表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
家のため国のためと何度も言われましたので  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/8

第8話 妻ではなく壁

 妻の肖像画には、今日も薄い布がかけられていた。


 ガルディス伯爵レオンハルトは、朝食室の扉の前で足を止めた。


 薄布の向こうに、亡き妻クラリッサの微笑みがある。結婚した年に描かせたものだ。淡い青のドレスを着て、窓辺に立っている。生きていた頃の彼女は、あの絵よりよく笑った。


 今は、その笑顔を見ることすらできない。


 だから布をかけた。


 娘のためだと言った。幼い子には母の肖像がつらいだろうと。


 使用人たちは黙って従った。


 誰も、伯爵自身がつらいのですね、とは言わなかった。


「旦那様」


 執事のマーロウが、銀盆に封書を載せて入ってきた。


「王宮より使者が」


「王妃殿下からか」


「はい。フォーリア侯爵令嬢に関することで、少々」


 その名を聞いて、レオンハルトは椅子に腰を下ろした。


 アデリナ・フォーリア。


 王宮礼法局主任補佐。王妃の信任厚く、慎ましく、聡明で、取り乱さない令嬢。再婚相手として申し分ないと、王妃は言った。


 あなたの屋敷には、あの方のような方が必要でしょう。


 レオンハルトは、その言葉をありがたく受け取った。


 必要。


 確かに必要だった。


 ガルディス家には、整える者がいない。


 食卓の花は三日に一度しか替わらず、帳簿は月末になるまで誰も開かない。娘のエルゼは家庭教師を三人替え、客間の暖炉は煙突掃除が遅れて使えない。亡妻の衣装部屋は閉じられたままで、奥向きの侍女たちは互いに指示を待っている。


 伯爵家は崩れてはいない。


 ただ、どこも少しずつ傾いていた。


「フォーリア嬢が、王宮を離れたとのことです」


 マーロウが言った。


「離れた?」


「礼法局に辞表を置かれたと」


 レオンハルトは封書を開いた。


 文面は丁寧だった。王妃付きの侍女が代筆したものらしい。フォーリア嬢は疲労により静養中。婚儀に関する詳細は、追って調整する。しばらく待つように。


 しばらく。


 レオンハルトは眉を寄せた。


「疲れているのなら、こちらに来ればよい。王宮より静かだ」


 言ってから、自分の声が思ったより硬いことに気づいた。


 マーロウは何も答えなかった。


「客室は整っているだろう」


「南翼の客室は整えております。ただ、奥向きの者が、令嬢のお好みを確認できておりません」


「王宮の令嬢なら、こちらに合わせるだろう」


「はい」


 執事は静かに頭を下げた。


 その沈黙が、少し気に障った。


 レオンハルトは卓上の紅茶に手を伸ばした。冷めていた。最近、この屋敷の紅茶はいつも少し冷めている。誰も淹れ方を忘れたわけではない。ただ、運ぶ順番や時間を見ている者がいない。


 クラリッサがいた頃は、こんなことはなかった。


 いや。


 彼女が見ていたのだ。


「エルゼは?」


「子ども部屋でございます」


「朝食に来ていないのか」


「お呼びしましたが、お嬢様は本日は召し上がらないと」


「またか」


 レオンハルトはため息をついた。


 娘は七歳になる。母を亡くしてから、気難しくなった。食事を残し、家庭教師を困らせ、夜中に廊下へ出る。


 アデリナが来れば、変わるかもしれない。


 王妃もそう言った。フォーリア嬢なら、きっと優しく導けると。暗い屋敷を明るくできると。


 その言葉は、レオンハルトにとって救いだった。


 自分では、エルゼにどう話しかければよいか分からない。泣かれると困る。亡妻の名前を出されると、胸の奥が詰まる。だから乳母に任せ、家庭教師に任せ、時間が癒やすだろうと思っていた。


 時間は、何もしてくれなかった。


 ただ、埃を積もらせただけだった。


「旦那様」


 マーロウが、もう一つ小さな箱を差し出した。


「王宮より、こちらも」


 箱の中には、真珠の髪飾りが入っていた。


 レオンハルトはそれを見て、わずかに目を細めた。


「これは」


「王妃殿下がフォーリア嬢へ贈られたものと伺っております。令嬢の机に残されていたそうです」


 真珠は美しかった。


 白く、丸く、傷ひとつない。喪の明けた屋敷にふさわしい、控えめで清らかな飾り。王妃の心遣いが見える品だ。


 だが、それを残していったという事実だけが、箱の底で冷えていた。


「忘れ物だろう」


 レオンハルトは言った。


「おそらくは」


「王宮へ戻しておけ。フォーリア嬢が落ち着いたら、また渡せばいい」


「かしこまりました」


 マーロウは箱を閉じた。


 その小さな音が、なぜか肖像画の布を揺らした気がした。


 食後、レオンハルトは奥向きの様子を見に行った。


 婚儀が近いのなら、家中を整えねばならない。フォーリア嬢に失礼があってはならない。そう思ったのは確かだ。


 けれど廊下を進むほど、足は重くなった。


 亡妻の衣装部屋の前には、鍵がかかったままだった。女中が花瓶を抱えて立ち尽くしている。


「なぜ入らない」


「鍵を、奥様がお持ちのままで」


「奥様は亡くなった」


 言ってから、女中が肩を震わせたことに気づいた。


「失礼いたしました。合鍵を探しているのですが、帳簿室の引き出しが」


「ならば壊せばいい」


 簡単なことだ。


 そう言うと、女中は困ったように目を伏せた。


「中には奥様の私物がございます。旦那様のご許可なしに、傷をつけるわけには」


 レオンハルトは黙った。


 許可。


 自分が許可を出さなかったから、部屋は閉じたままだったのか。


 次に子ども部屋へ行くと、エルゼは窓辺に座っていた。膝の上に、ほどけたリボンを載せている。赤いリボンだった。クラリッサが最後に結んだものではないかと思い、レオンハルトは近づけなかった。


「エルゼ」


 娘は振り向かなかった。


「朝食を食べなかったそうだな」


「いらない」


「食べなければ大きくなれない」


「大きくならなくていい」


 短いやり取りで、もう言葉がなくなった。


 レオンハルトは、窓ガラスに映る自分の顔を見た。伯爵としては立派に見える。喪服ではないが、色を抑えた上着。整えた髪。疲労を隠す姿勢。


 父親の顔ではなかった。


「新しい奥様が来る」


 気づけば、そう言っていた。


 エルゼの肩が動いた。


「奥様?」


「フォーリア侯爵令嬢だ。王宮で立派に務めている方だ。お前にも優しくしてくれるだろう」


「お母様の部屋を開ける人?」


「必要なら」


「お母様のピアノを弾く人?」


「……屋敷には音楽も必要だ」


「私のリボンを捨てる人?」


「捨てはしない」


 答えながら、レオンハルトは自分が何も分かっていないことを知った。


 エルゼが恐れているのは、新しい母ではない。


 知らない誰かが、母の不在を片づけに来ることだった。


 そして自分は、それを望んでいた。


 散らかった部屋を開け、泣く娘に言葉を与え、冷めた紅茶を温め、使用人に指示を出し、帳簿を読み、亡妻の記憶を傷つけずに屋敷を動かす人。


 妻。


 そう呼べば、美しく聞こえた。


 だが本当に求めていたのは、違ったのかもしれない。


 自分と悲しみの間に立つ、丈夫な壁。


「フォーリア様は来るの?」


 エルゼが初めてこちらを見た。


 その目は、クラリッサに似ていた。


「来るはずだ」


 レオンハルトは答えた。


 それが事実か願望か、自分でも分からなかった。


「王妃殿下のお勧めだからな。あの方は、道理を分かってくださる」


「その人は、来たいの?」


 部屋の空気が止まった。


 七歳の娘の問いは、礼法を知らない。王妃の厚情も、侯爵家の名誉も、伯爵家の事情も知らない。


 だから、まっすぐだった。


 レオンハルトは答えられなかった。


 アデリナ・フォーリアが来たいかどうか。


 王妃も、フォーリア侯爵も、自分も、そのことを尋ねただろうか。


 レオンハルトは子ども部屋を出た。


 廊下の奥で、閉じたピアノが見えた。クラリッサがよく弾いていたものだ。蓋には薄く埃が積もっている。誰も触れない。誰も片づけない。


 片づけないことを、愛情だと思っていた。


 けれどそれは、ただ見ないためだったのではないか。


 執事が追ってきた。


「旦那様。王宮へ返書を」


「待て」


 レオンハルトは言った。


「フォーリア嬢本人からは、何か届いているか」


「いいえ。王宮からの知らせのみでございます」


「本人の意思は」


 その言葉は、ひどく不慣れだった。


 口にした途端、廊下にあるすべての扉がこちらを見たような気がした。


 マーロウは静かに答えた。


「存じ上げません」


 レオンハルトは、亡妻の肖像画がある朝食室の方を振り返った。


 布の下の微笑みは見えない。


 見えないものを、見えないまま都合よく信じていた。アデリナもそうだったのかもしれない。慎ましい。聡明。取り乱さない。だから受け入れるだろうと。


 彼女の沈黙を、誰も返事として聞いていないのに。


「返書はまだ書かない」


「よろしいのですか」


「分からない」


 伯爵として、あまりに頼りない返事だった。


 けれど、それ以外に言えなかった。


 真珠の髪飾りを置いて去った令嬢が、何を拒んだのか。


 それを考えないまま、婚儀の日取りを尋ねることはできなかった。


 廊下の隅で、エルゼの赤いリボンが落ちていた。


 レオンハルトはそれを拾い上げた。小さな布切れは頼りなく、結び目はほどけかけている。


 自分はこのリボンひとつ、結び直してやったことがなかった。


 その時ようやく、レオンハルトは知った。


 彼が迎えようとしていたのは、妻ではなかった。

 自分の代わりに、ほどけたものすべてを結び直す壁だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ