表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
家のため国のためと何度も言われましたので  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/8

第6話 彼女は逃げていない

 修道図書館の客室に置いた鍵は、まだ一度も回されていなかった。


 セドリック・アルヴェインは、扉の外からそれを見た。古い真鍮の鍵は、卓上の白い封筒の隣に置かれている。封筒の中には、王立修道図書館の客員研究員としての滞在許可書と、閲覧権限の仮証明書が入っていた。


 署名欄は空白のままだ。


 それでいい、とセドリックは思った。


 署名を急がせるために用意した紙ではない。ここにいてもよい、と示すための紙だ。使わないなら使わないでよい。読まないなら読まないでよい。


 選択肢とは、差し出した者の満足のためにあるのではない。


「殿下」


 廊下の向こうから、図書館付きの老司書が静かに歩いてきた。


「フォーリア嬢は、南閲覧室にいらっしゃいます」


「本を?」


「いいえ。書架の前で、背表紙をご覧になっているだけでございます」


 セドリックは頷いた。


 昨夜、アデリナは馬車の中でほとんど話さなかった。修道図書館に着いてからも、客室の場所と食事の時間を確認し、礼儀正しく礼を述べただけだ。


 泣かなかった。怒らなかった。震えもしなかった。


 だからこそ、セドリックは距離を置いた。


 平気な人間が静かなのではない。静かでいることに慣れすぎた人間は、壊れる時にも音を立てない。


 南閲覧室には、朝の光が細く差し込んでいた。


 修道士たちが磨き続けてきた床は鈍く光り、壁一面の書架には古い礼法書や婚姻記録、各国の外交典礼集が並んでいる。その前に、アデリナは立っていた。


 淡い金の髪はいつもどおり結い上げられ、薄紫のドレスにも乱れはない。白手袋だけが、昨日より少し新しかった。


 手袋を替えたのだろう。


 隠すものが、まだそこにあるから。


「おはようございます、フォーリア嬢」


 声をかけると、彼女は振り向いた。


「おはようございます、殿下」


 完璧な礼だった。


 王宮で何百回も見た礼。誰にも負担をかけず、相手の身分を損なわず、自分の疲労を一片もこぼさない礼。


 セドリックは、その美しさを褒めなかった。


「昨夜は眠れましたか」


「客室をお借りしておきながら、失礼を申しますが」


「はい」


「少しだけ」


「それはよかった」


 アデリナはわずかに目を伏せた。


「よかった、のでしょうか」


「少しでも眠れたなら」


 それ以上は言わなかった。


 眠れなかった理由を尋ねることはできる。王妃の命令か、父の言葉か、ガルディス伯爵家の資料か、礼法局の机に置いた鍵か。


 けれど、問いは時に刃になる。


 答えられない人間に向けられた善意の問いほど、残酷なものはない。


 セドリックは手にしていた盆を近くの机へ置いた。温かい紅茶と、薄く焼いたパン。図書館の厨房で用意させたものだ。


「朝食です。不要なら、そのまま下げさせます」


「ありがとうございます」


「食べるかどうかは、あなたが決めてください」


 アデリナの指先が、ほんの少し止まった。


 それから彼女は椅子に座り、カップを持ち上げた。湯気が白手袋の甲をかすめる。王宮の慈善会で出される紅茶より、香りはずっと質素だった。


「王宮から、使者が来るかもしれません」


 アデリナは紅茶を見たまま言った。


「来るでしょうね」


「私は、対応すべきでしょうか」


「それも、あなたが決めることです」


 彼女は黙った。


 黙る前に、言葉が一度喉元まで上がったのが分かった。アデリナはいつも、言葉を選ぶ前に相手の立場を先に置く。王妃のため、父のため、礼法局のため、傷ついた夫人たちのため。


 そして自分のための言葉だけが、最後まで残らない。


「殿下は、私をかくまっているとお叱りを受けるかもしれません」


「私は後援者として、研究員候補に部屋を貸しただけです」


「まだ署名しておりません」


「ですから、候補です」


 アデリナは初めて、わずかに瞬きをした。


 笑ったわけではない。けれど、張りつめた糸が一瞬だけ揺れた。


「詭弁ではございませんか」


「王族には、たまに便利な言葉があります」


「殿下らしくありません」


「私らしさを、あなたに決めていただけるほど、まだ親しくはないと思っていました」


 言ってから、少し踏み込みすぎたかと思った。


 だがアデリナは怒らなかった。困ったように視線を落とし、カップの縁を見つめた。


「申し訳ございません」


「謝るところではありません」


「癖で」


 短い言葉だった。


 癖。


 その一語の中に、何年分の沈黙が畳まれているのか。セドリックは考えないようにした。考えれば、怒りが先に立つ。


 怒りは、今、彼女の代わりに掲げるものではない。


「王宮では、慈善会の後片づけが始まっている頃でしょう」


 アデリナが言った。


「気になりますか」


「はい」


 正直な返事だった。


「私が残した指示で足りるか、リネットが困っていないか、エミリア伯爵夫人が青の間に通されていないか、ダルトン侯爵夫人の前に赤薔薇が置かれていないか」


 彼女はそこで口を閉じた。


 言ってしまった、という顔をした。


 セドリックは静かに聞いた。


「あなたが守っていたものは、多いのですね」


「私が守ったなどと」


「では、整えていた」


「それは、職務です」


「職務なら、対価と権限と休息が必要です」


 アデリナは、返事をしなかった。


 伏せられていた本に目を向ける。机の端に置かれた古い礼法書だった。表題は『寡婦および離縁女性の社交復帰に関する古例集』。彼女が手に取ったのだろう。けれど、まだ開かれていない。


「その本を読んでもかまいません」


「許可が必要では」


「閲覧許可なら、仮証明書に入っています」


「署名しておりません」


「読むだけなら、司書に私の名を出してください。研究員になるかどうかは別です」


 アデリナは封筒を見た。


 白い封筒。空白の署名欄。押しつけられていない未来。


 それが彼女にとって、かえって扱いに困るものなのだとセドリックには分かった。


 命じられることに慣れた者は、選ぶことに戸惑う。


 それは弱さではない。選ぶ権利を長く預けさせられてきた者の、当然の遅れだった。


「殿下」


「はい」


「私は、逃げたのでしょうか」


 昨夜と同じ問いだった。


 しかし声は、少し違っていた。馬車の揺れの中では、自分を裁くための問いに聞こえた。今は、誰かが貼った名札を剥がそうとする問いだった。


 セドリックは答えを急がなかった。


 窓の外では、修道士が中庭の落ち葉を掃いている。箒の音が、石畳の上を乾いて滑った。


「あなたは、最後の仕事を終えました」


 彼は言った。


「王妃殿下の挨拶文を整え、席次を直し、傷つく人が少なくなるよう道を作った。その後で、鍵を返し、辞表を置き、自分の足で出てきた」


 アデリナの手が、カップから離れた。


「私には、それを逃亡とは呼べません」


「では、何と」


「退職です」


 彼女は目を上げた。


 あまりに当然の言葉を、初めて聞いたような顔だった。


「退職」


「はい。あるいは、撤退。あるいは、拒否。どれを選ぶかは、あなたのものです」


「拒否、ですか」


「嫌なものを嫌だと思うことは、礼を欠くことではありません」


 アデリナは答えなかった。


 ただ、紅茶の表面を見ていた。湯気はもう薄くなっている。冷めきる前に飲むかどうかも、彼女が決めることだった。


 廊下で足音がした。


 老司書が封書を一通持って入ってくる。王宮の紋章。王妃付きの侍女が運んできたのだろう。


「フォーリア嬢宛てでございます」


 アデリナの顔色は変わらなかった。


 変わらなかったことが、セドリックには痛かった。


「ここに置いてください」


 彼が言う前に、アデリナが静かに答えた。


「まだ、読みません」


 老司書は一礼し、封書を机の端に置いた。


 王宮からの手紙は、伏せられた本の隣に並んだ。どちらも開かれていない。けれど、その意味はまるで違った。


 本は、これから開くことができるもの。


 手紙は、今は開かなくてよいもの。


 アデリナは長い間、その二つを見つめていた。


 やがて、古例集に手を伸ばした。封書ではなく、本のほうへ。


「殿下」


「はい」


「私は、今日、王宮へ戻らなくてもよろしいのでしょうか」


 その問いは、許可を求めているようでいて、少しだけ違った。


 戻らない可能性を、初めて自分の前に置いた声だった。


 セドリックは、胸の奥に生まれた安堵を隠した。安堵もまた、彼女に押しつけてはならない。


「戻るかどうかは、あなたが決めることです」


 アデリナは本を開いた。


 薄い紙が、朝の光の中で小さく鳴った。


 その音は鍵の回る音ではなかった。扉が閉まる音でもなかった。


 けれどセドリックには、それが彼女自身の名で、最初の頁を開く音に聞こえた。


 王宮からの手紙は、まだ封を切られないまま、冷めていく紅茶の隣に置かれていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ