第3話 辞表は礼法書の間に
去る朝ほど、いつも通りに整えたくなるものなのだと知った。
夜明け前の礼法局は、王宮の中でいちばん静かだった。
磨かれた廊下にも、まだ靴音は少ない。窓の外には薄い霧が残り、庭園の白薔薇は水を含んでうつむいている。
私は自分の机に向かい、昨日の予定表をもう一度開いた。
慈善会は本日午後。
王妃様のご挨拶は二刻目。
寄付目録の披露は三刻目。
エミリア伯爵夫人の席は、南窓側三番目。出入口に近く、王妃様から見え、けれど注目されすぎない場所。
私はその名札を指でなぞった。
エミリア・ラザフォード伯爵夫人。
離婚した女性の名は、社交界ではすぐ軽くなる。
昨日まで夫の爵位に守られていた人が、翌日には噂の皿に載せられる。誰も悪意などない顔で、彼女の衣装、笑い方、座る席、視線の向きを測る。
だから私は、席を守る。
椅子ひとつで、人は守られることがある。
椅子ひとつで、人は晒されることもある。
私自身の椅子は、もう予定表から消していた。
そのことが、奇妙に静かだった。
「フォーリア様。お早いのですね」
扉のそばで、侍女のノーラが声をかけた。手には洗い上げた白手袋がある。
「最後の確認を」
そう答えると、ノーラは少し眉を寄せた。
「最後、でございますか」
私はペンを置いた。
言葉は、時々、本人より先に本心を洩らす。
「今日の慈善会の、という意味よ」
「……左様でございますか」
ノーラは深く追及しなかった。
彼女は私の机の上を見たはずだ。礼法書の間に挟まれた白い封筒も、その横に置かれた銀の鍵も。
けれどノーラは、何も言わなかった。
長く仕える者は、主人の沈黙の輪郭を知っている。
そして、そこへ不用意に踏み込むことが、時に刃になることも知っている。
「手袋を」
「ありがとう」
差し出された白手袋に指を通す。
昨日の傷は、まだ布の下で少し痛んだ。だが、今日の私にはその痛みが必要だった。見えないまま、たしかにあるもの。大したことではないと片づけてきたもの。
それを忘れずにいるために。
「フォーリア様」
ノーラが、さらに小さな声で言った。
「お薬は、机の右の引き出しに入れてございます」
「ええ」
「……お忘れになりませんよう」
私は彼女を見た。
ノーラは目を伏せている。侍女らしく、余計なことを言わず、けれど言葉の端に小さな祈りを置いていた。
「忘れないわ」
そう答えると、彼女は一礼して下がった。
忘れない。
たぶん、それは薬のことだけではない。
午前の王宮は、慈善会の支度で慌ただしくなった。
花係が白百合を運び、給仕係が銀器を磨き、若手礼法官のリネットが名札を両手に抱えて廊下を行き来している。
「フォーリア様、こちらで間違いございませんか」
差し出された名札を確認する。
「ダルトン侯爵夫人は赤い飾り布の近くに置かないで。白の卓布へ」
「はい」
「ベルティエ子爵夫人とエミリア伯爵夫人の控室は離して」
「白の控室ですね」
「ええ。もしエミリア様が早く退出を望まれた場合は、東廊下ではなく南廊下へ案内して。記者まがいの詩人が東側にいるはずだから」
リネットの目が丸くなる。
「そこまでご存じなのですか」
「去年、婚約解消された令嬢の詩を書いて評判を取った人よ。悪気はないでしょうけれど、傷を物語に変えるのが早すぎる方だわ」
「……承知いたしました」
リネットは名札を抱きしめるようにして頷いた。
若い。
彼女はこれから覚えていけばいい。
ただ、私のように覚えなくてもいいことまで、全部抱え込む必要はない。
「フォーリア様がいらっしゃると、本当に安心です」
リネットは、何気なくそう言った。
私は微笑んだ。
「今日の手順は、すべて書面に残してあります。あなたにも読めるよう、余白に理由を添えました」
「ありがとうございます。けれど、フォーリア様に確認いただければ」
「確認者は礼法局長です」
リネットが瞬いた。
「本日から、でございますか」
「本日からです」
自分の声は、思ったより穏やかだった。
リネットは不安そうに私を見る。
その不安に、私は答えなかった。
答えれば、また安心を渡してしまう。
安心を渡すたび、私は自分の出口を少しずつ塞いできた。
午前の終わり、王妃様の侍女が礼法局へ来た。
「フォーリア様。王妃様がお呼びです」
私は最後の書類に封をしてから、立ち上がった。
王妃様の私室には、今日も白薔薇が飾られていた。
昨日外したはずの赤薔薇は、ここにはある。王妃様のお好きな花だからだ。
「アデリナ。準備は順調かしら」
「はい、王妃様。慈善会の手順は整っております」
「さすがね」
王妃様は微笑まれた。
そして、侍女に小箱を持ってこさせた。
見覚えのある真珠色の箱。
私は昨日から、一度も開けていない。
「髪飾り、まだ身につけていないのね」
「本日は礼法局の務めがございますので」
「まあ、真面目ね。けれど、ガルディス伯爵にお会いする時には、ぜひつけてちょうだい。あのお屋敷はまだ暗いから、あなたが少し明るくしてあげて」
昨日と同じような言葉だった。
けれど、今日は違う場所に届いた。
暗い屋敷を明るくする。
亡き妻の影を薄める。
娘御の寂しさを受け止める。
伯爵の孤独を包む。
私はいつの間にか、人ではなく灯りになっていた。
灯りは、誰が火を灯しているのかを尋ねられない。
ただ、暗ければ置かれ、消えれば替えられる。
「ガルディス伯爵には、慈善会の後にお会いすればよろしいでしょう。あちらもあなたに期待していらっしゃるわ」
期待。
その言葉は美しい。
けれど、向けられ続けると重い。
「王妃様」
今度こそ、私は声を出した。
王妃様が、穏やかにこちらを見る。
言えるだろうか。
私は嫁ぎたくありません。
私は伯爵家を立て直すために生まれたのではありません。
私はもう、誰かの善意の形に畳まれたくありません。
胸の中にあった言葉は、静かに並んでいた。
昨日よりも、はっきりと。
けれど、私はそれを口にしなかった。
ここで言えば、王妃様はきっと悲しまれる。
父は王妃様に恥をかかせたと言う。
礼法局長は、なぜもっと穏便にできなかったのかと眉をひそめる。
そして私自身も、きっと最後まで説明してしまう。
なぜ嫌なのか。
どこが苦しかったのか。
いつから限界だったのか。
説明すれば、相手に理解する機会を与えることになる。
私はもう、理解されることに期待していなかった。
「慈善会のご挨拶文で、一点だけ。エミリア伯爵夫人のお名前をお呼びになる時、少し間を置いてくださいませ」
王妃様は目を丸くし、それから嬉しそうに頷かれた。
「そうね。あなたのそういう心配りには、いつも助けられているわ」
「恐れ入ります」
私は深く礼をした。
最後まで、私は礼法官だった。
王妃様の私室を辞した後、父に廊下で呼び止められた。
「アデリナ」
「お父様」
父は満足そうだった。王妃様の私室から娘が呼ばれたことが、家の誉れとして数えられているのだろう。
「ガルディス伯爵との件、くれぐれも粗相のないように。王妃様のご厚情だ。お前なら分かっているな」
「はい」
「伯爵家は多少難しい家だが、お前なら務まる。お前は昔から聞き分けがよい」
聞き分け。
その言葉の中に、私の希望は一度も入っていなかった。
「お父様」
父の足が止まる。
「何だ」
「私は、聞き分けがよかったのでしょうか」
父は少しだけ眉を寄せた。
「何を今さら。お前の美点だ」
美点。
私は微笑んだ。
「左様でございますか」
父はそれ以上、尋ねなかった。
私も、それ以上は言わなかった。
礼法局へ戻ると、慈善会の準備はほとんど終わっていた。
机の上には、私が整えた書類が順に並んでいる。
席次表。
控室割り。
花の配置。
食事禁忌表。
王妃様の挨拶文。
寄付目録。
若手礼法官向けの注意書き。
一番下に、ガルディス伯爵家の資料。
私はそれだけを、封筒に戻した。
開いたところで、もう意味はない。
真珠の髪飾りの箱も、その上へ置く。王妃様からいただいた品だから、礼状だけは後ほど送ればよい。身につける必要はない。
礼法書の間から、辞表を取り出した。
昨日書いた文字は、燭火の下で見た時より冷静に見えた。
アデリナ・フォーリア。
私はそれを白い封筒に入れ、封をする。
宛名は、王宮礼法局長ミランダ夫人。
その横に、銀の鍵を置く。
鍵は軽かった。
こんなに軽いものに、私はずいぶん長く繋がれていた。
「フォーリア様?」
リネットが戸口から顔を出した。
「王妃様のご挨拶文、こちらでお持ちしてよろしいでしょうか」
「ええ。封の赤印が上になるように持って。途中で誰かに声をかけられても、立ち止まらないこと」
「はい」
彼女は紙束を抱え、少し不安そうにこちらを見た。
「フォーリア様は、会場へは」
「後ほど」
嘘ではない。
後ほど、私は別の場所へ向かう。
リネットは安心したように笑って、一礼した。
「では、お待ちしております」
その言葉が、胸の奥に小さく沈んだ。
待たれることと、必要とされることは似ている。
けれど、同じではない。
リネットが去った後、私は机の上を整えた。
引き出しの中の薬は、ノーラが言った通り右側にあった。私はそれを取り出し、机の中央に置く。
誰かのためではない。
私が忘れないために。
白手袋を外し、机の上に畳む。
今日のものは、まだきれいだった。
きれいなままの手袋を置いていけることが、少しだけ嬉しかった。
王宮の裏門へ向かう道は、普段ほとんど使われない。
正門は貴族たちのためにある。
大階段は王族のためにある。
裏門は、荷車と使用人と、誰にも見送られずに出ていく者のためにある。
私には、ちょうどよかった。
外へ出ると、風が少し冷たい。
慈善会の会場からは、遠く、楽士たちの調弦が聞こえた。これから王妃様が入場され、夫人たちは扇を開き、寄付目録が読み上げられる。
きっと、しばらくは何事もない。
そうなるように、整えてきた。
裏門の先に、一台の馬車が停まっていた。
深緑の紋章。王弟殿下、セドリック・アルヴェイン様のものだ。
馬車のそばに立っていた男性が、私に気づいて帽子を取る。
王宮の華やかな人々とは違う、落ち着いた影をまとう方だった。灰色の瞳は、こちらを急かさない。
「フォーリア嬢」
「セドリック殿下」
私は礼を取った。
「どうしてこちらに」
「あなたが、正門から出ないだろうと思いました」
心臓が、一度だけ強く打った。
責められたのではない。
咎められたのでもない。
ただ、見られていた。
私が正門を選ばないこと。
大階段を降りないこと。
見送りを望まないこと。
「乗らなくてもかまいません」
セドリック殿下は、私が答える前にそう言った。
「ですが、行く場所が必要なら、修道図書館の客室が空いています。あなたの名で、客員研究員の契約書も用意しました。読むかどうかは、あなたが決めてください」
命令ではなかった。
お願いでも、説得でも、救済でもない。
ただ、選択肢がそこに置かれた。
私はしばらく馬車を見た。
それから、王宮のほうを振り返った。
白い壁。高い窓。薔薇の庭。
私が長く、傷を傷に見せないよう整えてきた場所。
嫌いではなかった。
だからこそ、苦しかった。
「殿下」
「はい」
「私は、逃げるのでしょうか」
セドリック殿下は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、ありがたかった。
「少なくとも、私には、あなたが最後まで務めを果たしてから歩いているように見えます」
歩いている。
逃げるでもなく、連れ去られるでもなく。
私は小さく息を吸った。
「では、歩いてまいります」
「ええ」
セドリック殿下は馬車の扉を開けた。けれど、手は差し出さなかった。
私が自分で乗るのを、待っていた。
私は一歩を踏み出す。
王宮の中では、その頃きっとリネットが私を探している。
ミランダ夫人は、少し遅れているだけだと思うだろう。
王妃様は、疲れているのねと微笑まれるかもしれない。
父は、娘が王妃様のご用を受けていると思うはずだ。
誰も、まだ重大なことだとは思わない。
私がいなくても、今日の慈善会は始まる。
そして、始まってしまえば、誰もが初めて知ることになる。
翌日の慈善会で、王妃は初めて、アデリナのいない王宮を見た。




