11.プラネタリアですから
日が落ちるのは、あっという間だった。
気付けば川面から夕日は消え、土手には藍色の薄闇が下りている。
街灯がぽつぽつと灯りはじめ、遠くの鉄橋を電車の明かりが横切っていった。
「そろそろ行きましょうか。暗くなってきたので」
俺が腰を上げると、彼女も名残惜しそうに立ち上がった。
ベンチを一度だけ振り返ってから、こちらに小走りで追いついてくる。
二人で来た道を戻る。
川沿いの遊歩道は、もう俺たちのほかに人影はなかった。
彼女の足音と自分の足音だけが規則的に重なって聞こえる。
妙な感覚だ。誰かと二人きりで黙っていると、普段なら間が持たなくて落ち着かなくなる。
相手が何を考えているのか気になって、無理にでも言葉を探してしまう。
それなのに、今はその沈黙が少しも苦じゃない。
川の音と彼女の気配だけで、勝手に満ち足りている。
「先生って、休みの日はいつも何してるんですか?」
「基本、家にいるかバイトですね。あとは……この前まで通ってた喫茶店で、ぼんやりしてるくらいで」
「一人でですか?」
「一人が気楽なので」
本当は友達がいないだけなんだが。
「もったいないですよ、せっかくのお休みなのに」
「真昼さんこそ、休みなんてあるんですか? アイドルって忙しいんじゃ」
「あるにはあります。でも、休みでも結局レッスンとか自主練しちゃうんですよねぇ。動いてないと置いていかれる気がして」
その言葉に、少しだけ彼女の横顔を見た。
夜の光のせいか、その表情は先ほどまでの無邪気さとは違い、大人びて見える。
売れるまでの苦労を、彼女はまださらりとしか話していない。
しかし、言葉の裏には苦労が隠れている。
「働きすぎですよ」
「でも、そのおかげで先生と話す機会ができました」
「別に、相手が真昼さんじゃなくっても、俺は——」
「本当ですかぁ? そもそも取り合ってもらえなかった気がしますよ?」
俺は口をつぐんだ。
もし他の有名人からDMが来ていたら……確かに無視していたかもしれない。
テレビで紹介されて、ライブで言葉を届けて、それでやっと俺は彼女に興味を持ったのだから。
「あ、見てください。星が出てますよ」
ふいに、彼女が空を見上げた。
つられて俺も見ると、藍色の空にいくつか星が滲みはじめていた。
「都会でも意外と見えるんですね」
「わたし、星を見るの好きなんです。だって——」
彼女が、こちらを向いて笑った。
「プラネタリアですから」
世界一しょうもない一言がおかしくて、俺は少しだけ笑ってしまった。彼女が目を丸くする。
「あ、やっと笑ってくれましたね!」
「笑ってません」
「笑いました! わたし、先生の笑ったところ初めて見ましたから!」
しまったと思ったが、もう遅かった。
彼女はその一瞬を捕まえて、心から嬉しそうにしている。
誤魔化す言葉も見つからず、俺は先に歩き出すしかなかった。
駅が近付くにつれて人通りが増えてくる。
彼女は帽子を目深にかぶり直し、マスクをつけた。
さっきまで隣で笑っていた年相応の女の子が、また少しずつ遠い人に戻っていく。その変化に目を逸らす。
「今日は、無理を言ってごめんなさい」
改札の前で彼女が振り返った。
マスクの上の目だけが、こちらを見上げていた。
「無理でもなかったです。まぁ、変な一日ではありましたけど」
「変な方が、先生の記憶に残ってくれますよね? なら良しとします」
変じゃなくても、真昼クレアを間近で見たというだけで、俺の記憶には一生残るだろう。
そんなことを考えていると、彼女が何か言い淀んでいる。
マスクの下で迷っているのが伝わってくる。
「あの、先生……お願いがあります」
ここに来てようやく壺かと身構えるが、俺に向けられたのは刃ではなかった。
「今度、電話しませんか? 文字だけじゃ伝えきれないこともありますし、先生の声も聞きたいですし……」
声が少しだけ小さくなっているを
DMならいくらでも饒舌なくせに、こういうことを口に出すのは照れるらしい。
「電話なんて、何を話すんですか?」
「なんでもいいんです。先生の声が聞けたら満足ですし、本の話とかできたら、ぐっすり眠れます」
もはや断る理由を見つける気にはなれない。
今日の一日で、目の前の女の子が歴とした人間だと理解したからだ。
「……気が向いたら、出ます」
「やった! じゃあ、たくさんかけますね」
「たくさんはちょっと……」
「だって、分母が多ければ出てもらえる回数も上がるじゃないですか!」
「案外ズルいところもあるんですね」
「これが芸能界を生き抜く秘訣です」
彼女は悪戯っぽく言うと、改札を抜けて、一度だけこちらへ手を振った。
人混みに紛れて、その姿はすぐに見えなくなる。
厳重な変装のおかげで、誰も彼女をトップアイドルと気付かないまま雑踏に溶けていった。
俺はというと、しばらくその場に立っていた。
一人になると、駅の喧騒が急に遠く聞こえた。
ついさっきまで隣で誰かが喋っていたからか、帰り道がやけにがらんとして感じる。
変な一日だった。なりすましを疑っていた相手と川を眺め、あまつさえ電話の約束までしている。
でも、またあの声が電話越しに聞けるのを、俺は少しだけ期待していた。
ゆーっくり進んでいきます
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