10.そういうところ、好きです
電車を乗り継いで、クレアに連れられて着いたのは川沿いの土手だった。
都内ではあるが、都心から少し外れた場所だ。
高い建物が途切れて視界がひらける。
ゆるやかに流れる川の向こうに、夕方に差しかかった空が広がっていた。
「ここです」
彼女が両手を広げて振り返る。
帽子とマスクは、電車を降り、川へ向かう商店街のあたりで外していた。人通りがほとんどないからだろう。
俺はというと、急激な緊張感に襲われてマトモに歩くのも大変だった。
「河川敷……ですか?」
「はい。わたしの、一番大事な場所です」
一番大事という言葉のわりに、そこは何の変哲もない土手だった。
舗装された道が続き、まばらに人が犬を散歩させている。
ベンチがちらほら、川のほうを向いて置かれているだけ。
「意外ですか?」
俺の顔を見て、彼女がくすりと笑った。
「正直、もっと特別な場所を想像してました。その……どこかのライブ会場とか」
「わたしにとっては、十分に特別なんです。ここ、上京してすぐの頃によく来ていた場所で」
彼女はベンチのほうへ歩いていくと、迷わず腰を下ろした。確かに慣れていそうだ。
俺も少し間を空けて隣に座る。
川の水音が、やけに近く聞こえた。
「まだ全然、センターなんて夢にも思えなかった頃です。レッスンについていくのも必死で、周りはみんな自分より上手で、毎日、自分には何もないんじゃないかって、そればっかり考えてました」
「それは……大変でしたね」
「それで、落ち込むたびにここへ来て、ぼーっと川を見てたんです。そしたら、ちょっとだけ楽になれて」
彼女の横顔は穏やかだった。
辛かった話をしているはずなのに、声に湿っぽさはない。
とうに乗り越えた過去として話しているのが分かった。
「ある日、ここで本を読んだんです」
彼女が、こちらを向いた。
「枯れ尾花先生の、日陰くんと二等星でした」
無意識に背筋が伸びる。
「たまたま本屋さんで見つけて、表紙に惹かれて買っただけだったんです」
「めちゃくちゃ良いイラストレーターさんに担当してもらえたんです。自分の考えたキャラクターに形を与えてもらえたことは、数少ない幸運でした」
笑い話で言ったつもりが、クレアはむすっとした顔になってしまう。
「もう、自分のことを過小評価しないでくださいって」
「あ、あぁ……ごめんなさい」
素直に謝ると、彼女は「いいです」と簡単に許して元の話に戻る。
「それで、先生の作品をここで読みました。このベンチで」
彼女が座面をそっと撫でる。
大事なものに触れる手つきだった。
「それで、ここで泣いたんです。あぁ、わたしのことだって。わたしも、主役じゃなくていいんだって」
「ここで……読んでくれたんですね」
書店に並んでいるのは見ることができるが、読者がどこでページを捲ったか知る方法は少ない。少しだけ感動してしまう。
「だから、わたしが枯れ尾花先生に救われた場所なんです」
「…………」
何と言えばいいのだろう。
自分の書いたものが、誰かの人生の具体的な一点に刻まれている。
その事実の前で軽々しい言葉は出てこない。
「……ずっと思ってたんです。もし、いつか先生に会えたら、一番最初にこの場所へ連れてきたいって」
彼女がはにかんで笑った。
「変ですよね。会ったばかりの人を、電車に乗せて連れてくるなんて」
「……いえ」
変だとは思わなかった。
むしろ、その気持ちの重さがじわりと胸に染みてくる。
「わたしにできる精一杯の、お礼のつもりなんです。豪華なお店とかも考えたんですけど、それより、ここを見てほしくて」
夕日が川の水面で細かく揺れている。
その光を受けて、彼女の顔が少しだけ赤く染まって見えた。
「そんなに大した本じゃないですよ」
「またそれ言う」
彼女が頬をふくらませ、ふいと川のほうへ視線を戻す。
「でも、だんだん分かってきました。照れ隠しも入ってるんですね」
「別に……照れてなんかいません」
「ふふ、顔に書いてあります」
俺は返す言葉に詰まって、ぬるくなった川風を顔に受けた。
いつの間にか逃げ道を塞がれているようだ。
「先生」
「なんですか?」
「今日は来てくれて、本当にありがとうございました」
彼女が俺を見た。
夕日を背にして、輪郭が金色に縁取られている。
「先生は、ずっと憧れの人でした。こうして隣にいてもらえるなんて、思ってなかったです」
「……大げさですよ。言われるのは真昼さんの方でしょう」
「大げさじゃないです。わたしにとっては、本当に、一生忘れられない時間だから」
ただの読者と作家のはずだ。
だから適当にお礼を言うべきなのだろうが、そう割り切るには、彼女の目は少しだけ真剣すぎた。
しばらく、二人とも黙って川を見ていた。
気まずい沈黙ではなかく、その静けさが心地よかった。
普段なら、誰かと一緒にいる時間は早く終わってほしいとばかり思う。
それなのに、今はこの時間がもう少し続けばいいと感じている。
「先生って、いつも何を考えてるんですか?」
「何って言われても、しょうもないことばかりですよ」
「気になります。物語を作る人の頭の中って、どうなってるのかなって」
「そりゃあ、常に脳内で作品を組み立てる人もいるでしょうが……俺なんて今、川の水がぬるそうだな、くらいのことしか考えてません」
彼女がぷっと噴き出した。
あまりに無防備な笑い方で、つい目を逸らす。
「先生のそういうところ、好きです」
さらっと言われた一言に心臓が強く跳ねた。




