4.数時間、数行、一人
結局、俺は運営に何も返さないまま家を出た。
返事を保留にしたのは、迷っていたからというより、迷うための時間が欲しかったからだ。
電車に揺られている間も、講義で教授の声を聞き流している間も、頭の片隅にはずっとあの一文が引っかかっていた。
真昼クレアにはぜひ、枯れ尾花様から言葉を贈っていただきたいのです、という一文が。
昼休みに学食で向かいに座った佐倉が、まだ昨日の番組の話を引きずっていた。
真昼クレアの紹介した本がどうのと喋り続ける彼に適当な相槌を打ちながら、俺はこの状況の異常さを改めて噛み締めていた。
この瞬間、佐倉の目の前で、その本の作者本人が冷めたうどんをすすっている。
世界で一番その本に詳しい人間が、世界で一番気のない顔でそれを聞いている。誰も気付かないし、今さら気付かれてたまるかとも思う。
受けるべきなのか。
考えても考えても、最初に出てくるのは尻込みする自分の心の声だった。
何万人もの前で発表される言葉を書くことができるのか?
気の利いた文章なんて書けるはずがない。
書けていたら、とっくに本は売れているのだから。
断る理由ならいくらでも転がっていた。
それでも、夕方の帰り道で空がオレンジに染まり始めた頃、俺の足はいつの間にか止まっていた。
思い出していたのは、昨夜の真昼クレアの顔だった。
完璧なアイドルの仮面が剥がれ、端正な顔を歪めて少しだけ泣きそうになっていた。
いてもいなくても同じなんじゃないか。
あんなに多くのものを持っていて、絞り出した問いがそれなのだとしたら、心が疲弊し過ぎている。
そんな彼女に、俺の書いた物語が届いていた。
たった一人でも救えていた。
その事実の前で、断る理由は急に色褪せて見えた。
俺が無気力に生きてきた間にも、彼女はずっと、あの本を抱えて生きてきたのだ。何年何年も、俺の代わりに。
それを昨夜……収録的には何ヶ月か前だとしても、勇気を出してカメラの前で打ち明けてくれた。応えないでいるのは不誠実だ。
俺はポケットからスマホを取り出した。
運営からのメッセージを開いて、返信欄に短く打ち込む。
『わかりました。お引き受けします』
送信した。打つのに十秒もかからない。
心臓がバクバク鳴って、道端の人にも聞こえているんじゃないかと思った。
返事は驚くほど早く来た。
ものの数分も経たないうちに画面の上に通知が滑り込んでくる。
丁寧な感謝の言葉と、それから本題が続いていた。
『では早速ですが、真昼クレアへのメッセージをお送りいただけますでしょうか。明日の本番で使わせていただきます』
気が付くと、俺は家のベッドに腰を下ろしていた。
もはや無意識にも等しい状態で帰路につき、文面を考え続けていたのだ。
トークルームでは、「さぁ書け」という顔をして白い欄が俺を待っている。
指を動かした。
あなたの言葉に救われたのは——そこまで打って消した。重い。いきなり重すぎる。相手は何万人の前でこれを聞くのだ。湿っぽいのは違うだろう。
はじめまして。あなたが私の本を——今度は他人行儀すぎて、自分で書いていて寒くなった。消す。
この本に出会ってくれて——出会ってくれて、何だ。ありがとう? ちょっとクサすぎる。礼を言うべきなのは俺で間違いないが、もう少し他の言い方があるはず。
書いては消し、消しては書いた。
言いたいことは山ほど浮かんできた。ほとんどが自分語りに近しいとしても。
それなのに、いざ形にしようとすると、どの言葉も嘘くさく濁ってしまう。
本音に近付こうとするほど指が竦んで、当たり障りのない言葉に逃げたくなる。
逃げた瞬間、それはもう彼女に向けた言葉ではなくなってしまった。
何度書き直したか分からなくなった。
窓の外はとっくに暗くなっていた。
部屋の電気もつけないまま、俺はスマホの光だけを頼りに、たった数行の言葉と格闘し続けていた。
書くことを仕事にしようとした人間が、たった一人へのメッセージに何時間もかけている。
笑える話ではあるが、笑う余裕もない。
どれだけ削っても残ってしまう、本当に伝えたい芯みたいなものが、自分の中に確かにあった。
それを取り出すのが、こんなにも難しいとは。
あの頃は簡単にできたのに。
ただ、懐かしい気持ちだ。
そして日付が変わろうという頃、俺は最後の一文字を打ち終えた。
何度も読み返して、もう足すものも引くものもないと確かめてから、ようやく歩みを止める。
「……できた」
達成感に塗れた声はひどく掠れていた。
送信の矢印に指を重ねる。今度は迷わなかった。
送られた文字がトークルームに小さく収まった。
何時間もかけたわりに、画面に並んだそれはあっけないほど短い。
たった数行だ。
しかし、一文字ずつ自分の中から確かに掘り出し、磨いた言葉。
送信してしまうと急に手持ち無沙汰になった。
返事はまたもや早かった。確認しましたという言葉に続いて、丁寧すぎるくらいの感謝が並んでいる。
素敵なメッセージをありがとうございます、当日大切に使わせていただきます。
それから、ひとこと添えられていた。
『真昼も、きっと喜びます』
その十文字程の言葉を、俺は何度か読み返した。
真昼クレアが俺の言葉を聞く。もちろん分かっている。理解した上で引き受けたのだ。
明日の本番で、きっと大きなステージの上で、何万人に囲まれながら、俺の絞り出した数行を、彼女の耳が拾う……。
想像しようとしても上手く像を結ぶことができない。
いまだに現実離れしているし、自分の言葉が自分の言葉だという実感が追いつかない。
スマホを置いて、暗い天井をしばらく眺めた。
やるべきことはもう終わったはずだった。
依頼を受けて言葉を送った。
俺の役目はそこまでで、あとは運営が勝手に明日へ運んでいく。
本来ならここで一区切りのはずだ。
それなのに……知りたいと思っている自分がいる。
あの言葉を聞いて、彼女がどんな顔をするのか。
喜ぶのか、戸惑うのか、それとも何も感じないのか。
送りっぱなしで終わらせるには、俺はあの数行に時間をかけすぎた。
誰かに届くと信じて言葉を書いたのは何時ぶりだったろう。
届いた先の顔を見ないまま終わるのは、どうにも据わりが悪い。
たとえ、待っているのが社交辞令的な笑みだったとしても。
身体を起こして、もう一度スマホを手に取った。
明日のライブ、会場のチケットはとっくに完売しているだろう。
そもそも俺はファンですらない。客席に紛れる資格なんてない。
ただ、調べているうちに配信があると知った。
ライブの模様を家からでも観られる。
チケットを買えば、画面越しにステージを覗けるのだ。
きっと、サプライズの場面も映るはずだ。
彼女が俺の言葉を聞く、その瞬間も。
購入ボタンが指の真下にある。
アイドルのライブを金を払って観るなんて、これまでの人生で一度も考えたことがなかった。
軽んじているのではなく、俺の人生には何も、夢中になれるものがなかったのだ。
暗い部屋でひとり画面に齧りつく明日の自分の姿を想像すると、我ながら締まらない絵だと苦笑してしまう。
だけど、後から自分を嗤う価値はある。
購入完了の文字が表示される。
明日の夜、俺はこの部屋で、真昼クレアのライブを観る。
忘れようもないが、忘れないように心の中で反芻する。
スマホを充電器に挿して、明かりを消した。
明日が来るのがこんなに待ち遠しいのは何時ぶりだろう。
感覚そのものが、もう何年も忘れていたものだった。
そして、呆気ないくらいにすぐ、その時はやってきた。
湿っぽいのは次回くらいで終わるので、もう少し読んでみてください。




