12.真昼クレアと一冊の本
最後のページを閉じてから、しばらく指が動かなかった。
膝の上の文庫本は、まだ少しあたたかい。
ずっと握りしめていたせいだ。
表紙の絵。自信がなさそうに俯く男の子の横顔を、わたしは何度も指でなぞった。
……どうして?
どうしてこの作者は、わたしの中にしまってあったものを、こんなに正確に言葉にできるんだろう。
誰にも明かしたことのない、言葉にする勇気もなかった気持ち。
それが全部、この薄い一冊の中に書かれていた。
目の縁が熱くて視界がぼやけていく。
泣くつもりなんてなくて、ただ暇つぶしに読み始めただけだったのに。
上京してからずっと張り詰めていた糸が、この物語の前では呆気なく解けてしまった。
自分でも知らないうちに、わたしは救われることを、ずっと待っていたらしい。
あの頃のわたしは、毎朝ベッドから起き上がるのにも理由が必要だった。
レッスン場の鏡には、いつも一番出来ない子が映っていた。
振り付けは覚えられないし、歌声もか細い。
同期の子たちがどんどん前に進んでいくのを、わたしだけが後ろから眺めている。
事務所の人が名前を呼ぶとき、わたしの番だけ少し声のトーンが下がる気がした。気のせいだと思いたかった。
みんなの前では笑っていた。
人見知りを直したくてこの世界に入ったのに、結局わたしは、笑顔の裏に本音を隠すのが上手くなっただけだった。
この本の男の子も同じだった。
いつも誰かの後ろにいて、自分なんかいてもいなくても同じだと思っている。そして、笑うのだけは得意なのだ。
読みながら、これはわたしだと思った。
これを書いた人は、どこかでわたしを見ていたんじゃないか。
そんな馬鹿げたことを本気で疑うほどに。
カバーの折り返しに作者の名前があった。
——枯れ尾花。
聞いたこともない名前だった。
写真がない……のは当たり前だけど、経歴もほとんど書かれていない。
どんな顔で、どんなふうに笑う人なのか。
自分と似たところがあるのかな?
手がかりはどこにもない。
だけど、それがかえって嬉しくも思えた。
顔の見えない人なのに、わたしと同じ夜を知っている。
努力しても上手くいかなくて、それを誰にも分かってもらえなくて、それでも何かを差し出そうとした人。
じゃなきゃ、こんな物語は書けない。
わたしはそう決めつけて、勝手に仲間だと思い込むことにした。
その日から——この一冊がわたしの支えになった。
鞄に必ず入れていた。
楽屋の隅、移動中の車の中、眠れない明け方。
何度読み返しても、最終的に開くページは決まっていた。
汚さないようにブックカバーを使っていても角が擦り切れて、栞なんてなくても、指が勝手にその場所を探し当てる。
上手く踊れなかった練習の帰り道、呼ばれなかった選抜発表の夜。誰かと自分を比べて傷ついた日。
そのたびに、わたしはこの本を開いた。
読み終えるころには、また明日がんばろうと思えた。
単純だと自分でも思う。
でも、その単純な繰り返しで、なんとか毎日を繋いでいた。
この一冊がなかったら、わたしはとっくにこの世界から消えていた。
いつからか、本のことだけでなく、枯れ尾花先生のことを考えるようになっていた。
顔も知らない人なのに、「今ごろ何をしているんだろう」と思い始める。
もちろんSNSでも検索してみたが、先生の認知度は驚くほど低かった。シャイな人なのだろう。
呟きもかなり前から途切れているし、数少ない先生の情報は、なんだか不健康そうな生活だけ。「ちゃんとごはんを食べているだろうか」と心配をし始める。
次の本は、いつ出るんだろう。
書店に行くたびに棚のあいだを探した。
か行の作家の並びを指でたどっていく。
しかし、二冊目を見つけるどころか、自分の好きな本すら置かれていない。
どうして、と胸がざわついた。
こんなに優しい物語を書ける人が、どうしてこれきりなんだろう。
もしかしたら。嫌な想像が頭を過ぎる。
この物語でわたしの背中を押してくれた先生自身には、背中を押してくれる人がいなかったんじゃないか。
自分の言葉が誰かに届いていることを、知らないのかもしれない。
そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。
会ったこともない人を、こんなに気にかけるなんておかしい。
頭では分かっていても、それでも放っておけなかった。
いつか、もし会えることがあったなら、わたしは伝えたい。
あなたの言葉に救われた人間が、ちゃんとここにいると。
あなたの言葉がどれだけの光になったか、この目で見たものを全部あなたに返したい。
もらってばかりだった。
だから今度は、わたしが恩を返す番だと思った。
その気持ちがなんなのか、あの頃のわたしはまだ考えないようにしていた。
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