26.否定
「……外しちゃいませんか? 全部」
「は、外すんですかぁ!?」
彼女の声が裏返る。そりゃあそうだ。普通に考えたら、頭がおかしいことを言っているのだから。
「隠すから目立つのかもしれません。ここは暗いですし、みんな水槽を見てます」
「……全部取れば、そこまで注視されないってこと……ですか?」
「その可能性は……高いかなと」
「でも、それで気付かれたら……」
これに関しては、何が正解か分からない。
クレアに対して本心から助言を送ったが、予想を外した時のリスクが大きすぎる。
マスクの上の目が忙しなく揺れている。
彼女にとって、顔を隠すことは仕事を守るための最低限の防具だ。
言ってしまってから、俺は少し後悔した。
可能性の話とはいえ、簡単に言えることではなかった。
そうだ、もっとクレアの気持ちを尊重するべきだった。
もし気付かれたら——
「……分かりました」
だが、返ってきたのは短い同意だった。
「先生がそう言うなら」
「い、いや、無理にとは言いません。完全にバレるよりは、多少疑われる方がマシかもしれません。そうだ、水族館の取材はここまでにして——」
「————嫌です」
そう言って、彼女はまず眼鏡を外し、次にマスクの紐を耳から抜いた。最後に帽子を脱いで、髪を軽く手で整える。
青い光の中に、隠されていた顔が現れた。
俺は思わず周囲を見たが……誰もこちらを見ていない。
目の前を家族連れが通り過ぎる。
子供が水槽を指差して、母親がそれに答えている。
カップルは相変わらず上を向いている。
さっき噂をしていた二人組も、いつの間にか別の水槽へ移動していた。
誰一人として、彼女に気付かない。
「……ほんとに、誰も見てないですね」
彼女が拍子抜けした声で言った。
「そ、そういうもの……かなって」
前に自分で言ったことを、俺は思い返していた。
人は、トップアイドルがこんな場所にいるはずがないという前提で世界を見ている。前提が違えば、目の前にいても見えないのだ。
実際にそうだ。ここにいるのは、日曜に水族館へ来た若い女の子の一人にすぎない。誰もその顔を照合しようとしない。照合する必要がないからだ。
彼ら彼女らの中では、真昼クレアはテレビの中にいるのだから。
「少し……変な感じです」
自分の頬に手を当てながら、クレアが呟いた。
「こんなにしっかり、人前で顔を出して歩くのって、いつぶりだろう」
考えてみれば、彼女が俺の前で顔を隠さなかったのは、客のいない喫茶店の隅と人通りのない河川敷だけだ。
どちらも周りに誰もいない場所だった。
人の中で素顔のまま立つのは、仕事以外では何年もなかったのだろう。
「……行きましょうか」
「はい!」
俺たちは順路を進んだ。
彼女の歩き方が先ほどまでと変わっていた。
少し顎が上がっている。俯いて人の視線から逃げていた歩幅が伸びている。
水槽の前で立ち止まるたび、彼女は素顔のまま笑った。
小さな熱帯魚が岩の陰から出てくるのを見て笑い、次の水槽ではウツボの顔が怖いと言って笑う。ペンギンの水槽ではガラスに近付きすぎて、ぶつかりそうになっていた。
俺は、その横顔を見ないようにするのに苦労した。
なんと言うか、これまでとは感じ方が違うのだ。
手の届かない存在ではあるが、より身近というか……。
青い光がそのまま頬に落ちて、瞬きのたびに睫毛の影が動く。
至近距離でそれを見せられてしまうと、取材の意識を逸脱しそうになる。
順路の後半にはクラゲの区画があった。
その部分の照明は他の違い、円柱の水槽がいくつも並んでいて、内側から淡い色の光が漏れている。
青、紫、薄い緑。透明な傘が、ゆっくりと開いては閉じる。
他の区画より人が少なく、話し声もほとんどない。
「先生の一番はクラゲでしたよね」
「そうですね」
「どうして好きなんですか?」
しばらく考えてから、俺は答えた。
「何も考えてなさそうだからです」
「ええ……?」
彼女が笑う。
「褒めてますよ? クラゲには脳がないらしいんです。それでも何億年も生き延びてるって、凄くないですか? 考えないほうが強いのかもしれない」
「先生は、考えすぎちゃう人ですもんね」
「……そうです」
クレアは水槽に一歩近付いて、ガラスに映る自分を嬉しそうに見ていた。
その隣には俺の姿も映り込んでいる。
二人の間隔は、拳一つ分もない。
「先生」
クラゲを見たまま、彼女が口を開く。
「顔を出して歩けたの、すごく久しぶりでした。こんなに普通に、誰にも気付かれずに歩けるなんて思わなかったです」
「……暗かったのが、功を奏しましたね」
彼女がこちらを向いた。何かを言おうとしたが、やめたという顔だ。唇が一度動いて、閉じる。
「……もう少しだけ見ていっていいですか?」
「もちろん……俺も、見たいです」
俺たちは、しばらく黙ってクラゲを眺めていた。
・
出口を抜けると、外はまだ明るかった。
午後の光が眩しくて、俺は思わず目を細めた。
館内の青が数時間ぶんも染みついていたせいで、世界の色が違って見える。
「……戻らないと、ですね」
彼女がそう言って、鞄から帽子を取り出した。
深くかぶり、マスクをつけて、最後に黒縁の眼鏡をかける。
三十秒もかからずに、真昼クレアは元通りに隠された。
それを無心で見ていた。中に入る前と何も変わらない格好で、彼女はそこに立っているのに、どうにも……。
「先生、どうしたんですか?」
「あ、あぁ……すみません、ぼーっとしてました」
「ふふっ……可愛いですね」
俺は何も言わなかった。言葉にすれば困らせてしまう。
……顔を隠さないでほしいなど。
彼女の仕事を守るのが最優先で、外すことなんて許されない。
今日は、たまたま暗い場所にいたからだ。
今日はほとんどメモを取らなかった。
これだけを見れば、取材としては失敗だ。
だが、頭の中には書き留めきれないほどの断片が残っている。
『————嫌です』
あの時、どうして彼女はあんなにも、今まで見たことがない程の強い意志を示したのだろう。
きっと、久しぶりの水族館を堪能したかったからだと思う。
だというのに、俺の脳内がそれを整理するには、しばらくかかりそうだった。
全体的にフィクションだと思って楽しんでくれや、という感じです^ ^
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