第11話 候補者ではなく
レイン様が父の書斎へ通された時、私はまだ呼ばれていなかった。
廊下の角で、ニナが盆を持ったまま足を止める。
銀盆の上の茶器が、小さく鳴った。
「グレンヴィル辺境伯様でいらっしゃいますね」
「ええ」
私は返事をしながら、扉の向こうへ目を向けた。
父は昨日、残りの面談を前倒しにすると言った。
マリウス子爵。クレイグ様との再面談。アンネリーゼ夫人の茶会。
その並びの中に、レイン様の名はなかった。
けれど今朝、彼は水路資料の追加確認という名目で屋敷へ来た。
父がそれを許したのは、伯母様の前で彼が「署名権者本人を外して水利権の運用を決めることには反対です」と言ったからだと思う。
父は、まだ彼を測っている。
味方か。
邪魔者か。
それとも、使える候補者か。
私は廊下の窓辺に立ち、指先で袖口の縫い目を押さえた。
今日の袖口には、菫色の糸が細く入っている。ニナが朝、黙って選んだ。
母の色だ。
「ヴィオラお嬢様、書斎へお越しくださいませ」
オスカーが扉の前に現れた。
私は頷き、書斎へ入った。
父は机の向こうに座っていた。
レイン様はその前に立っている。いつもの灰色の上着で、袖口の飾りは少ない。机の上には水路図と数枚の書類が広げられていた。
「ヴィオラ。ちょうどよい」
父の声は穏やかだった。
その穏やかさが、最近は少し怖い。
「グレンヴィル辺境伯が、話があるそうだ」
レイン様がこちらへ向き直る。
「ヴィオラ様。お時間をいただきます」
「はい」
私は椅子に腰を下ろした。
レイン様は一枚の書類を机へ置いた。
水路図ではない。
短い文面の、公的な書式だった。
「本日をもって、私はオルディス公爵令嬢の婚約者候補を辞退いたします」
言葉が、書斎の床へ静かに落ちた。
私はすぐには息ができなかった。
父の眉が動く。
「突然だな」
「突然に聞こえることは承知しております。ですが、これ以上候補者として面談を受けながら、ラウレンス水利権の照合に関わるのは適切ではありません」
レイン様の声は低く、落ち着いていた。
甘さも、遠慮もない。
「水利権の署名権、旧協定、北境との流量記録。いずれも婚姻条件と関わり得ます。私が候補者の一人である限り、助言のすべてに利害がつきます」
父は椅子の肘掛けに指を置いた。
「君は、ヴィオラとの縁を望まないということか」
その問いに、私の胸が少しだけ痛んだ。
望まない。
言葉はまっすぐなのに、どこか冷たい。
レイン様はすぐに答えなかった。
一拍置いてから、静かに言った。
「望む、望まないを申し上げる段階ではないと考えています」
父の目が細くなる。
「では、なぜ候補を降りる」
「ヴィオラ様が、ご自身の署名と財産について確認を進めておられるからです」
レイン様は、そこで初めて私を見た。
「その確認に私が関わるなら、候補者でいるべきではありません」
胸の奥で、何かがゆっくりほどけた。
彼は私を選んだ、と言ったのではない。
守る、とも言わない。
ただ、利害を外すと言った。
その距離が、かえって誠実だった。
父は薄く笑った。
「君が降りれば、グレンヴィル家は水利協定で不利になるかもしれない」
「不利を避けるために候補者でいるほうが、不誠実です」
「正直だな」
「実務上、後で疑われる形を残すほうが面倒です」
父の笑みが少し消えた。
面倒。
その言葉は美しくない。
けれど、レイン様らしかった。綺麗な理想ではなく、後で崩れない形を選ぶ人の言葉だ。
私は膝の上で手を重ねた。
「レイン様は、候補者ではなくなった後も、水路資料の照合には関わってくださるのですか」
父がこちらを見る。
余計なことを言うな、という目だった。
けれど私は、尋ねたかった。
レイン様は頷いた。
「北境とラウレンス水利の協定は、婚姻とは別の問題です。必要であれば、参考資料と流量記録は提出します。ただし、ヴィオラ様個人の婚姻条件には口を挟みません」
「私が、意見を求めた場合は?」
言ってから、自分でも少し驚いた。
父の視線が鋭くなる。
レイン様は、そこでほんの少し困った顔をした。
「水利や契約手続きについてなら、お答えします。ですが、誰を選ぶべきかについては申し上げません」
「なぜですか」
「それは、私の答えではなく、ヴィオラ様の答えであるべきです」
静かな言葉だった。
褒められてもいない。
慰められてもいない。
なのに、背筋が伸びた。
私はずっと、誰かに選ばれる席に座らされていた。
父に。候補者たちに。家に。
でもレイン様は、私に選べと言う。
その言葉は優しくない。
逃げ道をくれないからだ。
けれど、今の私にはその厳しさが必要だった。
父が書類を手に取る。
「正式な辞退書か」
「はい。グレンヴィル家の印も添えてあります」
「理由は、水利照合に関する利害関係の整理」
「その通りです」
父はしばらく書類を見ていた。
破り捨てることはできない。
レイン様の辞退は、公的な形を取っている。候補者の気まぐれではなく、家としての判断になっていた。
「分かった」
父は短く言った。
「グレンヴィル辺境伯を、候補者名簿から外す」
その言葉が、思ったより重く胸へ落ちた。
候補者ではなくなる。
それは、父の名簿から消えるということだ。
同時に、父の縁談の道具ではなくなるということでもある。
寂しさに似たものが、少しだけ胸をかすめた。
けれど、その奥に安堵があった。
レイン様は礼をした。
「ありがとうございます」
父は皮肉げに言う。
「それで、君は何になるつもりだ」
「水路協定の照合に関する参考人です」
少しも迷わない答えだった。
父は面白くなさそうに息を吐いた。
「便利な立場だな」
「不便な立場のほうが、後で役に立つことがあります」
私は思わず、レイン様を見た。
不便な立場。
それはたぶん、候補者として近づくより、ずっと遠い。
甘い言葉を言うこともできない。婚姻の席で私を庇うこともできない。
けれど、調停や契約の場では、その遠さが必要になる。
父は書類をオスカーへ渡した。
「記録しておけ」
「かしこまりました」
オスカーが受け取る。
その手つきは、いつも通り丁寧だった。
候補者名簿から、また一人消える。
でも今回は、私が落としたのではない。
相手が、自分で降りた。
その事実が、不思議に胸へ残った。
レイン様が退室する前、私は声をかけた。
「レイン様」
「はい」
「なぜ、今日だったのですか」
父の前で聞くべきではなかったかもしれない。
けれど、聞かずにはいられなかった。
レイン様は少しだけ考えた。
「マティルダ侯爵夫人が正式写しを持って来られたと聞きました」
「伯母様が?」
「はい。ならば、ヴィオラ様の確認は家の中の不安ではなく、正式な手続きになりました。私が候補者でいる理由は、もうありません」
正式な手続き。
私が震える手で出した手紙が、伯母様を動かした。
伯母様の朱印が、レイン様の立場を変えた。
一つ一つは小さな紙なのに、確かに何かが動いている。
「ありがとうございました」
私が言うと、レイン様は首を横に振った。
「礼を受けることではありません」
「それでも」
「では」
彼は少しだけ視線を落とし、また上げた。
「今後、私の言葉は候補者の言葉ではありません。疑ってください」
一瞬、意味が分からなかった。
「疑う、ですか」
「はい。参考人の意見として、資料と照らしてください」
それを言って、彼は礼をした。
優しさの形が、こんなに硬いこともあるのだと思った。
レイン様が出ていくと、書斎には父と私だけが残った。
父は椅子に座り直し、机の上の候補者名簿を開いた。
赤い線で、グレンヴィル辺境伯の名が消される。
その線はまっすぐだった。
「これで候補は減った」
「はい」
「だが、婚姻の話がなくなったわけではない」
「承知しております」
父は私を見た。
「マリウス子爵との面談は予定通り行う。クレイグ殿との再面談もだ」
「はい」
「グレンヴィル辺境伯の辞退を、特別な意味に取るな」
私は少しだけ息を吸った。
「候補者ではなくなった、という意味に取ります」
父の目が冷えた。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
自室へ戻ると、ニナが温かい茶を用意していた。
「グレンヴィル辺境伯様は……」
「候補を辞退なさったわ」
ニナの手が止まる。
「そうでございますか」
彼女はそれ以上、聞かなかった。
私は椅子に座り、カップを手に取った。
茶はまだ温かい。
窓の外では、レイン様の馬車が門を出ていくところだった。
遠ざかる車輪の音を聞きながら、私は机の引き出しを開けた。
伯母様から受け取った朱印つきの写しが、そこにある。
その隣に、新しい紙を一枚置いた。
候補者名簿ではない。
婚姻契約条件案でもない。
水利協定照合記録。
そう書き出して、私はペンを止めた。
レイン・グレンヴィル辺境伯。
婚約者候補を辞退。
以後、水路協定に関する参考人として記録。
文字にすると、胸の中の形が少し整った。
彼は私の未来から消えたのではない。
父の名簿から降りて、別の場所に立ったのだ。




