第5話 禁忌色の花
花瓶の中で、たった一輪の花だけが間違っていた。
リネットは、そのことに気づいた時、最初は自分の目を疑った。
王宮礼法局の控室は、慈善会の後片づけでまだ落ち着かなかった。銀盆は戻され、余った席次表は紐で束ねられ、寄付目録には王妃の署名を待つ栞が挟まれている。
いつもの仕事だった。
少なくとも、昨日まではそう思っていた。
「リネット、青の間の花を替えたのはあなた?」
礼法局長ミランダ夫人の声に、リネットは背筋を伸ばした。
「はい。王妃様から赤薔薇を白百合に替えるよう、ご指示がございましたので」
「その後、白百合を薄青のリリアンに?」
「花房係が白百合を切らしておりました。薄青のリリアンなら香りも弱く、上品かと」
答えながら、リネットは自分の判断を丁寧に並べた。
赤薔薇はダルトン侯爵夫人に差し障る。白百合はない。では香りが強すぎず、色も控えめな花を選ぶ。礼法官として、間違ったことはしていないはずだった。
ミランダ夫人は、机の上の小さな覚書を見た。
「今日の午後、隣国ラウレア王女殿下が青の間をお使いになる予定だったのよ」
「存じております。ですから、香りの弱いものを」
「ラウレアでは、薄青の花は弔意の色です」
リネットの手から、席次表の端が滑った。
紙が床に落ちる音は、思ったより小さかった。けれど、その小さな音が控室の中を長く転がった。
「……申し訳ございません」
「謝罪は私にではなく、必要なら外交課へ。幸い、まだ王女殿下はお入りになっていないわ」
幸い。
その言葉に、リネットは胸を撫で下ろしかけた。
しかし、ミランダ夫人の顔は晴れなかった。
「フォーリア嬢なら、なぜ赤薔薇を外すのかまで書いていたかしら」
「昨日の表には、理由欄が空白でした」
「では、別紙があったのかもしれません」
「別紙、ですか?」
リネットは戸惑った。
アデリナの机は整いすぎているほど整っていた。辞表と鍵と、ガルディス伯爵家の資料と、真珠の髪飾り。残されていたものは、それだけだと聞いている。
それだけ。
けれど、アデリナの仕事が本当にそれだけで終わるはずがなかった。
リネットは床から席次表を拾った。昨日の朝、アデリナが自分に渡したものだ。角はまっすぐ、余白は広く、指示は短い。
エミリア伯爵夫人は東控室へ。
ダルトン侯爵夫人の動線に赤薔薇を置かないこと。
ベルティエ子爵夫人と同室にしないこと。
東廊下の詩人は西回廊へ。
読み返すほど、分からないことばかりだった。
なぜ東控室なのか。
なぜ赤薔薇なのか。
なぜ詩人がいけないのか。
昨日のリネットは、分からないまま頷いた。
フォーリア様がいらっしゃるから大丈夫です、と。
その言葉を口にした時、アデリナはどんな顔をしていただろう。
思い出そうとして、リネットは困った。アデリナの顔はいつも同じだった。淡い微笑み。静かな声。白手袋の指先。感情が乱れない、美しい礼法官の姿。
だから安心していた。
安心して、聞かなかった。
「リネット」
ミランダ夫人が声を落とした。
「花はすぐに下げなさい。ラウレア王女殿下には、銀の花器だけを置いて。花がない理由は、王宮庭園の朝摘みが間に合わなかったと」
「はい」
「それから、王妃様にはまだ報告しないで」
「ですが」
「王妃様は慈善会の余韻でお疲れです。小さな手違いを大きくする必要はありません」
小さな手違い。
確かに、まだ何も起きていない。
薄青の花は下げればいい。席次表は直せばいい。控室も、目録も、王妃の挨拶文も、誰かが整えればよい。
誰かが。
リネットはその言葉の中に、これまでずっとアデリナの名前を入れていたことに気づいた。
「フォーリア様は、本当にお戻りになるのでしょうか」
気づけば、そう尋ねていた。
ミランダ夫人は一瞬だけ黙った。
「戻るでしょう。あの子は責任感が強いもの」
「辞表を出されても、ですか」
「辞表は受理されていません。疲れている時に書いたものを、すぐ本心と決めつけるのは酷でしょう」
リネットは頷いた。
頷くことが、礼法局の若手として正しい態度だと思った。
けれど、足元に落ちた席次表の折れ目が、どうしても気になった。
アデリナは疲れていた。
それは皆、知っていた。
遅くまで残っていたことも、白手袋を何度も替えていたことも、王妃の挨拶文を夜明け前まで直していたことも。
知っていた。
知っていて、誰も止めなかった。
責任感が強いから。
頼めば必ず仕上げるから。
フォーリア様がいらっしゃると安心だから。
その安心を、リネットも受け取っていた。
礼法局を出て青の間へ向かうと、廊下にはまだ慈善会の名残があった。壁際に置かれた椅子、使われなかった招待状の控え、冷めた紅茶の香り。銀盆の上には、飲まれなかったカップがひとつ残っている。
アデリナは、こういうものにも気づく人だった。
飲まれなかった紅茶を見て、その人が誰と会いたくなかったのかまで考える。椅子の角度を見て、どの夫人が退路を欲しがっているのかを読む。花の色ひとつで、誰かの喪と、国の禁忌と、王妃の評判を同時に守る。
リネットは、青の間の扉を開けた。
薄青のリリアンは、静かに咲いていた。
悪意など少しもない顔で。
そのことが、かえって怖かった。
「すぐに下げてください」
花房係に声をかけると、若い係は不思議そうに首を傾げた。
「なぜでございますか? 昨日、フォーリア様が外せとおっしゃったのは赤薔薇だけだと」
「薄青もいけません」
「どなたのご指示で?」
リネットは言葉に詰まった。
アデリナなら、ここで短く答えただろう。誰も傷つけず、誰にも責任を押しつけず、けれど必要な人をすぐ動かす言葉を選んだだろう。
リネットは、それを見てきた。
見てきただけだった。
「礼法局の判断です」
ようやく言った声は、少し硬かった。
花房係はまだ納得していない顔をしていたが、花瓶を抱えて下がった。
花がなくなった青の間は、急に広く見えた。
中央の卓。壁際の椅子。淡い光を受ける銀の花器。そこには何も入っていないのに、さきほどの薄青だけがまだ残っているようだった。
リネットは、花器の前で立ち止まった。
空の花器は美しくない。
けれど、間違った花があるよりはずっとましだった。
それも、アデリナがいつか言っていた気がする。
完璧に飾ることより、傷を増やさないことが先です。
その時のリネットは、なんて慎重なのだろうと思った。
今なら少しだけ分かる。
慎重だったのではない。
アデリナは、誰かが踏む前に破片を拾っていただけだった。
午後の鐘が鳴る。
ラウレア王女殿下の到着を知らせる鐘だ。
リネットは席次表を胸に抱え、青の間の扉を閉めた。指先が冷えている。白手袋の下に汗がにじむ。
礼法局に戻れば、まだ直すべきものが山ほどある。
寄付目録の順。控室の組み替え。王妃への報告。外交課への釈明。アデリナの机から見つからない別紙。
そして、おそらく。
自分たちが見つけられないまま、アデリナだけが覚えていた理由。
廊下の向こうで、ミランダ夫人の声がした。
「フォーリア嬢の引き継ぎ書を探して。全部よ」
リネットは返事をしようとして、喉が詰まった。
引き継ぎ書。
そんなものがあるなら、なぜ最初から探さなかったのだろう。
そんなものがなければ、なぜあると思っていられたのだろう。
青の間には、花のない花器だけが残った。
その空白をどう埋めればよいのか、王宮礼法局の誰もまだ知らなかった。




