27.一人の取材
終電の一本前くらいからは人の感情がよく見える。
金曜の夜だからか、駅のホームは混んでいた。
仕事帰りらしいスーツの一団や金髪の学生など、誰もが気を緩めていて、昼間の駅とは空気が違う。
改札のあたりから間延びした笑い声が上がっている。
俺は鞄からメモ帳を出すと、恋人同士の別れ際を書くための取材を始めることにした。
これから書こうとしてる作品の中に、駅での見送りシーンがある。
だが、実際に見たことのある光景を思い出そうにも、細部がぼやけていた。
だったら見に来ればいい。単純な話だ。
最初に目についたのは、改札の外側で立つカップルだった。
そろそろ別れなければならないというのに改札を通る気配はなく、ずっと話している。
ようやく女性の方が改札に入ったかと思うと、手すり越しに、また言葉を交わし始める。
男が笑って、女が軽く手の甲を叩くと、ついに去っていった。
別れ際に人は、こういう無駄な動きをする。
用は済んでいるのに、あと一分でも同じ場所にいたい。
その未練が身体の動きに出る。
俺はメモ帳に短く書き留めた。
次に見たのは、ホームの中ほどに立つカップルだった。
こちらは対照的に、ほとんど喋らない。
並んで電光掲示板を見上げて、電車を待っている。
しかし、よく見ると手はしっかり繋がれていた。
会話がないのに間が持っているのは、長く一緒にいることの証明だろう。
さらに視線を流す。
柱を一本挟んだ向こうに、少し離れて立つ男女がいた。
同じ方向を向いているのに身体はよそよそしい。
女のほうがスマホをいじっていて、男は所在なげに足元を見ている。
喧嘩でもしたのか、それとも、まだそういう間柄ではないのか。
これだけでは判断することが難しい。
距離だけ見れば他人同士だが、ときおり男が女のほうを気にしている。
何か言いたそうで、言えずにいる。
その様子には見覚えがあった。
メモを取る手を止めて、俺は改札へと戻った。
自動改札の脇に若い男が一人で立っている。
誰かを待っているらしい。
スマホを確認しては、改札の向こうへ視線を伸ばす。
数分おきにつま先立ちになって、人混みの奥を覗いていた。
やがて男の顔が動く。改札の内側から女が小走りで出てきた。
片手を顔の前で合わせて何か言っている。
遅れたことを詫びているらしい。男何も言わずに笑った。
二人は肩を並べて、駅の出口へ歩いていく。
俺はその背中を目で追った。
待つ側と待たせる側。ここにも距離の話がある。
男は一時間前から立っていたかもしれないし、五分前に着いたのかもしれない。
それは分からないが、何度もつま先立ちになっていたことだけは確かだ。
メモ帳のページを繰る。書き留めたものを読み返してみた。
改札で離れがたそうにしていたカップル。
黙って手を繋いでいたカップル。
よそよそしく立っていた男女。
待ち合わせの一組。
どれも使えそうだ。
電光掲示板の時刻が一つ進んだ。
いよいよ終電が近くなると、ホームの人口密度が上がって、あちこちで小さな別れが始まる。
同じ別れでも、形はいくつもあった。
風がホームを吹き抜けて、待っていた人々が一斉に顔を上げた。
乗り込む人の流れができて、ホームに残る人がまばらになる。
ドアが閉まる音。動き出す車両。
見送る側が手を挙げたまま立ち尽くしている。
まだ最後の電車ではないし、別の路線もあるとはいえ、早く帰りたいこんな時間に送ることを優先できる相手。
電車が行ってしまうと、急にホームが広く感じる。
見送っていた男がようやく手を下ろすと、暗いトンネルの先を見ていた。やがて踵を返し、階段のほうへ歩いていく。
残りは次の電車を待つ数人だけになっている。
さっきまでの混雑が嘘のようで、アナウンスの声だけが大きく響く。
ベンチに座った男が缶コーヒーを両手で包んでいる。
反対側のホームで誰かが咳をした。
メモ帳を開いたまま、俺は手を止めていた。
書けることはいくらでもある。
今日見たものを全部書き出せば、ページはすぐに埋まるだろう。
距離、視線、手の動き。人が別れ際に見せる仕草の見本市だ。
だが、ページの上に並んでいるのは事実の羅列でしかない。
誰が何をしたか、どちらが先に動いたか、何秒立ち止まったか……全部、外から見えることばかりだ。
手を挙げたまま立ち尽くしていた男が、そのとき何を考えていたのか、俺には分からない。
想像はできるが、想像と見て取ったものは違う。
ペンの尻でこめかみを押した。
(……こんなもんか)
実際に足を運び、一時間近く人を見て、持ち帰れるのは表面の動きだけ。取材としては失敗に近い。
次の電車を告げるアナウンスが流れる。
時計を見ると、もう日付が変わりそうだ。
そろそろ帰らないと、俺自身が終電を逃してしまう。
メモ帳を閉じて鞄に押し込むと、自分を待つ電車に乗るためにホームを移動する。
ホームの階段は、上りより下りのほうが長く感じる。
階段を降りて、隣のホームへ移った。
こちらは人が少ない。ベンチが三つ並んでいるだけで、屋根の下の蛍光灯が一本、切れかけて点滅している。
電光掲示板の表示によると、次の電車まであと七分あった。
自販機で缶コーヒーを買って、ベンチの端に腰を下ろす。
プルタブを起こすと、思ったより大きな音が響いた。
向かいのホームにいた誰かがこちらを見た気がする。
コーヒーを一口飲んで、缶を膝の上に置いた。
さっきまで俺は観察する側にいたが、今はベンチに座って電車を待っている。
誰かが柱の陰から見ていたなら、この男もまた材料の一つに数えられるだろう。
深夜のホームで一人、缶コーヒーを持て余している大学生。
ポケットからスマホを取り出す。
通知はない。明かりが顔に当たって眩しく、すぐに伏せる。
最後のやり取りは昨日の夜だった。
水族館の写真を撮っておけばよかったと彼女が書いてきて、俺が館内は暗いので難しいと返して、それで終わっている。
既読はついていた。
スマホをポケットに戻し、缶を持ち直す。
向かいのホームに電車が入ってきて、乗り降りの人影が流れ、また出ていった。
コーヒーを飲み干して、缶を近くのゴミ箱に落とす。
ホームの端まで歩いて、線路の先を見た。
トンネルの奥はただ黒くて、電車の光はまだ見えない。
ここに立っていた男が、さっきまで同じ方向を見ていた理由はなんだったのか。
今作も完結までもう少しになってきました
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