第7話 読まない手紙
王宮からの手紙は、朝の光の中でも重かった。
封蝋には王妃付き侍女の紋が押されている。淡い薔薇色の蝋。王妃エレオノーラ様がお好みの色だった。
以前の私なら、すぐに開いた。
便箋の折り目を乱さず、文面を読み、必要な返答を考え、相手の望む結論へ自分を寄せる。王妃様からならば王妃様のために。父からならばフォーリア家のために。礼法局からならば、慈善会のために。
そうしてきた。
それが正しいことだと思っていた。
いいえ、正しいと思う前に、そうするものだと身につけていた。
「お読みになりますか」
老司書が静かに尋ねた。
私は机の上の封書を見つめたまま、首を横に振った。
「まだ、読みません」
「承知いたしました」
それだけだった。
なぜ、と聞かれなかった。王妃様からなのに、と咎められなかった。すぐお返事を、と促されることもなかった。
老司書は温かい紅茶を置き、空になったパン皿を下げて退室した。
扉が閉まる音は、王宮の扉より軽かった。
修道図書館の南閲覧室には、紙と革と古い木の匂いが満ちている。王宮礼法局の香油や花の香りとは違う。ここでは、誰かを慰めるために薔薇を飾る必要も、誰かを傷つけないために薔薇を隠す必要もなかった。
机の上には、開いたばかりの古例集がある。
『寡婦および離縁女性の社交復帰に関する古例集』。
古い字で書かれたその本は、読みやすくはなかった。けれど、一行ずつ追っていくと、王宮で私がしてきたことの影があちこちにあった。
夫を亡くした夫人に、同情の言葉をかけすぎてはならない。
離縁した女性を、再婚話のそばに座らせてはならない。
慈善の対象者を、感謝の見本として晒してはならない。
寄付者の名誉と、受け取る者の名誉は、同じ重さで扱うこと。
私は指先で文字をなぞりかけて、白手袋の上で止めた。
同じことを、何度もしてきた。
けれど私は、それを制度だと思ったことがなかった。気配り。配慮。王妃様の善意を美しく見せるための下支え。礼法局の細かな仕事。
そう呼んでいた。
そう呼べば、誰の権利も、誰の傷も、机の上に置かずに済んだから。
廊下から小さな足音が近づいた。
扉が控えめに叩かれる。
「フォーリア嬢。王宮より、もう一通届いております」
老司書が差し出した封筒は、今度は父の紋だった。
フォーリア侯爵家の銀の葉。
幼い頃から見慣れた紋章なのに、今は薄い刃物のように見えた。
「こちらに」
私は王妃様の手紙の隣に置いてもらった。
「お読みになりますか」
「読みません」
今度は、少しだけ早く答えた。
老司書はまた、何も聞かなかった。
父の手紙の中身は、読まなくても分かる。
王妃様のお心を考えなさい。
侯爵家の名誉を傷つけてはならない。
ガルディス伯爵家との話は、王妃様のご厚情だ。
お前は聞き分けがよいのだから。
最後の一文が、封を切らないうちから耳の奥で響いた。
お前は聞き分けがよい。
それは褒め言葉だった。
少なくとも、父にとっては。
けれど、聞き分けがよいという言葉は、私のために扉を開けたことがない。いつも、誰かの都合へ続く扉の前で、私の背を押すだけだった。
紅茶の湯気が薄くなる。
私はカップを持ち上げた。温かいうちに飲むことも、冷めてから飲むことも、今は私が決めてよい。
それだけのことに、胸の奥がうまく追いつかなかった。
王宮では、どうしているだろう。
慈善会の片づけは終わっただろうか。リネットは青の間の花を替えられただろうか。ローデン辺境伯夫人の寄付順は、目録で直されただろうか。エミリア伯爵夫人は、誰かの無邪気な慰めにさらされなかっただろうか。
考えれば考えるほど、立ち上がりそうになる。
私はまだ、王宮の廊下を歩く手順を体が覚えている。東控室へ向かう曲がり角。侍女長に合図を送る扇の角度。外交課へ走らず急ぐ歩幅。
戻れば、直せるかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥に鈍い疲れが沈んだ。
戻れば、また直してしまう。
そして誰も、なぜ壊れたのかを知らないまま、いつも通りに微笑むのだろう。
フォーリア嬢がいてくれてよかったわ。
あなたなら大丈夫だと思っていた。
やはり、あなたは分かってくれるのね。
私はカップを置いた。
音はほとんどしなかった。
「フォーリア嬢」
今度の声は、老司書ではなかった。
セドリック殿下が、扉の外に立っていらした。入室の許可を待つように、片手を扉枠に添えている。
「入っても?」
「はい」
殿下は、机の上の手紙を見た。王妃様の封書と、父の封書。二通とも封は切られていない。
何かを言われるかと思った。
けれど殿下は、別の机から薄い紙束を取って戻ってきた。
「図書館の閲覧記録です。必要なら、過去三十年分の慈善会関連の典礼変更が確認できます」
「なぜ、それを」
「あなたが先ほど、その棚を二度見ていました」
私は思わず、自分の視線の軽率さを恥じた。
「申し訳ございません。許可なく」
「謝るところではありません。ここは本を見る場所です」
殿下は紙束を机の端に置いた。
手紙の上ではなく、本の隣に。
それだけの距離が、ありがたかった。
「王宮へ返事をしないことは、失礼でしょうか」
私は尋ねた。
尋ねてから、また許可を求めていることに気づく。
殿下は少しだけ沈黙した。
「今すぐ返事をしないことと、永久に無視することは違います」
「ですが、王妃様からです」
「あなたも、一人の人間です」
短い言葉だった。
礼法書のどこにも書かれていない、けれど一番先に必要だった言葉。
私は膝の上で手を重ねた。白手袋の下の指先が、かすかに痛む。昨日まで紙と鍵と名札を扱い続けた指だ。王宮で私の代わりに何かを言うことはなかった指。
「私は、王妃様に不義理をしたのでしょうか」
「あなたがどう思うかは、あなたのものです。ですが、少なくとも私は、最後まで仕事を整えてから去った人を不義理とは呼びません」
「父は、そうは思わないでしょう」
「侯爵がどう思うかも、侯爵のものです」
私は顔を上げた。
殿下は、何も奪わない目をしていた。
私の罪悪感も、迷いも、父への恐れも、王妃様への敬意も、勝手に否定しない。ただ、それらを全部抱えたままでも座っていてよいと、場所だけを空けてくださる。
王宮では、空いた椅子は誰かを守るために用意するものだった。
ここでは、私のために椅子が空いている。
「殿下」
「はい」
「私は今日、王宮へ戻りません」
言葉は驚くほど小さかった。
けれど、口にした途端、胸の内側で何かがほどけた。歓びではない。勝利でもない。長い間きつく結ばれていた紐が、ようやく一節だけ緩んだような感覚だった。
殿下は頷いた。
「分かりました」
ただ、それだけだった。
褒められなかった。励まされなかった。よく言えました、と子供のように扱われることもなかった。
私はその静けさに、少しだけ息をついた。
「では、こちらの閲覧記録をお借りしてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「それから」
私は机の端の封筒を見た。
二通の手紙は、相変わらず重い。けれど、先ほどより遠くに見えた。
「王宮から次の手紙が来ても、ここに置いてください。私が読むと決めるまで」
「司書に伝えます」
「ありがとうございます」
殿下が退室された後、私は古例集の頁をめくった。
そこには、百年前の王妃が定めた慈善席次の覚書が載っていた。
救済を受ける者を、低い席に置いてはならない。
同情を捧げる者を、上位に置いてはならない。
善意は、相手の名誉を奪った時点で善意ではなくなる。
私はその一文を、何度も読んだ。
王妃様は善い方だ。
その思いは、まだ変わらない。
けれど、善い方の善意であっても、私の人生を別の家の灯として差し出してよい理由にはならない。
私は新しい紙を一枚取り、羽根ペンを持った。
返事を書くためではない。
誰かの挨拶文を直すためでもない。
古例集の一文を写し、その下に、自分の考えを少しだけ書くためだった。
手紙は読まなかった。
けれどその日、私は初めて、自分のための文章を書き始めた。




