第10話 私が選んだ幸せ
領地に、秋が来た。
薬草園の紫の花穂が風に揺れて、ミラが裸足で駆けていく。初めての収穫だ。
一年前、ここは荒れ地だった。泥に埋もれた水路、崩れた石壁、人の姿のない畑。あの日、泥の中でヴォルフ様が外套を敷いてくれた道は、今は石畳が敷かれている。
水路は修繕を終えた。春に水を通した時、石工たちが歓声を上げた。水が流れるのを見て泣いている老人がいた。この領地の元住民だった。水が戻ったと聞いて、町に逃げていた家族ごと帰ってきた人だった。
薬草園は計画通りに育った。ラベンダー、カモミール、セージ、タイム。以前の知識で選んだ品種と、ヴォルフ様の領地から分けてもらった苗が、秋の日差しの中で穂をつけている。
初年度の収穫は小規模だ。でも、取引先はもう決まっている。王都の薬種商が三軒、試験的に買い付けを約束してくれた。来年にはもう少し増やせる。
「リーナさま、見て!」
ミラが両手いっぱいにラベンダーの穂を抱えて走ってきた。紫の花穂が散って、ミラの茶色い髪に降りかかっている。裸足の足が石畳を叩く音が軽い。
一年前、あの廃屋で震えていた子だ。
今は走っている。笑っている。声が大きい。毎日よく食べて、よく寝て、背が伸びた。アンナが「また裾を縫い直さないと」とぼやくのが、もう三回目だ。
「綺麗ね。それ、乾燥小屋に持っていきましょう」
「うん!」
ミラが駆け出しかけて、止まった。
振り返った。ラベンダーを抱えたまま、少し迷った顔をしている。口が何か言おうとして、閉じて、また開いた。
「……おかあさま」
小さな声だった。
風の音に紛れるくらい小さかったが、聞こえた。
「おかあさま、いっしょに持っていこう」
心臓が跳ねた。
ミラが私を「お母さま」と呼んだ。
前に一度だけ、ヴォルフ様の庭で叫んだことがあった。「お母さまを泣かせる人は嫌い」と。でもあれは感情の爆発だった。あの後、ミラはまた「リーナさま」に戻っていた。
今のは違う。
考えて、迷って、選んで、言った。
「……ええ。一緒に持っていきましょう」
声が少し震えた。ミラは気づかなかったと思う。ラベンダーの穂を半分こちらに押しつけて、小さな手で私の手を引いた。
乾燥小屋に向かいながら、紫の花穂の隙間からミラの横顔を見た。
頬が丸い。去年の秋には骨ばっていた頬が、今はちゃんと丸い。
手の中のラベンダーがいい匂いがした。
収穫祭の準備は、昼過ぎには整った。
広場に長テーブルを並べて、領民たちが料理を持ち寄る。焼いたパン、煮込み、干し肉、リンゴの砂糖煮。薬草園の収穫を祝う祭りだから、ハーブティーの屋台も出ている。ミラがアンナと一緒にカモミール茶を配っていた。小さな手でカップを渡す姿を、領民のおばさんたちが目を細めて見ている。
私はテーブルの配置を確認しながら、心ここにあらずだった。
ヴォルフ様がまだ来ていない。
昨日の手紙には「明日の祭りに行く」とだけ書いてあった。あの人の手紙はいつも短い。でも、この半年で少しだけ変わった。最後に「体に気をつけて」がつくようになった。
蹄の音が聞こえた。
広場の向こうから、馬が一頭やってくる。大きな馬に、大きな人。灰色の外套が秋風に翻っている。
ヴォルフ様が馬を降りた。
この半年で、何かが変わったかと聞かれれば──変わった。たぶん。
笑うようになった。
不器用で、ぎこちなくて、十年間使わなかった筋肉を恐る恐る動かしているような笑い方だけれど。口角が上がって、目尻にしわが寄る、あの笑顔。前は私しか見たことがなかった。最近は、ミラにも見せる。
「遅くなった」
「いいえ。ちょうどですわ」
ヴォルフ様がミラを探すように視線を動かした。見つけた。カモミール茶の屋台で、背伸びしてカップを渡しているミラ。
「大きくなったな」
「ええ。裾をまた縫い直しました」
「……そうか」
ヴォルフ様が少しだけ笑った。
祭りは賑やかだった。
領民は三十人ほど。一年前は十人もいなかった。水路が直り、農地が戻り、薬草園の仕事が生まれ、少しずつ人が戻ってきた。
まだ小さな領地だ。収入も多くない。でも、ここには私が作ったものがある。
ヴォルフ様は祭りの輪に入らず、広場の端に立っていた。この人は大勢の中に入るのが得意ではない。寡黙な侯爵がリンゴの砂糖煮を黙々と食べている姿は、少し可笑しかった。
ミラがヴォルフ様のところに駆けていって、カモミール茶を差し出した。ヴォルフ様がしゃがんで受け取った。ミラが何か言って、ヴォルフ様が頷いた。遠くて声は聞こえなかったが、二人ともちゃんと笑っていた。
「リーナ様」
アンナが隣に来た。
「侯爵様が、少しお話があるそうです。丘の方で、と」
「丘?」
広場の裏手に、小高い丘がある。領地を一望できる場所で、私はよくそこに立って水路の進捗を確認していた。
「ミラ様も一緒に、と」
ミラも。
何だろう。嫌な予感はしなかった。ただ、心臓が少しだけ速くなった。
丘に登った。
ミラが先を歩いている。半年前は急な坂を登れなかったのに、今は駆け足で登る。
頂上からは、領地が全部見えた。
薬草園の紫。水路の光。修繕された石壁。煙が上がる集落。広場の賑わい。
一年前は何もなかった場所に、暮らしがある。
ヴォルフ様が隣に立った。同じ景色を見ている。
「いい領地になった」
「ヴォルフ様のおかげです」
「俺は何もしていない」
嘘だ。この人はいつもそう言う。蔵書を送り、品種を教え、水路の設計を助言し、石工の手配まで手伝ったくせに、「何もしていない」と言う。
「一つ、聞きたいことがある」
ヴォルフ様の声が変わった。
低い。いつもの低さだ。でも、少しだけ──ほんの少しだけ──緊張が混じっている。この人の緊張は声ではなく、喉の動きでわかる。喉仏が一度上下した。
ヴォルフ様がミラの前にしゃがんだ。
大きな体が、小さな体の目線に合わせる。
「ミラ」
「なに、ヴォルフさま」
「お前の母上を、俺にくれるか」
ミラが目をぱちぱちさせた。
私は息が止まった。
ミラが首を傾げた。考えている。六歳の子どもが、真剣に考えている。
「おかあさまが、しあわせなら」
ミラが言った。
「いいよ」
ヴォルフ様がミラの頭に手を乗せた。前にも見た光景だ。大きな手が小さな頭を包む。でも今回は、ヴォルフ様の耳が少し赤かった。
立ち上がった。私に向き直った。
灰色の目が、真っ直ぐこちらを見ている。
「リーナ」
名前を呼ばれた。敬称なしの、名前だけの呼びかけ。初めてだった。
「今度こそ、俺に君を幸せにさせてくれ」
言葉が少ない。飾りがない。この人はそういう人だ。必要なことだけを言う。だから、その言葉が嘘でないことがわかる。
「幸せは」
私は言った。
「一緒に作るものでしょう?」
ヴォルフ様の表情が変わった。
笑った。
不器用で、ぎこちなくて、でも今まで見た中で一番はっきりした笑顔だった。目尻のしわが深くて、口元がちゃんと上がっていて。
大きな手が伸びてきた。頬に触れた。指先が少し冷たい。でも、手のひらは温かかった。
顔が近づいた。
目を閉じた。
唇に、温度が触れた。硬い唇だった。不器用な角度だった。たぶん、十年ぶりに人に触れる口づけだった。
短かった。すぐに離れた。
目を開けたら、ヴォルフ様の耳が赤かった。四十二歳の侯爵の耳が、子どもみたいに赤くなっている。
「……下手ですね」
口をついて出た。言ってから、自分でも信じられなかった。
ヴォルフ様が一瞬固まった。それから、肩を揺らした。笑っているのだ。声は出していないが、肩が揺れている。
「十年、やっていない」
「練習してください」
何を言っているのだ、私は。
ミラが下から見上げていた。
「おとなって、へん」
三人で笑った。丘の上で、秋の風の中で。
正確には、ヴォルフ様は肩を揺らしていて、私は泣き笑いをしていて、ミラだけがきちんと笑っていた。
それでよかった。
丘を下りて、祭りに戻った。
アンナが何も聞かずに温かい茶を渡してくれた。一口飲んだ。蜂蜜湯だった。レーヴェンシュタイン領の蜂蜜。温度がちょうどよかった。
「アンナ」
「はい」
「もう温度を使いの方に聞かなくていいわ。これからは、直接確認できるから」
アンナが少しだけ目を見開いて、それから笑った。
「ようやくですね」
「……うるさいわ」
広場から居間に戻ると、テーブルの上にヴォルフ様の蔵書が八冊積んであった。領地に持ってきてから、ずっと書斎に置いてある。返すタイミングを逃していた。
あのハンカチも、まだ返していなかった。洗って畳んで、私の引き出しに入ったままだ。亡くなった奥方の刺繍が入ったあの白い布。返さなければと思いながら、返せないでいた。
「ヴォルフ様。蔵書をお返ししなければ」
ヴォルフ様が首を振った。
「返さなくていい」
「ですが、あなたの私物です。注釈も──」
「俺のものは全部、君のものだ」
さらりと言った。大したことではないように。
でもこの人がそう言うなら、それは本当にそういう意味だ。言葉に飾りがない人の言葉は、全部本気だ。
「……ハンカチも?」
「ハンカチ?」
「あの、法廷の後に貸してくださった。花の刺繍の」
ヴォルフ様が少し黙った。
「……あれは、妻のものだった」
「知っています」
「君が持っていてくれ」
声が静かだった。十年間持ち続けたものを、手放す声だった。
「……ありがとうございます」
蔵書を見た。あの注釈入りの法律書。「該当頁」とだけ書かれた付箋。一年前にこの箱が届いた時、私は「几帳面な方ね」と思った。
今なら、わかる。
あれは几帳面さではなかった。
夕方。
祭りが落ち着いた頃、アンナが居間に来た。
「リーナ様。先ほど、王都から来た行商人が言っていたのですが」
「なに」
「グラーフ家のことです。財務監査で追加の横領が見つかったそうで。領地の大半を返上して、侯爵の爵位はかろうじて残ったものの、実質的には──」
「没落した、ということね」
「はい。グラーフ侯爵は王都の外れの小さな屋敷に移られたとか」
王都の外れ。
一年前、離縁した直後の私が住んでいた場所と、さして変わらないのかもしれない。あの蝶番の鳴る借家のような場所に、エーリヒが住んでいる。
一瞬だけ、遠い目をした。
遠い場所にある、遠い記憶だった。七年間の結婚。白い結婚。石女の汚名。冷たい茶杯。空の応接間。イレーネの黒いドレス。エーリヒの、こちらを見ない目。
全部、遠い。
もう手の届かない場所にある。届かせる気もない。
「そう」
「……それだけですか、リーナ様」
「それだけよ」
アンナが何か言いたそうだったが、飲み込んだ。
窓の外を見た。
広場では、まだ領民たちが笑っている。ミラがヴォルフ様の手を引いて、カモミール茶の屋台に連れて行こうとしている。ヴォルフ様は引きずられるままに歩いている。大きな体が小さな体に引っ張られている光景は、少し間が抜けていて、でもとても温かかった。
私の領地だ。
私が選んだ場所。
私が作った暮らし。
私が選んだ人と、私が選んだ子どもと、私が選んだ侍女がいる場所。
「あの人の後悔なんて、もうどうでもいいの」
声に出した。アンナが振り返った。
窓の外でミラが笑った。ヴォルフ様がカモミール茶を受け取っている。不器用な手で、小さなカップを持っている。ミラが何か言って、ヴォルフ様が小さく頷いた。
──元夫の後悔に、興味はありません。
だって私、もう幸せですから。
アンナは何も言わなかった。
ただ、私の隣に立って、同じ窓の外を見ていた。
秋の日が傾いている。薬草園の紫が夕日に染まって、少しだけ赤みを帯びていた。風がラベンダーの香りを運んでくる。
テーブルの上の蜂蜜湯は、もう少し冷めていた。
でも、部屋は温かかった。




