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家のため国のためと何度も言われましたので  作者: 九葉(くずは)


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第4話 すぐ戻るでしょう

 慈善会の朝、王妃エレオノーラは赤薔薇を一本、扇のそばに置かせた。


 花弁は濃く、朝露を含んだように瑞々しい。白い卓布の上では、赤がよく映えた。慈善会には華やぎが必要だ。救われる者も、救う者も、暗い顔ばかりでは前へ進めない。


 エレオノーラはそう信じていた。


「フォーリア嬢は?」


 控えていたリネットが、ほんの少し視線を泳がせた。


「まだ、こちらへは」


「まあ」


 エレオノーラは微笑んだ。


「昨日まで無理をさせましたものね。少し休んでいるのでしょう」


 アデリナはいつも、始まりの前にいる令嬢だった。挨拶の文面、寄付目録、控室の火加減、夫人たちの席の角度。王妃が会場に入る頃には、すべてが美しく整っている。


 今日も、そうであるはずだった。


 だからエレオノーラは、アデリナの不在を欠けたものとは思わなかった。彼女は聞き分けがよく、責任感が強い。疲れて少し遅れても、必要な時には必ず戻ってくる。


「先に始めましょう。フォーリア嬢には、後で温かい紅茶を持たせて」


「かしこまりました」


 リネットの返事は澄んでいたが、手にした名簿の端がわずかに震えていた。


 最初の違和感は、控室から届いた。


 エミリア伯爵夫人が、本来の控室ではなく大広間脇の青の間へ案内されたという。青の間には、再婚を控えた若い子爵令嬢と、その母親たちが集められていた。


「それが何か?」


 エレオノーラは首を傾げた。


 エミリア伯爵夫人は、夫と別れてから初めて王宮の慈善会に出る。だからこそ、明るい方々と同席させたほうがよいのではないか。悲しみを悲しみだけで囲うより、希望のそばに置くべきだ。


 けれど報告に来た侍女は、言葉を選ぶように唇を結んだ。


「青の間で、どなたかが……『次はよいご縁があるとよろしいわね』と」


 扇の骨が、エレオノーラの指の中で小さく鳴った。


「悪気はなかったのでしょう」


「はい」


「エミリア夫人は?」


「お笑いになっていました」


 ならば大丈夫だ、とエレオノーラは思った。


 社交の場では、誰もが多少の言葉を飲み込む。笑えたのならば、まだ傷にはならない。そういうものだ。自分も、若い頃はそうして王妃になった。


 けれど、アデリナなら青の間に案内したかしら、と一瞬だけ思った。


 その思いは、次の報告で薄れた。


「寄付目録の読み上げ順ですが、ローデン辺境伯夫人より先にダルトン侯爵夫人のお名前を」


「順当では?」


「金額では、そうなります」


 リネットが答えた。


「フォーリア様の表では、ローデン辺境伯夫人が先でした。ただ、理由の欄が空白で……金額順に改めました」


 エレオノーラは目録を受け取った。整った文字で、寄付額と家名が並んでいる。数字に従えば、確かにダルトン侯爵夫人が先だ。


「よい判断です。慈善会は公平でなくてはなりません」


 そう言った直後、広間の端で空気がわずかに歪んだ。


 ローデン辺境伯夫人は微笑んでいた。あまりに丁寧な微笑みだった。隣の夫人が気遣わしげに目を伏せる。


 ローデン家は、昨冬の飢饉で領地の穀倉を開いた。金貨ではなく、小麦と馬車と医師を出した。金額に直せば目録の数字より大きいが、寄付目録には小さくしか載らない。


 それを、エレオノーラは今、思い出した。


 いいえ。アデリナなら、そういうことを先に知らせたはずだった。


 赤薔薇の香りが、ふと濃くなった。


「この薔薇は、どなたが?」


「花房係でございます。王妃様のお好みだと伺っておりますので」


「ええ、好きよ」


 エレオノーラは薔薇を見た。


 好きだった。祝福の色で、心を明るくする色だ。慈善会にはふさわしい。そう思っていた。


 その時、ダルトン侯爵夫人が入室した。


 夫人は深い灰色のドレスを着ていた。喪はもう明けている。けれど彼女の目が赤薔薇に触れた瞬間、白い手袋の指が扇を握りしめた。


 ほんの一瞬だった。


 誰も気づかないほどの、礼儀正しい硬直。


 エレオノーラだけが見た。見てしまった。


「……あの薔薇を、白百合に替えて」


 近くの侍女が慌てて動いた。


 リネットが小さく息を呑む。


「申し訳ございません。昨日、フォーリア様が赤薔薇は外すようにとおっしゃっていたのですが、理由が分からず」


「よいのです」


 エレオノーラは優しく言った。


「理由が分からない指示は、確かに迷いますもの」


 そう言いながら、胸の奥に細い棘が残った。


 アデリナは理由を書かなかったのではない。書けなかったのかもしれない。誰かの傷を、紙の上に置かないために。


 慈善会は滞りなく進んでいるように見えた。


 王妃の挨拶には拍手が起きた。寄付者たちは微笑み、令嬢たちは刺繍の袋を配り、楽師は柔らかな曲を弾いた。温かい紅茶も、いつもの銀盆で運ばれてきた。


 けれど、紅茶はいつもより少し熱すぎた。


 エミリア伯爵夫人は、カップに口をつけるふりだけをしていた。ローデン辺境伯夫人は、目録を見ない。ダルトン侯爵夫人の席からは、白百合に替えた後も赤薔薇の香りが消えないようだった。


 エレオノーラは扇を開いた。


 涼やかな風が頬に触れる。けれど心の中に生まれた小さな乱れは、扇では払えなかった。


「フォーリア嬢から、まだ連絡は?」


「いいえ」


 リネットは答えた。


「ただ、机に……辞表が」


 扇が止まった。


 会場のざわめきが、遠くなる。


「辞表?」


「ミランダ夫人が確認を」


「では、きっと疲れていたのね」


 エレオノーラは自分の声が普段どおりであることに安堵した。


「責任感の強い子ほど、時に大げさなことをするものです。数日休めば、落ち着くでしょう。フォーリア侯爵にもお伝えして」


「はい」


「ガルディス伯爵家の件もありますし、彼女も考える時間が必要だったのでしょう」


 アデリナは賢い。優しい。王妃の思いを分かってくれる。荒れた屋敷に灯をともすことが、どれほど尊い役目かを理解してくれる。


 そうでなければ、あの子ではない。


 エレオノーラは、空いた椅子に目を向けた。


 会場の端、柱の陰に近い場所に、一脚だけ誰も座っていない椅子があった。名札は置かれていない。招待客のためではなく、誰かが一時的に腰を下ろすための席に見える。


 けれど不思議と、その椅子だけが広間の中でいちばん目立った。


 アデリナがよく立っていた場所だった。


 目立たず、声を荒げず、扇の角度ひとつで侍女に合図を送り、花を替え、椅子をずらし、誰かの評判が傷つく前に道を作る。王妃の善意が美しく見えるように。救われる女性たちが、救われるという名で晒されないように。


 エレオノーラは、そこまで考えてから、そっと思考を閉じた。


 慈善会はまだ始まったばかりだ。


 アデリナはすぐ戻るでしょう。


 そう思うことは、とても自然で、とても優しいことのように思えた。


 会場の隅で、名札のない椅子が静かに空いていた。


 その空席が誰のために空けられていたのか、王妃は知らなかった。

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