14.初めての電話
電話がかかってきたのは、約束から三日後の夜だった。
SNSを開いていると、画面に見覚えのない通知が浮かび上がる。
『——さんから音声通話が着信中』
アカウントの名前は太陽の絵文字。真昼クレアの捨て垢というか、俺への連絡用アカウントである。
通話ボタンを押すまでに数秒かかった。
文字なら何度でも打ち直せるが、声となると別だ。
一度出てしまえば取り消しがきかない。
一発勝負の感じに指が竦んでしまう。
(……落ち着け。この前は面と向かって話してたじゃないか)
話が盛り上がったかどうかは分からないが、正面で、真横で会話したのは事実。
このハードルはとうに越えているはずだ。
「もしもし?」
『……わっ! 枯れ尾花先生ですか!?』
耳元で動揺の声が聞こえる。
「俺以外に誰が出るんですか」
『それは……お母さん、とか?』
母親に見られてるアカウントとか最悪過ぎるだろ。
向こうは半信半疑といった様子だが、こちらはスピーカー越しでも真昼クレアの声だとすぐに分かる。
ただ、今までの弾んだ調子とは少し違う気がする。
「なんだか、声に元気がないですね」
『えっ、分かるんですか?』
語尾に疲れの色が滲んでいるように思えた。
姿が見えないぶん、声の細かな陰影が伝わってくるのだ。
「確信はありませんでしたけど、そうかなって」
『すごい……顔も見えないのに。日頃から観察眼を鍛えているんですね! あれ……この場合だと耳かな? 観察耳!』
観察耳とはなんだ、というツッコミはさておき、えらく感心した声だった。
顔が見えないぶん……と言いかけてやめた。
説明するほどのことでもない。
『今日、朝から撮影が三本あって。合間に打ち合わせも入って、さっきやっと終わったんです』
「す、すごいハードですね……」
『そうなんですけど……もっとキツい日もあったりするんです。それだけ応援してくれる人が多いわけなので、ありがたいんですけどね』
彼女は軽く言っているが、その裏にあるものが電話越しでもなんとなく察せられた。
「想像することしかできないし、俺の言葉じゃ軽いかもですけど、無理はしないほうがいいです」
『ふふっ、ありがとうございます。先生に心配されちゃいました』
からかう口ぶりだったが、どこか嬉しそうでもある。
「心配というか……まぁ、そんな感じですね」
『相変わらず素直じゃないですねぇ』
電話の向こうで、くすくすと笑う気配がした。
『でも、疲れてるからこそ先生に電話をかけたんですよ?』
「……どういうことですか?」
疲れている時に電話をすると回復するタイプなのだろうか。
『まったく、先生は手強いです。わたしの心を丸裸にしているように感じるのに、表面しか見てくれない時もあります』
「ここ…………すみません」
心は目では見えないと言おうとしたが、さすがにバッドコミュニケーションなのは理解している。
だが、彼女の言いたいことも理解できそうな自分もいるのだ。
スマホが伝えるのはクレア本人の声ではなく、限りなく似せた合成音声だとしても、先ほどまでの疲れがほんの少し溶けた気がした。
窓の外に目をやると、細い月が出ていた。
この空を、彼女もどこかで見ているのだろうか。
片方はスタジオを渡り歩き、もう片方は狭い部屋で天井を眺めている。
それでも、電話一本で繋がることができるというのは妙な感覚だ。
『先生は、今日は何をしてたんですか?』
また日常を訊かれるのかと身構えたが、これまでと違う言葉が続いた。
『うーん……いつも聞いている気がするので、今日は違うことを聞きます。先生が、最近ちょっとでも良かったなって思ったこと、ありますか?』
変な質問だな。
「良かったことですか?」
『はい、どんな小さいことでもいいので!』
良かったことか……少し考えてみるが、改めて問われると、何も浮かんでこない自分がいる。
布団に入るたびに、今日も何もなかったなと思うのが癖になっていたからだ。
「……特にないですね」
『えぇ〜っ、一つくらいありますよ。ほら、朝ごはんが美味しかったとか』
「朝は食べないんですよね」
『だめですよ! ちゃんと食べてください!』
電話口で本気で怒られてしまう。
「じゃあ、真昼さんはあるんですか。今日、良かったこと」
『ありますよ。今、現在進行形でめちゃくちゃあります』
迷いのない即答だった。
「今、いいことが? 仕事で収入があったとか?」
彼女はCMにも起用されているし、とてつもない額の貯金があるはずだ。
いや、事務所に持っていかれるのかもしれない。
『わたし、あんまり欲しいものがないんですよね。コスメとか服には使いますけど、買いすぎても手が回らないじゃないですか。だから貯めても……』
彼女は途中で言葉を途切れさせ、何かを思いついたようだった。
『——ありました! 日陰くんの続きを出す権利とかって、買えたりするんですか!?』
「それは……ちょっと厳しいんじゃないですかね」
『……………………残念です』
出版社と交わした契約書になんて書いてあったか覚えていないが、たぶん無理だろう。
仮に彼女が出版社に話を通して、彼女にそれだけの貯蓄があったとしても……だ。
『……じゃなくて、話が逸れちゃってました』
「あ、そうでしたね。いいことってなんですか?」
『こうやって先生と話せてることです』
テンポよく会話できていたのに、急に言葉に詰まってしまう。
『あ、いま照れましたね?』
「照れてません」
『声で分かります。さっきのお返しです』
してやったりという響きだった。
そんな調子で、とりとめもない話は続いた。
特別な話題があるわけじゃない。
彼女がふと思い出した子供の頃の失敗談に、俺が短く相槌を打つ。
俺が漏らした大学の愚痴を、彼女がやけに面白がって聞く。
中身のない、どうということもないやり取り。
言葉が途切れても気詰まりにならない。
沈黙が挟まると、電話の向こうの生活音が微かに届いた。
衣擦れの音や飲み物を口にする音。
彼女が空気を吸っている当たり前の音が、やけに生々しく耳に残る。
『あ、もうこんな時間』
ふいに彼女が声を上げた。
『先生、明日も大学ですよね。長話になっちゃってごめんなさい』
「俺は平気ですけど、真昼さんこそ朝早いんじゃ」
『早いですけど…………もう少しだけ、話してもいいですか?』
切ろうとして切らないという往復が、さっきから何度か繰り返されていた。
もう十分に長く話したし、話すことも、そろそろ尽きかけている。
それでも、どちらも先に通話を終える一言を言い出さない。
俺のほうも切り上げる一言を言いかけては、結局違う言葉を継いでいた。
「……真昼さんは、明日は何時からなんですか?」
『わたしのこと、気にしてくれるんですね! 嬉しいですっ』
「これはその……成り行きっていうか」
『成り行きでも嬉しいですよ』
時計の針がずいぶん進むまで俺たちは話を続けた。
『そういえば、先生』
話がひと段落したところで彼女が切り出した。
どんなアプリでも通話できるって、便利な世の中になりましたよね
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