28.初めての誘い
翌日の午後、俺は喫茶店「きつつき」の奥の席にいた。
メモ帳とノートを広げて、昨夜の駅で書き留めたものを整理している。
客は俺のほかに一人だけで、カウンターの端では娘さん——檸檬さんが新聞を広げていた。
天井のスピーカーから流れているのは、曲名も分からない古いジャズだ。
コーヒーはとっくに冷めている。
書き写した項目を並べてみると、それなりの量になった。
改札で離れがたそうにしていたカップルに、手を繋いだまま黙っていた二人に、距離を空けて立っていた男女。あと、誰かを待っていた男。
どれも事実としては正確に書けているが……。
ペンを置いて、背もたれに身体を預けた。
問題はここからだ。
この材料をどう組み立てるのか。
恋人同士が別れる場面を書くとして、そこに立っているのは誰なのか。
何を思って、何を言って、どんな顔で去るのか。
そこが埋まらない。
「律くん」
顔を上げると、檸檬さんが水差しを持って立っていた。
「水……いる?」
「あ、お願いします」
グラスに水を注ぎながら、彼女は俺の手元に目を落とす。
「難しい顔してるね」
「そ、そうですか……?」
「ずっと同じページ見てる」
確かに、しばらく同じページのままだ。
スマホを点けて時間を確認するが、三十分は経っている。
檸檬さんは水差しをカウンターに置いて、向かいの椅子の背に手をかけた。座るわけでもなく、そこに立ったままでいる。
「また、書いてるの?」
「……まあ、そんなところです。まだ一行も書いてないんですけどね」
「書こうっていう気持ちが……大切なんじゃないの?」
大いに頷きたいところではあるが、残念ながら執筆という世界はそういうわけにはいかない。
こんな物語を書こうと意識して、実際にプロットを組み始めたとしても、最初の一行が書けずに心が折れてしまうこともある。
もっと辛いのは、一万字くらいで止まってしまった時だ。
継続力も発想力も、何もかもが足りないと自分自身に突きつけられている気がして、何もかも辞めてしまいたくなる。
書きたいという気持ちだけでは完結しないのだ。
だからといって、檸檬さんが俺を応援してくれる気持ちをむげにするつもりはない。
精一杯の微笑み……というか苦笑を返しておいた。
「前に来たときは、女の子と一緒だったね」
急に話が飛んだな。
「あの子は、今日はいないの?」
「今日は一人です」
「そう」
それだけ言って、彼女はまたカウンターへ戻っていった。
俺はノートに視線を戻したが、さっきの問いが引っかかっていた。
あの子は、という聞き方。檸檬さんは、俺が誰と会っていたか知らないはずだ。
テレビを見ないのか気付かないふりをしているのか、そこは分からないままだが、心当たりはなさそうだった。
考えても仕方がない。
ページをめくって、新しい行に書こうとしたが、書けない。
やはり、昨日の駅で見たものを小説の場面に変えるには、そこに立つ人物が要る。
人物には感情が要るし、感情は外から見えない。
ペンの先で、紙の上を軽く叩く。
浮かんできたのは水族館のことだ。
あの時の俺が見ていたのは、水槽ではなく人間だった。
カップルの距離を測り、立ち位置から関係を推し量る。
同じことを昨日もやっている。やり方は変わっていない。
……違うとすれば、隣に誰かがいたかどうかだ。
水族館では、彼女が横で反応していた。
クラゲに脳がないと聞いて笑ったり、ペンギンの水槽に近付きすぎたり。
人が何かを見て、感じて、どう顔に出るか。
想像しなくてよかった。すぐそこにあったからだ。
「律くん」
また声がした。
檸檬さんがカウンターの向こうから、こちらを見ている。
「コーヒー、淹れ直そうか?」
「……お願いします」
冷めたカップを下げにきた彼女が、ついでにと言い足す。
「一人だと進まないんだね」
返事に詰まった。
彼女は答えを待つ様子もなく、カップを持って奥へ引っ込んでいく。ミルの音がして、豆を挽く匂いが店に広がった。
・
淹れ直されたコーヒーが運ばれてきた。
「ありがとうございます」
「……あんまり、根を詰めすぎないようにね」
湯気の立つカップを受け取り、テーブルの上に優しく着地させた後、スマホを手に取る。
MINEを開いて、彼女とのやり取りを表示した。
最後の会話は水族館の写真の話で止まっている。
打つべきことは決まっている。
——次の取材について。
俺から誘うのは、これが初めてだ。
これまでは全部、彼女のほうから場所を提案してくれた。
モールも水族館も、行きましょうと言い出したのは彼女で、俺はそれに頷いていただけだ。
文面を打ち込んで、消して、もう一度打ち込む。
「取材の件で、ご相談があります」
一度送信してから続きを打った。
「次はカラオケに行けないでしょうか」
既読がついたのは三十秒後、返事はもっと早く来た。
『カラオケ! いいですね!』
『でも、どうしてカラオケなんですか?』
当然の質問だ。俺は指を動かした。
「これまでの取材は、全部人目のある場所でした。モールも水族館も、周りに他人がいます」
「でも、恋人同士であれば、二人きりでいる時間のほうが長いはずです」
「閉じた空間で二人きりになったときの参考にしたくて」
送信してから文面を読み返し……なんだか、良くない気がしてきた。
二人きりとか閉じた空間とか、並べてみると、まるで下心のある誘い文句だ。
取材のつもりで書いたのに、字面だけ見ると口説いていないか?
慌てて追加で打ち込む。
「すみません」
「いまのら」
「今のは取材上の必要性の話であって、他意はありません」
「あくまで」
「小説の場面を書くための」
既読はついたが返事がない。
俺はぬるくなりかけているコーヒーを一口飲んで、天井を仰いだ。
カウンターの方から、檸檬さんが新聞越しにこちらを見ているのが分かる。
三十秒ほどして、スマホが返事を知らせてくれる。
『はい』
『わたしでよければ、お付き合いさせてください』
いつもより短い返信だ。
これは……大丈夫だったのか?
「すみません、変な言い方をして」
『いえ大丈夫です!』
『全然、変じゃないです!』
『取材ですもんね!』
『二人きりの!』
『閉じた空間で!』
余計に危ない文面になってないか?
でも、彼女が俺の読者で助かった。
イジられているだけで、他意がないと理解してくれている。
『来週の日曜はいかがですか?』
「空いてます」
『じゃあ、決まりですね!』
やり取りが途切れて、俺はスマホを伏せた。
これで次の取材が決まった。
彼女に時間を取らせるのは気が引けるが、一人で行っても持ち帰れるものが限られるのは昨日で分かっている。効率の問題だ。
コーヒーを飲み干して、ノートに視線を落とすと、いまだに駅で書き留めた項目たちが並んでいる。
さっきまでは続きが書けなかったが、今は、来週の日曜に彼女が隣にいる場面を想像している。
彼女といれば、また書けるようになると、俺は当たり前のように考えている。
ペンを取って、ノートの端に日付を書き込んだ。
「来週の日曜に取材」
丸までつけてしまった。ペンを持つ手に力が入っている。
「律くん、いいかな?」
顔を上げると、檸檬さんが空のグラスを下げにきていた。
「さっきより、いい顔してるね」
「……そうですか」
「うん。書けそう?」
答えに詰まった。書けるかどうかは分からない。
来週になれば材料は増えるが、それが文章になる保証はどこにもないのだから。
「まだ……分かりません」
「そっか」
檸檬さんはグラスを盆に載せると、俺の手元のノートに目をやった。
「でも、何も書いてなかった時からは、進んだね」
開いたページの端には、クレアと会う日付だけが書き込まれている。白い紙の上に残っている。
文章と呼べるものではないが、三十分ぶりにペンを動かしたことにはなるか。
彼女は何も言わずに、カウンターの奥へ戻っていった。
窓の外は明るく、まだ考える時間はありそうだ。
次回、みなさんお待ちかねの「あの人」が出てきます!!!
評価ポイントをいただけるととても嬉しいので、お手数ですがよろしくお願いいたします!
作品作りにご協力いただけると幸いです!




