だとは思っていません」
「では、何を言いたいのです」
「ご存じのうえで、ヴィオラが父に逆らえない形を作るおつもりではないか、と確認しています」
痛いほどの沈黙が落ちた。
私は息を止めかけた。
扉のそばに控えるオスカーも、わずかに身を硬くしたように見える。
父の声は低くなった。
「ずいぶんな言い方だ」
「妹の娘が、自分の署名について正式照会を出してきました。私は伯母として、この程度は言います」
伯母様の手袋には旅の砂が残っている。
綺麗ではない。けれど、今この部屋でいちばん頼もしい手だった。
父は今度は私を見た。
「ヴィオラ。お前は、伯母上にここまで言わせて満足か」
胸が冷えた。
満足。
私が父を困らせたくて伯母様を呼んだように聞こえる。
私は机の上の朱印を見た。
赤い印。母の意思。私の名前。
「満足ではありません」
声は静かに出た。
「安心しました。母の言葉が、私の記憶だけではなかったと分かって」
喉の奥が熱くなる。
幼い頃、母が台帳を見せてくれた。水は銀貨ではない、と言った。
あれは私の都合のよい思い出ではなかった。紙に残り、印が押され、伯母様がここまで運んできてくれた。
伯母様は、朱印つきの写しを一部、私へ差し出した。
「これはあなたが持ちなさい。原本はラウレンス家に、写しは法務院にもあります。紛失しても、なくなりません」
紛失。
その言葉の選び方に、父が少し眉を動かした。
伯母様はさらに告げた。
「必要になれば、ヘルマン法務官の名を出しなさい。ラウレンス家の古い案件を知っています」
「私が相談してもよいのですか」
「あなたが必要だと思った時に」
母の書き置きと同じ響きだった。
話が終わると、父は礼儀として茶を出させた。
伯母様は一口だけ飲み、すぐ置いた。
「少し渋いですね」
父の眉が動く。
「お気に召しませんか」
「長く蒸らしすぎです。茶葉も、人も、必要以上に押さえれば渋くなります」
笑ってはいけないと思った。
でも、喉の奥で小さな空気が揺れた。
伯母様は母の肖像画の部屋で、最後に私へ言った。
「ヴィオラ。あなたは、よくここまで一人で持ちこたえました」
その一言で、目の奥が熱くなった。
叱られると思っていた。
手紙が遅い、確認が甘い、条件案が未熟だと言われると思っていた。
けれど最初に置かれたのは、その言葉だった。
「礼は、あなたが自分の署名を守り切ってから受け取ります」
やはり厳しい。
でも、その厳しさがありがたかった。
伯母様が帰った夕方、父に呼ばれた。
書斎には、面談日程表が並んでいる。
父はいつもの穏やかな顔に戻っていた。
「ヴィオラ。残りの面談を前倒しにする」
「前倒し、でございますか」
「マリウス子爵は明日。クレイグ殿との再面談はその翌日だ。社交上の予定も入れる。アンネリーゼ夫人の茶会に出てもらう」
急だ。
けれど、分かった。
父は法で押せないなら、社交で囲むつもりだ。
候補者の前で、貴婦人たちの前で、体面という柔らかな縄をかけるために。
私は膝の上の手を握った。
引き出しには、伯母様から受け取った朱印つきの正式写しがある。
私の名前が、そこにある。
「承知いたしました」
父は満足そうに頷いた。
私は礼をして、書斎を出た。
廊下の空気は冷えていた。
けれど胸の中には、小さな赤い印が残っている。
伯母様の朱印。
母の遺言。
私の署名。
父は微笑んだまま、残りの面談日程を前倒しにした。




