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家のため国のためと何度も言われましたので  作者: 九葉(くずは)


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11/12

第11話 候補者ではなく

レイン様が父の書斎へ通された時、私はまだ呼ばれていなかった。


廊下の角で、ニナが盆を持ったまま足を止める。

銀盆の上の茶器が、小さく鳴った。


「グレンヴィル辺境伯様でいらっしゃいますね」


「ええ」


私は返事をしながら、扉の向こうへ目を向けた。


父は昨日、残りの面談を前倒しにすると言った。

マリウス子爵。クレイグ様との再面談。アンネリーゼ夫人の茶会。


その並びの中に、レイン様の名はなかった。


けれど今朝、彼は水路資料の追加確認という名目で屋敷へ来た。

父がそれを許したのは、伯母様の前で彼が「署名権者本人を外して水利権の運用を決めることには反対です」と言ったからだと思う。


父は、まだ彼を測っている。


味方か。

邪魔者か。

それとも、使える候補者か。


私は廊下の窓辺に立ち、指先で袖口の縫い目を押さえた。

今日の袖口には、菫色の糸が細く入っている。ニナが朝、黙って選んだ。


母の色だ。


「ヴィオラお嬢様、書斎へお越しくださいませ」


オスカーが扉の前に現れた。


私は頷き、書斎へ入った。


父は机の向こうに座っていた。

レイン様はその前に立っている。いつもの灰色の上着で、袖口の飾りは少ない。机の上には水路図と数枚の書類が広げられていた。


「ヴィオラ。ちょうどよい」


父の声は穏やかだった。


その穏やかさが、最近は少し怖い。


「グレンヴィル辺境伯が、話があるそうだ」


レイン様がこちらへ向き直る。


「ヴィオラ様。お時間をいただきます」


「はい」


私は椅子に腰を下ろした。


レイン様は一枚の書類を机へ置いた。

水路図ではない。

短い文面の、公的な書式だった。


「本日をもって、私はオルディス公爵令嬢の婚約者候補を辞退いたします」


言葉が、書斎の床へ静かに落ちた。


私はすぐには息ができなかった。


父の眉が動く。


「突然だな」


「突然に聞こえることは承知しております。ですが、これ以上候補者として面談を受けながら、ラウレンス水利権の照合に関わるのは適切ではありません」


レイン様の声は低く、落ち着いていた。


甘さも、遠慮もない。


「水利権の署名権、旧協定、北境との流量記録。いずれも婚姻条件と関わり得ます。私が候補者の一人である限り、助言のすべてに利害がつきます」


父は椅子の肘掛けに指を置いた。


「君は、ヴィオラとの縁を望まないということか」


その問いに、私の胸が少しだけ痛んだ。


望まない。


言葉はまっすぐなのに、どこか冷たい。


レイン様はすぐに答えなかった。

一拍置いてから、静かに言った。


「望む、望まないを申し上げる段階ではないと考えています」


父の目が細くなる。


「では、なぜ候補を降りる」


「ヴィオラ様が、ご自身の署名と財産について確認を進めておられるからです」


レイン様は、そこで初めて私を見た。


「その確認に私が関わるなら、候補者でいるべきではありません」


胸の奥で、何かがゆっくりほどけた。


彼は私を選んだ、と言ったのではない。

守る、とも言わない。

ただ、利害を外すと言った。


その距離が、かえって誠実だった。


父は薄く笑った。


「君が降りれば、グレンヴィル家は水利協定で不利になるかもしれない」


「不利を避けるために候補者でいるほうが、不誠実です」


「正直だな」


「実務上、後で疑われる形を残すほうが面倒です」


父の笑みが少し消えた。


面倒。


その言葉は美しくない。

けれど、レイン様らしかった。綺麗な理想ではなく、後で崩れない形を選ぶ人の言葉だ。


私は膝の上で手を重ねた。


「レイン様は、候補者ではなくなった後も、水路資料の照合には関わってくださるのですか」


父がこちらを見る。


余計なことを言うな、という目だった。


けれど私は、尋ねたかった。


レイン様は頷いた。


「北境とラウレンス水利の協定は、婚姻とは別の問題です。必要であれば、参考資料と流量記録は提出します。ただし、ヴィオラ様個人の婚姻条件には口を挟みません」


「私が、意見を求めた場合は?」


言ってから、自分でも少し驚いた。


父の視線が鋭くなる。


レイン様は、そこでほんの少し困った顔をした。


「水利や契約手続きについてなら、お答えします。ですが、誰を選ぶべきかについては申し上げません」


「なぜですか」


「それは、私の答えではなく、ヴィオラ様の答えであるべきです」


静かな言葉だった。


褒められてもいない。

慰められてもいない。

なのに、背筋が伸びた。


私はずっと、誰かに選ばれる席に座らされていた。

父に。候補者たちに。家に。


でもレイン様は、私に選べと言う。


その言葉は優しくない。

逃げ道をくれないからだ。


けれど、今の私にはその厳しさが必要だった。


父が書類を手に取る。


「正式な辞退書か」


「はい。グレンヴィル家の印も添えてあります」


「理由は、水利照合に関する利害関係の整理」


「その通りです」


父はしばらく書類を見ていた。


破り捨てることはできない。

レイン様の辞退は、公的な形を取っている。候補者の気まぐれではなく、家としての判断になっていた。


「分かった」


父は短く言った。


「グレンヴィル辺境伯を、候補者名簿から外す」


その言葉が、思ったより重く胸へ落ちた。


候補者ではなくなる。


それは、父の名簿から消えるということだ。

同時に、父の縁談の道具ではなくなるということでもある。


寂しさに似たものが、少しだけ胸をかすめた。

けれど、その奥に安堵があった。


レイン様は礼をした。


「ありがとうございます」


父は皮肉げに言う。


「それで、君は何になるつもりだ」


「水路協定の照合に関する参考人です」


少しも迷わない答えだった。


父は面白くなさそうに息を吐いた。


「便利な立場だな」


「不便な立場のほうが、後で役に立つことがあります」


私は思わず、レイン様を見た。


不便な立場。


それはたぶん、候補者として近づくより、ずっと遠い。

甘い言葉を言うこともできない。婚姻の席で私を庇うこともできない。


けれど、調停や契約の場では、その遠さが必要になる。


父は書類をオスカーへ渡した。


「記録しておけ」


「かしこまりました」


オスカーが受け取る。

その手つきは、いつも通り丁寧だった。


候補者名簿から、また一人消える。


でも今回は、私が落としたのではない。

相手が、自分で降りた。


その事実が、不思議に胸へ残った。


レイン様が退室する前、私は声をかけた。


「レイン様」


「はい」


「なぜ、今日だったのですか」


父の前で聞くべきではなかったかもしれない。

けれど、聞かずにはいられなかった。


レイン様は少しだけ考えた。


「マティルダ侯爵夫人が正式写しを持って来られたと聞きました」


「伯母様が?」


「はい。ならば、ヴィオラ様の確認は家の中の不安ではなく、正式な手続きになりました。私が候補者でいる理由は、もうありません」


正式な手続き。


私が震える手で出した手紙が、伯母様を動かした。

伯母様の朱印が、レイン様の立場を変えた。


一つ一つは小さな紙なのに、確かに何かが動いている。


「ありがとうございました」


私が言うと、レイン様は首を横に振った。


「礼を受けることではありません」


「それでも」


「では」


彼は少しだけ視線を落とし、また上げた。


「今後、私の言葉は候補者の言葉ではありません。疑ってください」


一瞬、意味が分からなかった。


「疑う、ですか」


「はい。参考人の意見として、資料と照らしてください」


それを言って、彼は礼をした。


優しさの形が、こんなに硬いこともあるのだと思った。


レイン様が出ていくと、書斎には父と私だけが残った。


父は椅子に座り直し、机の上の候補者名簿を開いた。

赤い線で、グレンヴィル辺境伯の名が消される。


その線はまっすぐだった。


「これで候補は減った」


「はい」


「だが、婚姻の話がなくなったわけではない」


「承知しております」


父は私を見た。


「マリウス子爵との面談は予定通り行う。クレイグ殿との再面談もだ」


「はい」


「グレンヴィル辺境伯の辞退を、特別な意味に取るな」


私は少しだけ息を吸った。


「候補者ではなくなった、という意味に取ります」


父の目が冷えた。


けれど、それ以上は何も言わなかった。


自室へ戻ると、ニナが温かい茶を用意していた。


「グレンヴィル辺境伯様は……」


「候補を辞退なさったわ」


ニナの手が止まる。


「そうでございますか」


彼女はそれ以上、聞かなかった。


私は椅子に座り、カップを手に取った。

茶はまだ温かい。


窓の外では、レイン様の馬車が門を出ていくところだった。


遠ざかる車輪の音を聞きながら、私は机の引き出しを開けた。

伯母様から受け取った朱印つきの写しが、そこにある。


その隣に、新しい紙を一枚置いた。


候補者名簿ではない。

婚姻契約条件案でもない。


水利協定照合記録。


そう書き出して、私はペンを止めた。


レイン・グレンヴィル辺境伯。

婚約者候補を辞退。

以後、水路協定に関する参考人として記録。


文字にすると、胸の中の形が少し整った。


彼は私の未来から消えたのではない。


父の名簿から降りて、別の場所に立ったのだ。

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