第2話 白手袋の下
白いものほど、汚れを隠すのが上手い。
礼法局の朝は、いつも紙の音から始まる。
招待状の封を切る音。席次札を並べる音。羽根ペンが紙の上をすべる音。誰かが小さく咳払いをして、誰かが「フォーリア様」と私を呼ぶ。
昨日、机の上に置いた鍵は、まだ白い封筒の横にあった。
鍵を置いたからといって、すぐに扉が閉まるわけではない。
辞表を書いたからといって、今日の慈善会が消えるわけでもない。
私はいつも通り、白手袋をはめた。
指先の傷に布が触れて、少しだけ痛む。
大したことではない。
そう思いかけて、昨日の夜と同じように、やめた。
「フォーリア様、こちらの控室割りを確認していただけますか」
若手礼法官のリネットが、紙束を抱えて近づいてきた。頬にはまだ朝の紅が残っている。若く、素直で、少しだけ急ぎすぎる子だ。
私は受け取り、最初の一枚に目を落とした。
「エミリア伯爵夫人は、青の控室ではなく白の控室へ」
「白の控室ですか? 青のほうが広いですし、暖炉も近くて」
「青の控室には、ベルティエ子爵夫人がいらっしゃいます」
「はい。けれど、お二人はご親戚では」
「ベルティエ子爵夫人は、エミリア様の離婚について、夫君側に同情的な発言をなさっています。慈善会の前に顔を合わせれば、エミリア様は笑わなければならなくなる」
リネットのまつ毛が、小さく揺れた。
「笑うだけなら、大人のご婦人なら」
「笑わなければならない場所に置かないことも、礼法です」
言い切ってから、私は自分の声が少し冷たかったことに気づいた。
リネットは慌てて頭を下げる。
「申し訳ございません。そこまで考えが及びませんでした」
「謝ることではありません。今覚えればよいことです」
私は控室割りを直し、端に小さく印をつけた。
白の控室。南窓側。出入り口に近い椅子。
逃げ道を、目立たない形で用意しておく。
たとえ使わなくても、逃げられると思えるだけで、人は少し息ができる。
私にはなかったものだ。
「それから、花の手配は」
「王妃様のお好みに合わせて、赤薔薇を多めに」
「赤薔薇は外してください」
リネットは、昨日と同じ顔をした。
「ですが、王妃様は赤薔薇をお気に入りです」
「ダルトン侯爵夫人のご子息が、昨年、赤熱病で亡くなっています。赤い花は避けるべきです」
「あ……」
リネットの顔から、少し色が引いた。
「存じませんでした」
「礼法書には載っていませんから」
そう。
礼法書には、誰がどの花を見て息を詰めるかまでは書かれていない。
亡夫の名を出されるたび、指輪をなぞる夫人。
離婚後も旧姓で呼ばれると、一瞬だけ口元を固くする伯爵夫人。
婚約を解消された令嬢が、祝福の席で拍手をする時だけ視線を伏せること。
そういうものを覚えておくのが、私の仕事だった。
誰も傷つけない王宮などない。
けれど、傷を広げないようにはできる。
「白百合と、淡い菫を。香りの強いものは東側の卓から遠ざけてください。隣国の王女殿下は、甘すぎる香りで頭痛を起こされます」
「はい、すぐに」
リネットが走り出そうとして、私は呼び止めた。
「走らないで。王宮の廊下では、急ぎすぎると不安に見えます」
「はい、フォーリア様」
リネットは歩幅だけを小さく速めて出ていった。
若い靴音が遠ざかる。
私は机に戻り、王妃様の挨拶文を開いた。
昨日、削ったはずの「救済」という言葉が、別の箇所に残っている。
慈善とは難しい。
差し出す手が高すぎれば、相手は見上げなければならない。
低すぎれば、憐れまれていると感じる。
同じ高さに見せるために、言葉の台を何度も削る。
私は羽根ペンを取り、「救済」を「支援」に直した。
「哀れな境遇にある方々」を「新たな道を歩む方々」へ。
「再び家庭に迎えられる幸い」を、丸ごと消す。
その一文だけは、何度見ても喉に刺さった。
再び家庭に迎えられることだけが幸いなら、家庭を出た女は何になるのだろう。
「フォーリア様」
礼法局長のミランダ夫人が、戸口から声をかけてきた。
年配の夫人で、背筋がまっすぐな方だ。若い頃に厳しい王宮勤めを乗り越えたことを、今も誇りにしていらっしゃる。
「王妃様の挨拶文は整いましたか」
「はい。いくつか表現を和らげました」
「助かりますわ。あなたに任せておけば、王妃様も安心なさるもの」
安心。
その言葉は、朝から何度も私の周りを回っている。
「慈善会が終わりましたら、ガルディス伯爵家の資料にも目を通しておきなさい。伯爵家の使用人配置が少し乱れているようです。あなたが入る前に、把握しておいたほうがよいでしょう」
入る前。
まるで、すでに私があの屋敷の一部になることが決まっているかのようだった。
私は羽根ペンを置いた。
「ガルディス伯爵家の資料でございますか」
「ええ。王妃様もお気になさっているの。お嬢様の家庭教師、侍女長、亡き奥方のご親族。いろいろと調整が必要でしょう。あなたなら、うまくできますわ」
ミランダ夫人は悪びれない。
むしろ、私を評価してくださっているつもりなのだろう。
あなたならできる。
あなたなら分かる。
あなたなら耐えられる。
褒め言葉は、時々、仕事を増やす鎖になる。
「承知いたしました」
私が答えると、ミランダ夫人は満足そうに頷いた。
「本当に頼もしいこと。若い方々も、あなたを見習うとよいのだけれど」
私の何を、見習えばよいのだろう。
言い返さないこと。
体調を崩さないように見せること。
嫌なことを嫌だと言わず、笑って紙の上で整えること。
リネットに、それを覚えてほしくはなかった。
昼前、王妃様の侍女が真珠色の封筒を運んできた。
「王妃様より、フォーリア様へ」
封筒には、ガルディス伯爵家の家紋が添えられている。
中には、伯爵家の屋敷図、使用人名簿、娘御の年齢、亡き奥方の親族一覧、過去三年分の招待状の写しが入っていた。
私は一枚ずつ目を通した。
侍女長は亡き奥方の実家から来た人。料理長は伯爵の古い従者。娘御は十二歳。社交界デビューまであと四年。家庭教師は二度替わっている。
これは、再婚相手に渡す資料ではない。
屋敷を立て直す者に渡す資料だ。
私の結婚は、いつの間にか修繕計画になっている。
机の上の紅茶は、また冷めていた。
誰が置いてくれたのか、覚えていない。
忙しい時ほど、私は紅茶を飲み忘れる。飲み忘れたことにも、あとで気づく。
手を伸ばしかけて、やめた。
白手袋の指先に、またインクがついていたからだ。
「フォーリア様、お召し替えを」
控えていた侍女のノーラが、小さな声で言った。
「その手袋では、王妃様の前に出られません」
「そうね」
私は手袋を外した。
布の内側は、思ったより汚れていた。インクだけではない。紙の縁で擦れた赤み。封蝋を割った時についた小さな痕。古い傷の上に重なった、今日の傷。
ノーラが息を呑む。
「お薬を」
「あとで」
「フォーリア様」
「慈善会の名札が先です」
ノーラは何か言いたそうにしたが、言わなかった。
使用人は、主人の沈黙に慣れてしまう。
主人もまた、使用人の飲み込んだ言葉に気づかないふりをする。
私は新しい白手袋を受け取り、指を通した。
傷は、見えなくなった。
午後、王妃様の私室で最終確認が行われた。
王妃様は私の直した挨拶文を読み、にこやかに頷かれた。
「こちらのほうが上品ね。あなたの言葉は、いつも角が立たないわ」
「恐れ入ります」
「明日の慈善会も、これなら問題ないでしょう。エミリア伯爵夫人にも、私の気持ちは伝わるはずね」
王妃様のお気持ち。
そのお気持ちが、相手にとって重荷にならないように削ったのだとは、言わなかった。
言えば、王妃様は悲しまれる。
私はいつも、誰かが悲しまない言葉を選んできた。
王妃様は思い出したように微笑まれる。
「そうそう、ガルディス伯爵の娘御のことだけれど。母を亡くして気難しくなっていると聞くわ。でも、あなたなら大丈夫ね。無理に母になろうとしなくても、そばにいてあげるだけでいいの」
そばにいるだけ。
その言葉も、王宮ではよく使われる。
そばにいるだけでいいと言われた人間は、たいてい、黙って相手の傷を受け止めることになる。
「伯爵もお寂しいでしょうし、あなたの穏やかさはきっと救いになるわ」
救い。
私は削ったばかりの言葉を、王妃様の口から聞いた。
「……王妃様」
声を出した瞬間、自分でも少し驚いた。
王妃様がこちらを見る。父も、ミランダ夫人も、私を見る。
言えるだろうか。
嫌です、と。
私はガルディス伯爵を存じ上げません。
私は伯爵家を立て直すための道具ではありません。
私は誰かの亡き妻の跡を、静かに埋めるために生まれたのではありません。
言葉は胸の中にあった。
けれど、そこから先へは出てこなかった。
王妃様の善意。父の期待。礼法局の安心。ガルディス伯爵の痛み。伯爵の娘御の未来。
それらが幾重にも重なって、私の言葉の上に座っている。
「いえ。挨拶文の末尾に、少しだけ修正を」
私はそう言った。
王妃様はほっとしたように笑った。
「まあ、お願いね」
父も小さく頷く。
ミランダ夫人は「やはりフォーリア嬢は細やかね」と微笑んだ。
誰も、今の沈黙が何だったのかを尋ねなかった。
尋ねる必要がないと思ったのだろう。
私はいつも通りだったから。
礼法局へ戻る頃には、日が傾いていた。
机の上には、明日の慈善会の予定表が広がっている。
招待客の到着時刻。控室。席次。花。食事。王妃様の挨拶。寄付目録。退出順。
その端に、小さく私の名がある。
総確認、フォーリア。
私はしばらく、その文字を見つめた。
アデリナ・フォーリア。
昨日、辞表に書いた名と同じなのに、そこにある意味はまるで違った。
こちらの名前は、仕事のための印。
誰かが安心するための配置。
王宮がつまずかないための、小さな楔。
私はペンを取った。
エミリア伯爵夫人の席を、もう一度だけ確認する。
赤薔薇が外されたことを確認する。
隣国王女殿下の食事表に印をつける。
王妃様の挨拶文から、最後の棘を抜く。
全部、終えた。
私がいなくても、明日の慈善会だけは形になる。
そうであってほしかった。
私が守りたいと思った人たちまで、私の不在で傷ついてほしくはなかった。
窓の外で、鐘が六つ鳴る。
礼法局には、もう人影が少ない。リネットは花の手配へ、ミランダ夫人は王妃様のもとへ、ノーラは洗濯室へ下がっている。
私は予定表の端にある自分の名へ、ペン先を置いた。
一度だけ、息を吸う。
そして、静かに線を引いた。
総確認、フォーリア。
その文字は、黒い一本の線の下に沈んだ。
代わりに、横へ小さく書き添える。
総確認、礼法局長確認済。
嘘ではない。
ミランダ夫人は、きっと明日の朝に確認なさる。確認せざるを得なくなる。
机の脇には、昨日の白い封筒があった。
礼法局の鍵。
辞表。
真珠の髪飾りは、まだ箱の中。
私は新しい白手袋を外し、汚れたほうの手袋と重ねた。
白い布は、並べるとどちらも同じように見える。
けれど内側を返せば、片方だけが灰色だった。
その違いを、誰も知らない。
私は慈善会の席次表を最後まで直した。
そして、自分の名だけを王宮の予定表から消した。




