第8話 法廷の決着
貴族院の大法廷。傍聴席は満員だった。
第一回審理の時は小法廷で、傍聴席もまばらだった。三週間で状況は変わった。グラーフ侯爵家の離縁訴訟に横領疑惑が絡んでいるという噂が社交界に広がり、傍聴を求める貴族が押し寄せている。
大法廷は小法廷の三倍の広さがある。天井のアーチに朝の光が反射して、白い壁を照らしている。空気が冷たい。暖炉は焚かれているが、石造りの大きな空間を温めるには足りない。
審問官席に三人の法官。前回と同じ顔ぶれ。第一法官の白髪の老人、第二法官の中年の女性、第三法官の禿頭の男。
被告席にグラーフ侯爵と弁護人、その後ろにイレーネ。
あの人の顔色が悪かった。三週間前、書庫から帳簿を差し押さえられた日から、社交界に姿を見せていないと聞いている。
原告席に座る。書類を並べる。前回と同じ動作だ。でも、今日並べる書類の量が違う。
今日で終わる。
七年間の答え合わせが、今日終わる。
深く息を吸った。吐いた。指先の冷えが少し和らいだ。
傍聴席の端に、ヴォルフ様がいた。今日も正装の黒い上着。大きな手が膝の上で組まれている。こちらを見ていた。目が合って、小さく顎を引いた。それだけで、背筋が伸びた。
「最終審理を開廷する」
第一法官の声が法廷に響いた。
「原告側より、追加証拠の提出を求めます」
立ち上がった。前回より声が安定している。二度目の法廷は、一度目より落ち着ける。場所を知っている。空気を知っている。手続きの流れを知っている。
「まず、差し押さえ済みの帳簿原本に対する筆跡鑑定の結果書を提出します」
書記官に手渡す。法廷がわずかにざわめいた。
「神殿書記官による鑑定の結果、帳簿の筆跡はイレーネ・フォン・グラーフ殿のものと九十九パーセント以上の精度で一致しました」
ざわめきが大きくなった。傍聴席の複数の貴族が身を乗り出している。被告席のイレーネの手が、膝の上で白くなっていた。
第一法官が鑑定結果書に目を通す間、法廷が静まった。紙をめくる音だけが響く。
法官が顔を上げた。
「続けてください」
「次に、純潔証明書を提出します」
二つ目の書類を渡す。
「神殿発行の公文書です。申請者リーナ・フォン・ブランシェが純潔であることを証明します。婚姻七年間において夫婦の営みがなかったことの客観的証拠です」
傍聴席のざわめきの質が変わった。石女の噂は社交界に広まっていた。その前提が、公文書で否定された。何人かの貴婦人が顔を見合わせている。
「さらに、クラーラ・フォン・ベルク殿の不貞証言書、侍女アンナの目撃証言書、そして婚姻契約書の写しを提出します。契約書の第十四条に不貞時の慰謝料条項がございます」
残りの三点を一括して書記官に手渡した。
五つの証拠が審問官席に並んだ。第一法官が一点ずつ確認していく。時間がかかる。法廷は静まった。
待つ。
何度も経験してきた時間だ。裁判の最も長い時間は、証拠を確認している間の沈黙だ。派手な場面ではない。ただ、法官が紙を読んでいるだけ。でもその沈黙の中に、七年分の重みが詰まっている。
第一法官が顔を上げた。
「被告側、反論はありますか」
弁護人が立ち上がった。顔に汗をかいている。
「筆跡鑑定の結果について、異議を申し立てます。鑑定の精度が九十九パーセントであるとしても、一パーセントの──」
「一パーセントの誤差は、神殿の鑑定制度において許容範囲内です」
第三法官が口を挟んだ。ヴォルフ様の蔵書に「拡大解釈派」と注釈されていた法官だ。
「鑑定結果を否定するなら、別の鑑定人による再鑑定を申請してください。ただし、費用は申請者の負担です」
弁護人が口ごもった。再鑑定を申請しても結果は変わらない。神殿の鑑定は魔法的な照合だ。人間の目による判断ではない。
「再鑑定は……申請しません」
弁護人が座った。
次にイレーネが動いた。
「お待ちなさい」
弁護人の腕を掴んでいた。第一回審理と同じだ。手続きを無視して、直接発言しようとしている。弁護人が困った顔で止めようとしたが、イレーネは構わなかった。
「あの帳簿は──」
立ち上がった。黒いドレスの裾が椅子に引っかかって、少しよろめいた。顔が蒼白だった。
「あの帳簿は、なぜ書庫から持ち出せたの」
法廷が静まった。
声が震えていた。七年間、社交界で鉄の仮面を被ってきた女の声が、初めて割れている。
「あれは──あれは私が──」
止まった。
自分が何を言いかけたか、気づいたのだ。
遅かった。
法廷の全員が聞いていた。「あれは私が」。帳簿は私が作ったもの。それ以外の解釈はない。
横領の帳簿を自分が作成したことを、公開の法廷で、自分の口から認めた。
イレーネの顔から、最後の色が消えた。真っ白になった。唇が動いているが、声は出ていない。弁護人が腕を引いて座らせた。
傍聴席がざわめいた。今度のざわめきは、最初のものとは質が違った。驚きではなく──確信だ。全員が、今の発言の意味を理解している。
私は原告席に座ったまま、動かなかった。
何も言う必要はなかった。あの人が自分で全てを言ってくれた。
第一法官が法官二名と目を合わせた。短い合議。第二法官と第三法官が頷く。
「判決を申し渡す」
法廷が静まった。完全な静寂。暖炉の薪がはぜる音すら聞こえない。
「原告リーナ・フォン・ブランシェとグラーフ侯爵エーリヒ・フォン・グラーフの婚姻を解消する。離縁の正式成立を宣言する」
終わった。
七年間の婚姻が、一言で終わった。
「不貞および白紙婚を認定し、婚姻契約書第十四条に基づき、慰謝料として金貨五千枚をグラーフ侯爵家に命じる。あわせて、グラーフ領南端部の小領地を原告に割譲する」
金貨五千枚。持参金の三千枚を超える額だ。
「原告リーナ・フォン・ブランシェの名誉を回復する。石女の汚名は事実に反するものであり、公式に否定する」
名誉回復。
石女ではなかった。七年間の嘘が、公式に否定された。
「グラーフ侯爵家に対し、財務監査命令を発出する。帳簿に記録された使途不明金の全容を解明するため、貴族院監査官による調査を実施する」
「さらに、被告側による証拠隠滅の画策が認定された。差し押さえ命令発出後、帳簿原本を隠蔽しようとした事実は重大な訴訟妨害であり、グラーフ侯爵家の再審申立権を剥奪する」
再審権の剥奪。
この判決を覆す手段が、完全に絶たれた。
「以上。閉廷」
法官が立ち上がった。
傍聴席が一斉にざわめいた。私は原告席に座ったまま、しばらく動けなかった。
終わった。
本当に、終わった。
書類を片づけようとして、指が震えていることに気づいた。裁判中は震えなかった。七年間準備してきた手が、全てが終わった瞬間に震えている。
おかしなものだ。
法廷を出た。
大法廷の外は石造りの回廊だった。高い天井。等間隔に並ぶ柱。人の声が反響して、遠くで波のように聞こえる。
傍聴席にいた貴族たちが、ちらちらとこちらを見ながら通り過ぎていく。何か話しかけたそうな顔をしている人もいたが、誰も声はかけなかった。
回廊の端にある石のベンチに座った。
足が少しだけ頼りなかった。法廷では気を張っていたから気づかなかった。座った途端に、力が抜けた。
涙が出た。
なぜ泣いているのかわからなかった。嬉しいのか、悲しいのか、安堵なのか。たぶん全部だ。全部が一度に来て、処理が追いつかない。以前も、大きな案件の後に同じようなことがあった。あの時は給湯室で泣いた。今は石のベンチの上で泣いている。場所は変わっても、やることは同じだった。
隣に気配がした。
ヴォルフ様が、何も言わず座った。
石のベンチは二人が座るには少し狭い。ヴォルフ様の肩が、私の肩から手のひら一つ分のところにある。触れてはいない。でも、温度がわかる距離だ。
ハンカチが差し出された。
白い布。飾り気がない。アイロンがかかっている。縁に小さく刺繍がある。レーヴェンシュタイン家の紋章ではなく、何かの花。素人の刺繍だ。ヴォルフ様が自分で縫ったとは思えないから、亡くなった奥方のものかもしれない。
受け取った。
顔を押さえた。布は少し冷たくて、でもすぐに温かくなった。涙で濡れていく。
ヴォルフ様は何も言わなかった。
ただ、隣に座っていた。
しばらくそうしていた。回廊を人が通り過ぎるのが足音でわかった。ヴォルフ様が人払いをしているわけではないが、大きな人が隣に座っているだけで、誰も近寄ってこなかった。
涙が収まった。
ハンカチを膝の上で畳んだ。お返ししなければ。洗ってから返そう。
「……終わったんですね」
「ああ」
「終わった」
自分で言って、自分で頷いた。馬鹿みたいだった。でもそうしないと実感が湧かなかった。
ヴォルフ様が立ち上がった。
「送る。馬車を回してある」
「ありがとうございます」
立ち上がろうとして、少しよろけた。ヴォルフ様の手が伸びて──来なかった。伸びかけて、止まった。私が自分で立ち上がるのを待っていた。
この人は、私の判断を奪わない。
自分で立った。足はもう大丈夫だった。
ヴォルフ様が先に歩き出した。私はその後ろを歩いた。回廊の柱の間から差し込む光が、黒い背中に縞模様を作っていた。
背中が何か呟いた。
聞こえなかった。足音と、回廊の反響と、まだ少し詰まっている鼻のせいで。
「何か仰いましたか」
「いや。何も」
ヴォルフ様は振り返らなかった。
聞こえなかった言葉が、回廊の高い天井に消えていった。
エーリヒ・フォン・グラーフは、暗い書斎に座っていた。
法廷から戻って、どれくらい経っただろう。日が傾き始めている。誰も来ない。母は自室に閉じこもったまま出てこない。使用人たちは足音を忍ばせて廊下を通り過ぎる。
判決が下った。
離縁。慰謝料。名誉回復。監査命令。再審権剥奪。
一つひとつの意味を、まだ消化しきれていない。弁護人は「手の打ちようがありません」と言って帰った。控訴はできない。再審も封じられた。
終わった、のだ。
法廷を出ていくリーナの背中を見た。
小さな背中だった。侯爵邸にいた頃と同じ──いや、違った。
あの頃のリーナは、俯いていた。社交界でも、食事の席でも、廊下ですれ違う時も。うつむいて、壁際を歩いていた。
今日のリーナは、前を向いていた。
法廷で証拠を出す時も、判決を聞く時も。顔を上げて、審問官の目を見ていた。
俺は──あの女の顔を、まともに見たことがあっただろうか。
結婚した時のことを思い出す。二十一歳の、大人しい子爵令嬢。母が決めた縁談だった。持参金が良い、家柄に問題がない、それだけの理由で選ばれた女。
名前はリーナ。
それ以外に、俺はあの女について何を知っていた。
何も知らなかった。
知ろうとしなかった。
帳簿も見なかった。部屋も訪れなかった。名前を呼ぶことすら、義務のようにしかしなかった。
法廷を出ていく背中。回廊の奥で、大きな男が──レーヴェンシュタイン侯爵が寄り添うように歩いていた。
あの男は、あの女の何を知っているのだろう。
俺が七年間知ろうとしなかったものを、あの男は──
窓の外が暗くなった。
書斎には、空の書庫と、空の椅子と、空の時間だけが残っていた。
「……俺は、何を失ったんだ」
誰も答えない。
答えは七年前からそこにあった。ただ、俺が見なかっただけだ。




