15.おかしいすれ違い
『日陰くんと二等星って、恋愛の話じゃないですか』
それは一見……いや一聞すると、なんの変哲もない質問ようだったが、なぜか嫌な予感がする。
「そ、そういう要素もありますね」
『それでずっと不思議だったんです。あんなに繊細な気持ちの動きを書けるってことは、先生も、そういう経験が豊富なのかなって』
嫌な予感の正体はこれか。
そういう経験というのは、つまり、恋愛のことを聞いているのだ。
「……ノーコメントで」
『えっ、なんでですか! 気になるじゃないですか!』
「作家の私生活を詮索するのは野暮ってものですよ」
『はぐらかしましたね。ということは、あるんですね?』
いや、恋愛経験なんて微塵もないのだが、少しはぐらかした手前、本当のことを言うのも憚られてしまう。
だから少しだけ返事を考えていると、彼女から追撃が来た。
『お相手はどんな方だったんですか?』
『一人ですか、二人ですか』
『もしかしてそれ以上ですか?』
凄まじい焦りようだ。
俺のようなザ・陰キャが見栄を張ってしまったわけだし、そりゃあ気になるか。
「……ないですよ。ちょっと格好つけてみただけです」
観念して白状することにした。
どうせ隠したところで、この勢いで食い下がられるに決まっている。
『ないんですか!』
「悪かったですね。この歳まで、そういう浮ついた話とは無縁で生きてきたので」
送信すると、少し間が空いて返事が来る。
『良かったです』
あ、俺の情けなさに引いてるな?
『でも、びっくりしました。先生に恋愛経験がないってことは、じゃあ、あれ全部、想像で書いたんですか?』
素で驚いているようだった。
「想像と、あとは他人の観察です。周りを見ていれば、なんとなく分かるじゃないですか。恋愛してる人間が、どういう顔をするのかくらいは」
『すごい……』
「すごいって、そういう分野は女子の方が得意なものなんじゃないですか?」
『うーん……どうですかね。わたしたちアイドルは、基本的には恋愛禁止なので……』
彼女の言葉を聞いて、自分の質問が失敗だったと理解する。
『まぁ、もちろん彼氏がいる子もいるんですけど、隠すのが上手すぎて気付けないです』
「そういう意味で言えば、アイドルなのに恋をしてるって言える子はすごいですね。ほら、あの——」
『STAR BELLの巻島葉音ちゃんですよね』
「その子です」
おそらくクレアと同じくらい有名であろうアイドル、巻島葉音。
彼女は以前、テレビ番組で「好きな人がいる」と暴露したらしいのだ。
だが、彼女の言葉にはあまりにも切実な色が塗られていたようで、ファンたちはむしろ、彼女を応援しているのだとか。
『むー……先生って、わたし以外のアイドルも知ってるんですね』
「いや、残念ながら流行りには疎くて。アイドル好きな友達が教えてくれたんです」
『……本当ですかぁ?』
確か、アイドルはファンとオンライン握手会をすることがあるらしく、彼ら彼女らを囲う反応は、アイドルの必須スキルなのだろう。
だからと言って、俺には営業しないでほしいが、もはや本能なのかもしれない。
「本当ですよ。真昼さんのことも、本格的に知ったのはつい最近なので」
『そ、それはそれで悔しいです……でも、経験がないのに人の心を動かせるんですね。先生は、やっぱりすごい人です』
褒められて居心地が悪くなる。
すごいというより、単に他にやることがなかっただけだ。
人と関わる代わりに、人を眺めて書いていたのだから。
彼女が正面から言うので、否定する気も削がれてしまう。
『ねぇ先生。次はどんなお話を書くんですか?』
その問いは、以前にも投げかけられたことがあった。
あの時の俺ははぐらかしたはずだ。
しかし、今日は少し違う。
「……まだ、何も決めてないんですよ」
『書きたいものはあるんですか?』
「どうでしょうね。正直、しばらく何も書けてないので」
打ち切りになってから、新しいものに手をつける気力が湧かなかった。
書いても、どうせまた誰にも届かない。
そう思うと、真っ白な画面を前にして指が動かなくなる。
その繰り返しでようやく千五百文字の駄文ができて、諦めにも似た感情で投稿するだけ。
なんて、弱音の一歩手前まで出かかって寸前で飲み込む。
電話越しに、こんな湿っぽい話を聞かせるものじゃない。
『わたし、読みたいです』
俺の言い訳より、彼女の言葉のほうが早かった。
『先生の新しいお話、絶対に読みたいです。恋愛のお話でも、そうじゃなくても。枯れ尾花先生が書くなら、なんだって』
迷いのない声だった。
届かないと決めつけていた場所に、はっきりと受け取り手がいる。
しかも、その相手は電話の向こうで俺の返事を待っている。
停滞していたはずの何かが、胸の奥でわずかに疼いた。
「……新しいのを、書いてみても、いいかもしれないですね」
そんな言葉が口をついていた。
自分でも意外だった。誘導されて、その気にさせられたのか。
どちらにせよ、久しく忘れていた感覚だ。
『本当ですか!?』
電話口で声が跳ね上がる。
『え、リクエストはしていいんですかね!? 恋愛ものがいいです!』
「まぁ、書くとしたら、そうなるかもしれないです。でも……」
この壁からは逃げることができない。
「恋愛なんて、経験のない人間が書くわけです。今までは観察で誤魔化してきましたけど、また同じ手が通用するかは……自信ないんですよね」
我ながら面倒な性分だと思う。
書く気になった端から、書けない理由を探しているわけだし。
しかし電話の向こうの彼女は、その悩みを一言で吹き飛ばした。
『じゃあ、取材すればいいんじゃないですか?』
「……取材?」
『はい! 恋愛の取材です。わたしが協力します!』
あまりに軽やかに言うので、一瞬だけ意味を取り損ねた。
「協力って、真昼さんが……ですか?」
『そうです。デートっぽいこととか、その……してみたら、参考になりませんかね。れ、恋愛小説を書くための取材ってことで』
「い、いや……取材って言っても」
『…………だめですか?』
声が不安そうに揺れている。
俺が新作を書かないことが、そんなに嫌なのか?
だが、相手はトップアイドルで、俺は売れない作家だ。
取材と称して二人で出歩くなんて、誰かに見られたら洒落にならない。
それなのに、口から出たのは違う言葉だった。
「……まあ、取材ということなら。執筆の参考になるかも……しれない、です」
歯切れは悪かったが、あくまで仕事だ。
新作のための必要な取材。そう自分に言い聞かせる。
それ以上の意味はなく、彼女もそのつもりなのだ。
『〜〜〜〜〜ッッ!! やったぁ!』
心底嬉しそうな声だ。
もしかすると、向こうでは両手を挙げて、子供のように喜んでいるのかもしれない。
『それじゃあ、すぐに予定立てましょうねっ!』
という言葉を最後に電話を切ると、部屋はやけに静かになった。
ついさっきまで賑やかな声があったからだ。
それが消えてしまい、いつもの沈黙が少しだけ手持ち無沙汰に感じられる。
時計を見れば、驚くほど時間が経っていた。
俺はしばらく天井を眺めてから、のろのろと身体を起こした。
(書いてみてもいい……か)
口にした言葉が、まだ胸の内側でくすぶっている。
とはいえパソコンに向かっても、何を書けばいいのか見当もつかない。
しばらく、まともに物語を組み立てていないのだ。
俺は立ち上がると、本棚の前に立った。
埃をかぶった背表紙が並んでいる。
昔は寝る間も惜しんで読んでいたのに、いつからか他人の作品を開くことすらしなくなっていた。
読めば自分の未熟さを突きつけられる気がして、無意識に避けていたのかもしれない。
その中から一冊を引き抜く。
高校生の頃、何度も読み返した恋愛小説だった。
適当にページを開くと、懐かしい文章が目に飛び込んでくる。
今夜はそれが少しも苦じゃなかった。
誰かの言葉に触れたいと、久しぶりにそう思えた。
書くために、まずは読んでみよう。
ベッドに背中を預けて、俺は最初の一行に目を落とした。
めちゃくちゃファンのアイドル、私にもいませんか?
石油王の方も募集してます。
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