25.それは!絶対に!ダメです!
「……さすがに日曜の水族館だな」
混んでいるだろうとは思っていたが、より混んでいる。
入口の券売機に列ができていて、家族連れやカップルがひたすらに並んでいる。
「先生、こっちです!」
俺がよっぽど場違いだったからか、クレアの方が先に俺を見つけて手を振ってきた。少し先にいたらしい。
彼女の今日の装備は深めのキャップとマスク、それに大きめの黒縁眼鏡だった。
前回よりも隠す面積が増えているが、人が多いから念を入れたのだろう。
目元だけでも、ずば抜けた美少女だと分かってしまうが、誰かまではバレそうにない。
ただ、屋内でこれだと少しやりすぎに見えなくもないな。
俺は人の流れを縫って彼女に追いついた。
「すみません、人が多いところには慣れてなくて」
「ふふっ、先生らしいですね。チケット、先に買っておきました」
彼女に手渡されたそれには、クラゲの写真が印刷されていた。
人によってチケットに載っている生き物が違うのか、クレアのにはペンギンが歩いている。
「あ、こっちが良かったですか?」
「いえ、水族館だったらクラゲが一番好きです」
「二番目は?」
「ホッキョクグマですかね」
「おお……かなりタイプが変わりますね」
彼女が話を振ってくれるおかげで、一般人のような会話ができている気がする。
しかし、俺と歩調を合わせようとしつつも、クレアはどうにも浮き足立っているようだった。
「そんなに急がなくても、魚は逃げませんよ」
「逃げないですけど、混んじゃうじゃないですか。最初の水槽が一番人気だって、この前聞いたんです!」
「聞いた? 調べたんじゃなくて?」
「バラエティ番組の収録で、ちょうどこの水族館を紹介してたんです」
なるほど、と納得すると共に、やはり遠い世界の人だと実感してしまう。
ゲートをくぐると、照明が一段落ちる。
通路は薄暗く、足元にだけ細い明かりが灯っている。
壁一面の水槽から届く青い光が、通路を歩く人の輪郭を縁取っていた。
話し声はするのに、その音はどこかくぐもって聞こえる。
まるで、水の膜を一枚隔てた先の音を聞いているようだ。
「わぁ……」
隣に立っているクレアが声を漏らした。
巨大な水槽の中を、銀色の群れが渦を巻いて泳いでいる。
一匹ずつ向きを変えるたびに鱗で光が跳ねて、群れ全体がちらちらと瞬いた。
上のほうには大型の魚が、ゆっくりと横切っていく。
(……これは確かに、人気にもなるな)
俺はしばらく水槽を眺めてから、視線を横に流した。
水槽の前には、何組もの人々が張りついている。
父親に抱き上げられた子供がガラスに手のひらを押しつけ、その隣で若い男女が並んで上を見上げている。
女のほうが何か言って、男が頷く。
距離は拳一つ分だが、手は繋いでいない。
その斜め後ろにも別の組がいた。
こちらは肩が触れそうな位置に立っている。
男のほうが少しだけ身を寄せているが、女は気付いているのかいないのか、水槽を見上げたままだ。
同じ場所に立っていても、二人の距離は組によって違う。
付き合って長いのか、まだ探り合っているのか、それが距離に出ているのだろう。
ほとんどが無口の空間ではあるが、身体が雄弁に語っているのだ。
俺は鞄からノートを出そうとしたが……やめた。
この暗さでは書こうにも書けないし、手元へ集中していたら、肝心の観察ができなくなる。頭に入れて帰るか。
「先生」
声をかけられて我に返る。
「魚、見てますか?」
「……見てますよ」
「嘘です。さっきからずっと、あっちのほう向いてました」
しっかり見られていたらしい。
彼女は水槽を背にして、俺の顔を覗き込んでいた。
眼鏡の奥の目が少しだけ細くなっている。
「しゅ、取材ですよ。人がどういう距離感で立つかを見てたんです」
「人のですか? 魚じゃなくて?」
「魚はほら……恋愛、しないじゃないですか」
言った瞬間、彼女がぷっと噴き出した。
「するかもしれないじゃないですか。魚だって」
「するとしても、俺には読み取れません。人間の方が、まだ分かりやすい」
恋愛小説を書くための取材だ。
魚の生態を眺めていても、書けるものは増えないわけではないだろうが……それより、水槽の前に立つ人間の方が参考になる。
使える材料が山ほど転がっている。
「じゃあ、さっきの人たちを見て、何か分かったんですか?」
「あそこの二人は、たぶん付き合って間もないですね」
「えっ、なんで分かるんですか!?」
彼女が身を乗り出してきた。
声はひそめているものの、興奮が抑えきれていない。
「立ち位置です。片方が半歩前に出ているのは、相手に合わせるのに慣れてない証拠です。長く一緒にいる人間は、意識しなくても横並びになるはず」
説明しながら、我ながら気持ちの悪い観察眼だと思った。
「すごい……探偵さんみたいです」
「小説家を廃業して、探偵になった方がいいですかね?」
「それは! 絶対に! ダメです!」
とてつもない勢いで俺のセカンドライフが否定されてしまった。
その後、彼女は感心した様子で、しばらく他の客の方を眺めていたが、ピタリと立ち止まった。
「あの……先生」
「なんですか? 次の推理でもします?」
「わたしたちは、どう見えてるんでしょうか」
傍から見て、俺たちがどう見えているのか。
取材相手と言うには距離が近く、友人でもないし……答えることができない。
「……たぶん、探り合ってる側ですね」
「そうなんですか?」
「半歩ずれていますし、さっきの二人と同じかなって」
事実だ。俺たちは並んで歩いているつもりで、いつも微妙にずれている。
歩幅が違うのか、遠慮しているのか、あるいは両方か。
「じゃあ、直せばいいですねっ」
彼女がそう言って、半歩だけこちらへ寄った。
肩の位置が揃う。距離が近くなった分、彼女のつけている香りが強く漂ってくる。
俺は視線を水槽へ戻したが、魚たちの会話はまるで頭に入ってこない。
「……ここまで恋人に寄せなくても」
「でも、取材の参考にはなりますよね? 実際にやってみたほうが分かるじゃないですか」
彼女の言い分のほうが取材としては正しくて、俺たちはそのまま順路を進んだ。
浅い水槽の並ぶ区画では、彼女がしゃがみ込んで小さな魚を追いかけていた。
次のエリアでは天井まで水が張られていて、頭上をエイが横切っていく。
人の流れはゆるやかで、みんな上を向いたまま黙って歩いていた。
「ねぇ、あの人」
ふと、背後から声が聞こえた。
振り返らずに耳だけを向ける。若い女性の二人組だ。
「あそこの顔隠してる人、なんか怪しくない?」
「暗いのにサングラスみたいなの掛けてるよね」
「有名人かな。それか、顔に何かあるとか」
隣にいたクレアが目に見えて硬くなってしまう。
街中という多くの人間が行き交う際限のないエリアであれば、疑問は疑問のまま過ぎていく。
しかし、水族館は屋内で薄暗い。
その中で、顔の下半分をマスクで覆い、大きな眼鏡をかけ、深く帽子をかぶった人間は明らかに浮いていた。
顔を隠すという行為そのものが、この場では人目を引いてしまう。疑問は不審へと変わってしまう。
「先生、ど、どうしましょう……」
ここで慌てて足早に立ち去れば、かえって注目されるか?
かといって、このまま突っ立っているわけにもいかない。
俺は一つだけ、思いついたことを口にした。
どこ水がオススメですか?
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