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元夫の後悔に興味はありません  作者: 九葉(くずは)


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第9話 追いかける理由

『──君と過ごした時間は、十年ぶりに温かかった。だからこそ、俺は身を引く。ヴォルフガング・フォン・レーヴェンシュタイン』



手紙は短かった。


便箋一枚。裏まで使っていない。表だけ。あの人らしいと思った。必要なことだけを書く人だ。


でも今回は、必要なことすら書いていなかった。


理由がない。


「君に必要な助言はもう尽きた」。それは事実だ。裁判は終わった。判決も出た。法的な助言を求める理由はもうない。


「君にはもっと若く、ふさわしい相手がいる」。それは事実ではない。誰がふさわしいかを決めるのは、ヴォルフ様ではない。


「君と過ごした時間は、十年ぶりに温かかった」。


十年。


奥方を亡くされてから十年。その十年間、この人はずっと冷たい中にいたのだ。


「だからこそ、俺は身を引く」。


だからこそ。


だからこそ、が繋がらない。温かかったなら、なぜ身を引くのだ。温かかったから、もう一度冷たい場所に戻るというのか。


手紙を読み返した。三回。いつもの癖だ。一回目は文面、二回目は行間、三回目は書き手の気持ちで。


三回目で気づいた。


この手紙は、私を遠ざけるために書かれたのではない。


自分を遠ざけるために書かれている。


ヴォルフ様は私を「ふさわしくない」と思っているのではない。自分が「ふさわしくない」と思っている。十年前に妻を亡くした男が、また誰かの隣に立つことを、自分に許していないのだ。


手紙を膝の上に置いた。


窓の外を見た。私の領地だ。裁判で勝ち取った小さな領地。水路の修繕が始まっていて、遠くで石工たちの槌音が聞こえる。薬草園の区画には、先月蒔いた種から芽が出始めている。


全部、ヴォルフ様の助言があったから始められたことだ。


蔵書を送ってくれた。水路の設計について意見をくれた。薬草の品種情報を提供してくれた。領地に来るたびに、何も言わずに石垣のぐらつきを確認していた。蜂蜜湯を定期的に届けてくれた。


蝶番を気にしていた。外套を泥に敷いた。裏口から回り込んでエーリヒの退路を断った。法廷に正装で来た。判決の後、何も言わずに隣に座った。


ハンカチを差し出した。亡くなった奥方の刺繍が入ったハンカチを。


全部、「水利権の調査」では説明がつかない。


全部、「経営顧問」では説明がつかない。


この人は、最初から──


手紙を握った。紙がくしゃりと音を立てた。


怒りだった。


ヴォルフ様への怒りではない。いや、少しはある。勝手に身を引くなと言いたい。でもそれ以上に、自分への怒りだった。


なぜ気づかなかったのだ。


蔵書の注釈を「几帳面」で片づけた。正装を「侯爵だから当然」で流した。手の震えを「寒いのかしら」で見当違いの心配をした。蜂蜜湯の温かさを「アンナが温め直してくれた」で済ませた。


全部、見ていたのに。


全部、気づけなかった。


七年間、誰にも見てもらえなかった私が、見てくれている人を見落としていた。



「アンナ」


台所で洗い物をしていたアンナが振り返った。


「馬車を手配して。レーヴェンシュタイン領に行く」


アンナの目が一瞬だけ丸くなった。それからすぐに戻った。


「ミラ様は」


「連れて行く」


「……かしこまりました」


アンナは洗い物の水を切って、エプロンを外した。質問しなかった。理由を聞かなかった。


この人はいつもそうだ。私が動くと決めた時、黙って従う。



ミラは庭にいた。


薬草園の端で、蝶を追いかけている。十一月に蝶がいるのは珍しい。暖かい日が続いたせいかもしれない。


「ミラ」


振り返った。蝶を逃して、少しだけ残念そうな顔をした。


「おでかけ?」


「ええ。大事な人のところに行くの」


ミラが首を傾げた。


「だいじなひと?」


「ええ」


「ヴォルフさま?」


驚いた。ミラがヴォルフ様の名前を出すとは思わなかった。


「……どうしてそう思うの」


「リーナさま、さっき泣いてた。リーナさまが泣くのは、ヴォルフさまのときだけ」


六歳の観察力を侮っていた。


「ミラも行く」


「いいの?」


「だいじなひとなら、ミラもいく」


小さな手が私の手を握った。冷たい手だ。でも、握る力は強かった。



馬車は半日かかった。


レーヴェンシュタイン領はグラーフ領の北隣にある。私の領地からはさらに北だ。ライナ河を渡り、丘陵地帯を越えて、ようやく侯爵の領地に入った。


車窓から見える景色が変わった。荒れ地ではない。手入れされた農地、整備された水路、石垣の修繕が行き届いた集落。ヴォルフ様の領地経営が実直であることが、風景からわかった。


ミラは途中で眠った。私の膝の上で、小さな寝息を立てている。


アンナは向かいの席で黙っていた。窓の外を見ている。


「アンナ」


「はい」


「私、馬鹿だったわ」


「今さらですか」


即答だった。私は少し笑った。アンナも少しだけ笑った。


「気づいていたの」


「蜂蜜湯が届くたびに、侯爵様のお使いの方が『温度を聞いて参れと言われまして』と仰っていましたよ」


温度を聞いて参れ。


ヴォルフ様が、使いの者に温度を確認させていたのか。私が飲む頃にちょうどいい温度になるように。


「なぜ言わなかったの」


「リーナ様が自分で気づくべきだと思いましたので」


正論だった。反論の余地がない。


馬車が揺れた。ミラが少し身じろぎして、また眠った。



レーヴェンシュタイン侯爵邸は、思ったより質素だった。


石造りの館だが、装飾が少ない。グラーフ邸の華美さとは対照的だ。壁に蔦が絡んでいるが、手入れはされている。庭は広く、果樹が植わっている。晩秋の庭は葉が落ちて、枝の形がよく見えた。


馬車が門の前に止まった。


使用人が出てきた。「侯爵様は庭にいらっしゃいます」と。


庭に。


十一月の庭に。何をしているのだろう。


ミラの手を引いて、庭に向かった。アンナは馬車のそばで待っている。


果樹の間を抜けると、庭の奥に人影が見えた。


大きな背中。灰色の外套。


ヴォルフ様は、果樹の剪定をしていた。鋏を手に、枝を一本ずつ確認している。太い指が細い枝を丁寧に扱っている。この人の手は、剣も鋏も同じように握るらしい。


足音に気づいたのだろう。振り返った。


灰色の目が、私を見た。


驚きが走った。それから、別の何かが走った。痛みに似た何かだ。


「なぜ来た」


声が硬かった。


「手紙を読みました」


「……なら、わかるだろう」


「わかりません」


ヴォルフ様の眉が動いた。


「わからない。あなたが身を引く理由が、わかりません」


「俺は──」


「十年ぶりに温かかったなら、なぜ冷たい場所に戻るのですか」


ヴォルフ様が口を閉じた。鋏を持ったまま、私を見ている。


果樹の枝の間から、秋の低い日差しが射していた。


「俺は一度、妻を失った」


静かな声だった。


「十年前に。病で。俺には何もできなかった。側にいて、手を握って、それだけだ。最後まで何もしてやれなかった」


鋏を持つ手が下がった。


「また失うくらいなら、最初から──」


「お母さまを泣かせる人は嫌い!」


高い声が割り込んだ。


ミラだった。


私の後ろに隠れていたはずのミラが、前に飛び出していた。小さな体で仁王立ちになって、ヴォルフ様を見上げている。大きな目に涙が溜まっている。


「リーナさまは、泣いてた! てがみ読んで、泣いてた! 泣かせるひとは、きらい!」


ヴォルフ様が固まった。


鋏が手から滑り落ちた。草の上に音もなく落ちた。


ミラは泣いていた。怒りながら泣いている。六歳の子どもの、全身を使った抗議だった。


ヴォルフ様はミラを見下ろしていた。大きな体が、小さな子どもの前で動けなくなっている。


私はミラの肩に手を置いた。


「ミラ、ありがとう。でも、ここからは私が話すわ」


ミラが鼻を啜って、私の後ろに戻った。服の裾を握っている。


ヴォルフ様を見た。


灰色の目が揺れていた。この人の目が揺れるのを見るのは、初めてだった。


「ヴォルフ様」


声が震えないように、息を整えた。


「私の人生を選ぶのは、私です」


ヴォルフ様が目を見開いた。


「七年間、他人に人生を決められてきました。結婚も、石女の烙印も、白い結婚も、離縁も。全部、他人が決めたことでした」


風が吹いた。果樹の枯れ葉が舞った。


「もう二度と、誰かに『ふさわしくない』なんて言わせません」


一歩、前に出た。


「あなたが身を引くと言うなら、それはあなたの判断です。でも、私が誰を選ぶかを、あなたが決めないでください」


もう一歩。


手を伸ばした。


ヴォルフ様の手。大きな手。剣を握り、馬を駆り、外套を泥に敷き、鋏で枝を切り、ハンカチを差し出した手。


その手を、握った。


冷たかった。十一月の庭で、素手で剪定をしていたから。


でも、私の手も冷たい。馬車から降りたばかりだから。


冷たい手と、冷たい手が触れている。


「あなたを、選びたいんです」


ヴォルフ様の指が動いた。


握り返された。


大きな手が、私の手を包んだ。力は強くなかった。でも、離さない力だった。


「……ずっと、こうしたかった」


声が掠れていた。


ヴォルフ様の目から、何かが溢れかけていた。涙ではない。涙の一歩手前の、もっと深い場所にあるものだ。


「俺でいいのか」


「あなたがいいんです」


ヴォルフ様の手に力が入った。少しだけ。


私も握り返した。少しだけ。


二人分の冷たい手が、少しずつ温まっていく。



しばらくそうしていた。


どのくらい経っただろう。果樹の影が少し動いた。


背中で、小さな声がした。


「……ねえ、もういい? ミラ、おなかすいた」


ヴォルフ様の口元が動いた。笑ったのだ。この人が笑うのを、こんなにはっきり見たのは初めてだった。口角が上がって、目尻にしわが寄る。不器用な笑い方だった。十年間使っていなかった筋肉を動かしたみたいに、少しだけぎこちない。


私も笑った。泣いていたのか笑っていたのかわからない。たぶん両方だった。


「ミラ、ごめんね。お腹空いたわよね」


ミラが私たちの繋いだ手をじっと見て、それから、ヴォルフ様を見上げた。


「ヴォルフさま、リーナさまを泣かせない?」


ヴォルフ様がしゃがんだ。大きな体が、ミラの目線まで下がった。


「泣かせない」


短かった。でも、この人の短い言葉は嘘をつかない。


ミラは少し考えてから、小さく頷いた。


「じゃあ、ゆるす」


ヴォルフ様の手が、ミラの頭にそっと乗った。大きな手が、小さな頭を包んでいた。


私は二人を見ていた。


手の中に、まだヴォルフ様の温度が残っていた。


冷たかった手が、もう温かくなっている。

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