第6話 彼女は逃げていない
修道図書館の客室に置いた鍵は、まだ一度も回されていなかった。
セドリック・アルヴェインは、扉の外からそれを見た。古い真鍮の鍵は、卓上の白い封筒の隣に置かれている。封筒の中には、王立修道図書館の客員研究員としての滞在許可書と、閲覧権限の仮証明書が入っていた。
署名欄は空白のままだ。
それでいい、とセドリックは思った。
署名を急がせるために用意した紙ではない。ここにいてもよい、と示すための紙だ。使わないなら使わないでよい。読まないなら読まないでよい。
選択肢とは、差し出した者の満足のためにあるのではない。
「殿下」
廊下の向こうから、図書館付きの老司書が静かに歩いてきた。
「フォーリア嬢は、南閲覧室にいらっしゃいます」
「本を?」
「いいえ。書架の前で、背表紙をご覧になっているだけでございます」
セドリックは頷いた。
昨夜、アデリナは馬車の中でほとんど話さなかった。修道図書館に着いてからも、客室の場所と食事の時間を確認し、礼儀正しく礼を述べただけだ。
泣かなかった。怒らなかった。震えもしなかった。
だからこそ、セドリックは距離を置いた。
平気な人間が静かなのではない。静かでいることに慣れすぎた人間は、壊れる時にも音を立てない。
南閲覧室には、朝の光が細く差し込んでいた。
修道士たちが磨き続けてきた床は鈍く光り、壁一面の書架には古い礼法書や婚姻記録、各国の外交典礼集が並んでいる。その前に、アデリナは立っていた。
淡い金の髪はいつもどおり結い上げられ、薄紫のドレスにも乱れはない。白手袋だけが、昨日より少し新しかった。
手袋を替えたのだろう。
隠すものが、まだそこにあるから。
「おはようございます、フォーリア嬢」
声をかけると、彼女は振り向いた。
「おはようございます、殿下」
完璧な礼だった。
王宮で何百回も見た礼。誰にも負担をかけず、相手の身分を損なわず、自分の疲労を一片もこぼさない礼。
セドリックは、その美しさを褒めなかった。
「昨夜は眠れましたか」
「客室をお借りしておきながら、失礼を申しますが」
「はい」
「少しだけ」
「それはよかった」
アデリナはわずかに目を伏せた。
「よかった、のでしょうか」
「少しでも眠れたなら」
それ以上は言わなかった。
眠れなかった理由を尋ねることはできる。王妃の命令か、父の言葉か、ガルディス伯爵家の資料か、礼法局の机に置いた鍵か。
けれど、問いは時に刃になる。
答えられない人間に向けられた善意の問いほど、残酷なものはない。
セドリックは手にしていた盆を近くの机へ置いた。温かい紅茶と、薄く焼いたパン。図書館の厨房で用意させたものだ。
「朝食です。不要なら、そのまま下げさせます」
「ありがとうございます」
「食べるかどうかは、あなたが決めてください」
アデリナの指先が、ほんの少し止まった。
それから彼女は椅子に座り、カップを持ち上げた。湯気が白手袋の甲をかすめる。王宮の慈善会で出される紅茶より、香りはずっと質素だった。
「王宮から、使者が来るかもしれません」
アデリナは紅茶を見たまま言った。
「来るでしょうね」
「私は、対応すべきでしょうか」
「それも、あなたが決めることです」
彼女は黙った。
黙る前に、言葉が一度喉元まで上がったのが分かった。アデリナはいつも、言葉を選ぶ前に相手の立場を先に置く。王妃のため、父のため、礼法局のため、傷ついた夫人たちのため。
そして自分のための言葉だけが、最後まで残らない。
「殿下は、私をかくまっているとお叱りを受けるかもしれません」
「私は後援者として、研究員候補に部屋を貸しただけです」
「まだ署名しておりません」
「ですから、候補です」
アデリナは初めて、わずかに瞬きをした。
笑ったわけではない。けれど、張りつめた糸が一瞬だけ揺れた。
「詭弁ではございませんか」
「王族には、たまに便利な言葉があります」
「殿下らしくありません」
「私らしさを、あなたに決めていただけるほど、まだ親しくはないと思っていました」
言ってから、少し踏み込みすぎたかと思った。
だがアデリナは怒らなかった。困ったように視線を落とし、カップの縁を見つめた。
「申し訳ございません」
「謝るところではありません」
「癖で」
短い言葉だった。
癖。
その一語の中に、何年分の沈黙が畳まれているのか。セドリックは考えないようにした。考えれば、怒りが先に立つ。
怒りは、今、彼女の代わりに掲げるものではない。
「王宮では、慈善会の後片づけが始まっている頃でしょう」
アデリナが言った。
「気になりますか」
「はい」
正直な返事だった。
「私が残した指示で足りるか、リネットが困っていないか、エミリア伯爵夫人が青の間に通されていないか、ダルトン侯爵夫人の前に赤薔薇が置かれていないか」
彼女はそこで口を閉じた。
言ってしまった、という顔をした。
セドリックは静かに聞いた。
「あなたが守っていたものは、多いのですね」
「私が守ったなどと」
「では、整えていた」
「それは、職務です」
「職務なら、対価と権限と休息が必要です」
アデリナは、返事をしなかった。
伏せられていた本に目を向ける。机の端に置かれた古い礼法書だった。表題は『寡婦および離縁女性の社交復帰に関する古例集』。彼女が手に取ったのだろう。けれど、まだ開かれていない。
「その本を読んでもかまいません」
「許可が必要では」
「閲覧許可なら、仮証明書に入っています」
「署名しておりません」
「読むだけなら、司書に私の名を出してください。研究員になるかどうかは別です」
アデリナは封筒を見た。
白い封筒。空白の署名欄。押しつけられていない未来。
それが彼女にとって、かえって扱いに困るものなのだとセドリックには分かった。
命じられることに慣れた者は、選ぶことに戸惑う。
それは弱さではない。選ぶ権利を長く預けさせられてきた者の、当然の遅れだった。
「殿下」
「はい」
「私は、逃げたのでしょうか」
昨夜と同じ問いだった。
しかし声は、少し違っていた。馬車の揺れの中では、自分を裁くための問いに聞こえた。今は、誰かが貼った名札を剥がそうとする問いだった。
セドリックは答えを急がなかった。
窓の外では、修道士が中庭の落ち葉を掃いている。箒の音が、石畳の上を乾いて滑った。
「あなたは、最後の仕事を終えました」
彼は言った。
「王妃殿下の挨拶文を整え、席次を直し、傷つく人が少なくなるよう道を作った。その後で、鍵を返し、辞表を置き、自分の足で出てきた」
アデリナの手が、カップから離れた。
「私には、それを逃亡とは呼べません」
「では、何と」
「退職です」
彼女は目を上げた。
あまりに当然の言葉を、初めて聞いたような顔だった。
「退職」
「はい。あるいは、撤退。あるいは、拒否。どれを選ぶかは、あなたのものです」
「拒否、ですか」
「嫌なものを嫌だと思うことは、礼を欠くことではありません」
アデリナは答えなかった。
ただ、紅茶の表面を見ていた。湯気はもう薄くなっている。冷めきる前に飲むかどうかも、彼女が決めることだった。
廊下で足音がした。
老司書が封書を一通持って入ってくる。王宮の紋章。王妃付きの侍女が運んできたのだろう。
「フォーリア嬢宛てでございます」
アデリナの顔色は変わらなかった。
変わらなかったことが、セドリックには痛かった。
「ここに置いてください」
彼が言う前に、アデリナが静かに答えた。
「まだ、読みません」
老司書は一礼し、封書を机の端に置いた。
王宮からの手紙は、伏せられた本の隣に並んだ。どちらも開かれていない。けれど、その意味はまるで違った。
本は、これから開くことができるもの。
手紙は、今は開かなくてよいもの。
アデリナは長い間、その二つを見つめていた。
やがて、古例集に手を伸ばした。封書ではなく、本のほうへ。
「殿下」
「はい」
「私は、今日、王宮へ戻らなくてもよろしいのでしょうか」
その問いは、許可を求めているようでいて、少しだけ違った。
戻らない可能性を、初めて自分の前に置いた声だった。
セドリックは、胸の奥に生まれた安堵を隠した。安堵もまた、彼女に押しつけてはならない。
「戻るかどうかは、あなたが決めることです」
アデリナは本を開いた。
薄い紙が、朝の光の中で小さく鳴った。
その音は鍵の回る音ではなかった。扉が閉まる音でもなかった。
けれどセドリックには、それが彼女自身の名で、最初の頁を開く音に聞こえた。
王宮からの手紙は、まだ封を切られないまま、冷めていく紅茶の隣に置かれていた。




