第12話 閉じた庭の家風
マリウス子爵は、穏やかな声で扉に鍵をかける人だった。
その日の面談は、午後の小応接室で行われた。
レイン様が候補者名簿から外れた翌日で、屋敷の空気はまだ少し硬い。
父は朝食の席で、それに触れなかった。
代わりに、マリウス・セルヴィ子爵について話した。
「若いが、王都官僚とのつながりがある。家風も落ち着いている。派手な社交を好まない点は、お前に合うだろう」
お前に合う。
その言葉を聞くたび、私は襟元を少しだけ締められる気がする。
合うのではない。
合わせやすい、ということなのだろう。
小応接室には、庭に面した窓があった。
春の終わりの光が、薄いカーテンを通って床に落ちている。庭師が刈ったばかりの芝はきれいで、土の匂いまでは届かない。
見えるのに、触れられない庭。
今日の面談には、ふさわしい場所かもしれない。
マリウス子爵は、名簿で見た通り若かった。
二十四歳。薄茶の髪を整え、表情は柔らかい。声も大きすぎず、礼も正しい。
「オルディス公爵令嬢。お目にかかれて光栄です」
「ヴィオラ・オルディスでございます。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
マリウス様は椅子に座る時、父へ一度視線を向けた。
許可を求めるような仕草だった。
慎み深いとも言える。
けれど、最初からこの部屋の中心が誰かを見極めているようにも見えた。
父は満足そうに頷く。
「マリウス殿の家は、昔から堅実だ。妻が表に出すぎず、内を整える。そういう家風は、今の時代には貴重だな」
「恐れ入ります」
マリウス様は穏やかに微笑んだ。
「騒がしい社交は、時に家の品位を損ないますから」
その言葉に、私はカップを持つ手を止めた。
騒がしい社交。
品位。
きれいな言葉だ。
でも、きれいな言葉ほど、誰を黙らせるために使われるのか確かめなければならない。
「マリウス様は、婚姻後の社交について、どのようなお考えをお持ちですか」
私が尋ねると、父の視線が横から来た。
また始まった、という目だ。
マリウス様は少しも動じなかった。
「必要な場には出ます。ただ、妻には家の内を優先してもらいたいと考えています」
「必要な場とは」
「夫の同伴が望ましい場です。王都官僚との会食、親族の集まり、夫側の家に関わる催しなどですね」
「妻側の親族は?」
マリウス様の笑みが、少しだけ浅くなった。
「もちろん、大切にいたします。ただ、婚姻後は夫婦で一つの家を作るわけですから、優先順位は自然と変わります」
優先順位。
私は膝の上で指を重ねた。
「母方の伯母へ手紙を出す場合も、夫側の確認が必要でしょうか」
「内容によります」
「財産の確認であれば?」
「それは夫婦の問題になりますから、夫へ相談すべきでしょう」
相談。
また、柔らかい言葉。
「相談と許可は違いますか」
マリウス様は初めて、わずかに眉を動かした。
父が低く言う。
「ヴィオラ」
「大切なことですので」
私は父へ一度だけ目を向け、すぐに戻した。
マリウス様は姿勢を正した。
「私は、妻を縛りつけたいわけではありません。ただ、家に入る以上、外との関係を整理する必要があると思っています。文通や訪問が多すぎれば、家の内に落ち着きがなくなります」
「どの程度なら、多すぎるのでしょう」
「月に一度程度なら、問題はないかと」
「伯母への財産照会も?」
「急ぎでなければ」
急ぎでなければ。
私の手元に、伯母様の朱印つき写しの重さが戻ってくる。
あれを急ぎでないと言われたら、私は今も父の机の前で黙っていたかもしれない。
「水利権や母方資産に関する確認も、夫側の家に入った後は、回数を控えるべきとお考えですか」
「管理が複雑になりすぎると、かえって揉めます。妻が実家と密にやり取りを続けると、夫側の家が軽んじられているように見えることもありますから」
父がわずかに頷いた。
私はその頷きを見逃さなかった。
父にとって、この候補は扱いやすいのだろう。
母方との連絡を自然に減らし、妻を夫側の家へ収める。署名権をすぐ消せなくても、使う機会そのものを遠ざける。
きれいな庭の奥に、見えない柵がある。
「マリウス様」
「はい」
「私は、婚姻後も母方資産の署名権者であり続けます」
「そのようですね」
「その確認や手続きのために、伯母や法務官と文通する必要が生じます」
「法務官と?」
マリウス様の声に、ほんの少し驚きが混じった。
父の顔も動いた。
ヘルマン法務官の名は、まだ父へ詳しく話していない。
伯母様から教わった相談先だ。
「必要があれば、です」
私はそう言ってから、続けた。
「その時、夫側の許可がなければ手紙も出せない家には、私は入れません」
部屋が静かになった。
庭の向こうで、小鳥が一度だけ鳴く。
その声が、やけに遠かった。
マリウス様は少し困ったように笑った。
「オルディス公爵令嬢は、ずいぶん独立したお考えをお持ちですね」
独立。
それは褒め言葉ではなかった。
「母方資産の署名権者として、必要なことです」
「ですが、婚姻には歩み寄りも必要です」
「はい」
私は頷いた。
「ですから、最初に確認しています。私が歩み寄れる場所と、譲れない場所を」
マリウス様は返事をしなかった。
その沈黙で、答えはほとんど分かった。
彼は私を嫌っているわけではない。
乱暴な人でもない。
むしろ穏やかで、礼儀正しく、家を乱さない妻を望んでいる。
けれど、その家は私には狭い。
父が口を開いた。
「今日はここまでにしよう」
面談は礼節を保ったまま終わった。
マリウス様は最後まで穏やかだった。
私も笑みを崩さなかった。
けれど、扉が閉まった後、父はすぐに言った。
「お前は候補者を減らすことに慣れてきたな」
責める声だった。
私は息を整えた。
「合わない点を確認しただけです」
「マリウス殿は、お前を家の内で守ると言っている」
「守ることと、閉じ込めることは違います」
父の目が鋭くなる。
私は怖かった。
でも、言わなければならなかった。
「私が伯母様へ手紙を出せなかったら、母の遺言写しは今も引き出しの中でした。文通を制限される家では、私は自分の署名を守れません」
父はしばらく黙っていた。
机の上には、面談記録がある。
書記役の字で、今日のやり取りが残っている。
文通。
外出。
母方資産。
法務官。
どれも、もう私の胸の内だけの話ではない。
父は低く言った。
「マリウス殿も見送りか」
「はい」
その一言を出すまでに、喉が乾いた。
父は笑わなかった。
「候補は少なくなる」
「それでも、必要な確認です」
「最後に誰も残らなければどうする」
私はすぐに答えられなかった。
誰も残らない。
その可能性は、私の中にもあった。
父の望む候補を断り続けた先に、私が望む未来が必ずあるとは限らない。
けれど、合わない相手へ頷けば、未来はもっと狭くなる。
「その時は、婚姻を急ぐべきではないのだと思います」
父の表情が冷えた。
「公爵令嬢が、いつまでも家に残るつもりか」
その言葉は、昔から私を縛ってきた。
いつまでも家に置けない。
身分に合う相手を選べ。
家のために動け。
けれど今は、もう少し別の言葉を持っている。
「家に残りたいのではありません。自分の署名を失う婚姻をしたくないのです」
父は何も言わなかった。
私は礼をして部屋を出た。
廊下に出ると、ニナが待っていた。
盆の上には温かい茶がある。
「冷める前に、飲んでくださいませ」
その言い方が少し強くて、私は思わず笑った。
「伯母様の教えが効いているのね」
「はい。たいへん効いております」
ニナは真面目な顔で答えた。
自室に戻り、私は水利協定照合記録の隣に、新しい紙を置いた。
候補者確認記録。
そう書いて、マリウス様の名を記す。
外出、文通、母方財産の確認に制限を求める傾向あり。
婚姻後の署名権行使に支障の可能性。
見送り。
最後の二文字を書いた時、指先が少し震えた。
候補が減ることは、自由に近づくことと同じではない。
でも、閉じた庭へ入らないことは選べた。
窓の外で、庭師が門の近くの枝を切っている。
切られた枝の向こうに、細い道が見えた。
その道はまだ遠い。
けれど、少なくとも柵の内側ではなかった。




