第8話 妻ではなく壁
妻の肖像画には、今日も薄い布がかけられていた。
ガルディス伯爵レオンハルトは、朝食室の扉の前で足を止めた。
薄布の向こうに、亡き妻クラリッサの微笑みがある。結婚した年に描かせたものだ。淡い青のドレスを着て、窓辺に立っている。生きていた頃の彼女は、あの絵よりよく笑った。
今は、その笑顔を見ることすらできない。
だから布をかけた。
娘のためだと言った。幼い子には母の肖像がつらいだろうと。
使用人たちは黙って従った。
誰も、伯爵自身がつらいのですね、とは言わなかった。
「旦那様」
執事のマーロウが、銀盆に封書を載せて入ってきた。
「王宮より使者が」
「王妃殿下からか」
「はい。フォーリア侯爵令嬢に関することで、少々」
その名を聞いて、レオンハルトは椅子に腰を下ろした。
アデリナ・フォーリア。
王宮礼法局主任補佐。王妃の信任厚く、慎ましく、聡明で、取り乱さない令嬢。再婚相手として申し分ないと、王妃は言った。
あなたの屋敷には、あの方のような方が必要でしょう。
レオンハルトは、その言葉をありがたく受け取った。
必要。
確かに必要だった。
ガルディス家には、整える者がいない。
食卓の花は三日に一度しか替わらず、帳簿は月末になるまで誰も開かない。娘のエルゼは家庭教師を三人替え、客間の暖炉は煙突掃除が遅れて使えない。亡妻の衣装部屋は閉じられたままで、奥向きの侍女たちは互いに指示を待っている。
伯爵家は崩れてはいない。
ただ、どこも少しずつ傾いていた。
「フォーリア嬢が、王宮を離れたとのことです」
マーロウが言った。
「離れた?」
「礼法局に辞表を置かれたと」
レオンハルトは封書を開いた。
文面は丁寧だった。王妃付きの侍女が代筆したものらしい。フォーリア嬢は疲労により静養中。婚儀に関する詳細は、追って調整する。しばらく待つように。
しばらく。
レオンハルトは眉を寄せた。
「疲れているのなら、こちらに来ればよい。王宮より静かだ」
言ってから、自分の声が思ったより硬いことに気づいた。
マーロウは何も答えなかった。
「客室は整っているだろう」
「南翼の客室は整えております。ただ、奥向きの者が、令嬢のお好みを確認できておりません」
「王宮の令嬢なら、こちらに合わせるだろう」
「はい」
執事は静かに頭を下げた。
その沈黙が、少し気に障った。
レオンハルトは卓上の紅茶に手を伸ばした。冷めていた。最近、この屋敷の紅茶はいつも少し冷めている。誰も淹れ方を忘れたわけではない。ただ、運ぶ順番や時間を見ている者がいない。
クラリッサがいた頃は、こんなことはなかった。
いや。
彼女が見ていたのだ。
「エルゼは?」
「子ども部屋でございます」
「朝食に来ていないのか」
「お呼びしましたが、お嬢様は本日は召し上がらないと」
「またか」
レオンハルトはため息をついた。
娘は七歳になる。母を亡くしてから、気難しくなった。食事を残し、家庭教師を困らせ、夜中に廊下へ出る。
アデリナが来れば、変わるかもしれない。
王妃もそう言った。フォーリア嬢なら、きっと優しく導けると。暗い屋敷を明るくできると。
その言葉は、レオンハルトにとって救いだった。
自分では、エルゼにどう話しかければよいか分からない。泣かれると困る。亡妻の名前を出されると、胸の奥が詰まる。だから乳母に任せ、家庭教師に任せ、時間が癒やすだろうと思っていた。
時間は、何もしてくれなかった。
ただ、埃を積もらせただけだった。
「旦那様」
マーロウが、もう一つ小さな箱を差し出した。
「王宮より、こちらも」
箱の中には、真珠の髪飾りが入っていた。
レオンハルトはそれを見て、わずかに目を細めた。
「これは」
「王妃殿下がフォーリア嬢へ贈られたものと伺っております。令嬢の机に残されていたそうです」
真珠は美しかった。
白く、丸く、傷ひとつない。喪の明けた屋敷にふさわしい、控えめで清らかな飾り。王妃の心遣いが見える品だ。
だが、それを残していったという事実だけが、箱の底で冷えていた。
「忘れ物だろう」
レオンハルトは言った。
「おそらくは」
「王宮へ戻しておけ。フォーリア嬢が落ち着いたら、また渡せばいい」
「かしこまりました」
マーロウは箱を閉じた。
その小さな音が、なぜか肖像画の布を揺らした気がした。
食後、レオンハルトは奥向きの様子を見に行った。
婚儀が近いのなら、家中を整えねばならない。フォーリア嬢に失礼があってはならない。そう思ったのは確かだ。
けれど廊下を進むほど、足は重くなった。
亡妻の衣装部屋の前には、鍵がかかったままだった。女中が花瓶を抱えて立ち尽くしている。
「なぜ入らない」
「鍵を、奥様がお持ちのままで」
「奥様は亡くなった」
言ってから、女中が肩を震わせたことに気づいた。
「失礼いたしました。合鍵を探しているのですが、帳簿室の引き出しが」
「ならば壊せばいい」
簡単なことだ。
そう言うと、女中は困ったように目を伏せた。
「中には奥様の私物がございます。旦那様のご許可なしに、傷をつけるわけには」
レオンハルトは黙った。
許可。
自分が許可を出さなかったから、部屋は閉じたままだったのか。
次に子ども部屋へ行くと、エルゼは窓辺に座っていた。膝の上に、ほどけたリボンを載せている。赤いリボンだった。クラリッサが最後に結んだものではないかと思い、レオンハルトは近づけなかった。
「エルゼ」
娘は振り向かなかった。
「朝食を食べなかったそうだな」
「いらない」
「食べなければ大きくなれない」
「大きくならなくていい」
短いやり取りで、もう言葉がなくなった。
レオンハルトは、窓ガラスに映る自分の顔を見た。伯爵としては立派に見える。喪服ではないが、色を抑えた上着。整えた髪。疲労を隠す姿勢。
父親の顔ではなかった。
「新しい奥様が来る」
気づけば、そう言っていた。
エルゼの肩が動いた。
「奥様?」
「フォーリア侯爵令嬢だ。王宮で立派に務めている方だ。お前にも優しくしてくれるだろう」
「お母様の部屋を開ける人?」
「必要なら」
「お母様のピアノを弾く人?」
「……屋敷には音楽も必要だ」
「私のリボンを捨てる人?」
「捨てはしない」
答えながら、レオンハルトは自分が何も分かっていないことを知った。
エルゼが恐れているのは、新しい母ではない。
知らない誰かが、母の不在を片づけに来ることだった。
そして自分は、それを望んでいた。
散らかった部屋を開け、泣く娘に言葉を与え、冷めた紅茶を温め、使用人に指示を出し、帳簿を読み、亡妻の記憶を傷つけずに屋敷を動かす人。
妻。
そう呼べば、美しく聞こえた。
だが本当に求めていたのは、違ったのかもしれない。
自分と悲しみの間に立つ、丈夫な壁。
「フォーリア様は来るの?」
エルゼが初めてこちらを見た。
その目は、クラリッサに似ていた。
「来るはずだ」
レオンハルトは答えた。
それが事実か願望か、自分でも分からなかった。
「王妃殿下のお勧めだからな。あの方は、道理を分かってくださる」
「その人は、来たいの?」
部屋の空気が止まった。
七歳の娘の問いは、礼法を知らない。王妃の厚情も、侯爵家の名誉も、伯爵家の事情も知らない。
だから、まっすぐだった。
レオンハルトは答えられなかった。
アデリナ・フォーリアが来たいかどうか。
王妃も、フォーリア侯爵も、自分も、そのことを尋ねただろうか。
レオンハルトは子ども部屋を出た。
廊下の奥で、閉じたピアノが見えた。クラリッサがよく弾いていたものだ。蓋には薄く埃が積もっている。誰も触れない。誰も片づけない。
片づけないことを、愛情だと思っていた。
けれどそれは、ただ見ないためだったのではないか。
執事が追ってきた。
「旦那様。王宮へ返書を」
「待て」
レオンハルトは言った。
「フォーリア嬢本人からは、何か届いているか」
「いいえ。王宮からの知らせのみでございます」
「本人の意思は」
その言葉は、ひどく不慣れだった。
口にした途端、廊下にあるすべての扉がこちらを見たような気がした。
マーロウは静かに答えた。
「存じ上げません」
レオンハルトは、亡妻の肖像画がある朝食室の方を振り返った。
布の下の微笑みは見えない。
見えないものを、見えないまま都合よく信じていた。アデリナもそうだったのかもしれない。慎ましい。聡明。取り乱さない。だから受け入れるだろうと。
彼女の沈黙を、誰も返事として聞いていないのに。
「返書はまだ書かない」
「よろしいのですか」
「分からない」
伯爵として、あまりに頼りない返事だった。
けれど、それ以外に言えなかった。
真珠の髪飾りを置いて去った令嬢が、何を拒んだのか。
それを考えないまま、婚儀の日取りを尋ねることはできなかった。
廊下の隅で、エルゼの赤いリボンが落ちていた。
レオンハルトはそれを拾い上げた。小さな布切れは頼りなく、結び目はほどけかけている。
自分はこのリボンひとつ、結び直してやったことがなかった。
その時ようやく、レオンハルトは知った。
彼が迎えようとしていたのは、妻ではなかった。
自分の代わりに、ほどけたものすべてを結び直す壁だった。




