第3話 戦略と蔵書
「三段構造で攻めます。まず不貞、次に白紙婚、最後に横領」
私はテーブルに広げた紙を指で叩いた。前夜のうちに書き上げた訴訟計画書だ。インクが一箇所だけ滲んでいる。深夜に蝋燭の灯りで書いたから、手元が暗かった。
向かいに座ったヴォルフ様──レーヴェンシュタイン侯爵は、腕を組んだまま黙っている。
二度目の訪問だった。五日前に「助言させてもらえないか」と言って帰った人が、今度は事前に書簡を寄越して訪ねてきた。書簡は素っ気なかった。日付と用件だけで、余白の方が大きい。
仮住まいの書斎──と呼ぶには少し苦しい。居間の隅に机と椅子を置いただけの空間だ。本は実家から運んだものが床に積んである。棚が足りない。
「続けてくれ」
ヴォルフ様が短く言った。今日は茶に口をつけている。前回は手をつけなかった。少しだけ距離が縮まったのかもしれない。あるいは単に喉が渇いていただけかもしれない。
「第一に、不貞を理由とする離縁と慰謝料の請求です。これが主位的請求になります」
紙の一段目を指す。
「根拠は、クラーラ・フォン・ベルクとの不貞関係。侍女アンナの目撃証言と、私が記録していた不貞の日時・場所・同席者の一覧。婚姻契約書の第十四条に不貞時の慰謝料条項があるので、慰謝料の法的根拠もここに紐づけます」
ヴォルフ様の視線が紙の上を辿っている。
「第二に、白紙婚の認定。補助的請求です。純潔証明書によって三年以上の白紙婚が客観的に証明されるので、一方からの申立で認定を求めます。グラーフ侯爵の同意は不要」
「不貞と白紙婚を並列で申し立てるのか」
「はい。どちらか一方が認められれば離縁の正当事由になりますが、両方が認定されれば慰謝料の増額根拠にもなります。保険をかけるのではなく、攻撃面を増やす構造です」
ヴォルフ様がわずかに頷いた。
「第三に、横領の返還と名誉回復。付帯請求です」
ここで少し声が硬くなった。横領の話は、七年間の傷に一番近い。
「帳簿原本から管理保管の名目で持ち出した十二枚を証拠として提出し、残りの原本について差し押さえを申請します。筆跡鑑定をかければ、イレーネ・フォン・グラーフの筆跡であることが確認される。横領の立証と同時に、石女の冤罪を晴らす名誉回復も請求します」
全て話し終えた。
ヴォルフ様は黙っていた。
腕を組んだまま、紙を見ている。私は茶を一口飲んで待った。安物の茶葉にも慣れてきた。最初の三日は渋すぎると思ったが、今はこれでいい。
「……あなた」
ヴォルフ様が口を開いた。
「どこでそれを学んだ」
声が低い。いつもより低い。驚きを抑えている声だ。
「本で読みましたの」
嘘ではない。この世界に来てから、侯爵邸の書庫で法律書は読み漁った。前の人生で得た知識をこの国の法制度に置き換えるために。
ただし、三段構造の訴訟戦略は、法律事務所で何百件も見てきた技術だ。パラリーガルとして十年。弁護士の隣で、訴状の構成を学んだ。
そんなことは、もちろん言えない。
ヴォルフ様は少しの間、こちらを見ていた。何かを測るような目だった。
嘘だと見抜いているだろうか。それとも、「本で読んだにしては精度が高すぎる」と思っているだけだろうか。
「……そうか」
それだけだった。追及しなかった。
この人は踏み込まない。聞きたいことがあっても、相手が答えないと判断したら引く。それが礼儀だからではなく、たぶん性分なのだ。
少しだけ、ほっとした。
話は帳簿の差し押さえに移った。
「原本が書庫にある今のうちに、貴族院に差し押さえを申請すべきだ」
ヴォルフ様が言った。茶杯を置く手つきが、さっきより硬い。
「あの義母の性格なら──」
「気づいた時点で隠すか燃やす、でしょう」
私が先に言ってしまった。
ヴォルフ様が一瞬、眉を上げた。それから、口の端がわずかに動いた。笑ったのだと気づくまでに少しかかった。この人の笑い方は、ほとんど筋肉が動かない。
「同じことを考えていたか」
「あの人は記録魔ですの。自分の成果──と言えば聞こえはいいですが、要するに横領の実績を帳簿に几帳面に残す方です。でも、追い詰められたら保身に走る」
「証拠を残す性格と、証拠を消す性格は矛盾しない、と」
「ええ。平時は記録を残すことに快感を覚え、有事には記録を消すことで安心を得る。どちらも、自分が制御できているという感覚が欲しいだけ」
少し喋りすぎた。心理学の本を読みすぎた癖だ。
ヴォルフ様は何も言わなかった。ただ、私の言葉を噛み砕くように少し間を置いてから、話を戻した。
「差し押さえ申請には、原本が存在する蓋然性と、隠滅のおそれを示す必要がある。あなたが管理保管していた十二枚が、書庫に残っている原本と同一の帳簿から抜き出されたものだと主張する。侯爵夫人の帳簿管理権限に基づく正当な保管であることも、同時に論証する」
「申請書の起案は今夜中にやります」
「急いだ方がいい。弁護人に純潔証明の写しを送ったんだろう。あちらが焦っているなら、イレーネにも情報が回る。帳簿の存在に気づくのは時間の問題だ」
ヴォルフ様がイレーネの名前を呼び捨てにした。他人だから当然だが、不思議と気持ちが楽になった。あの人を「お義母様」と呼ぶ義務は、もうない。
五日前に送った純潔証明の写しが、元夫側にどれだけの衝撃を与えたかは、弁護人からの焦った書簡が証明している。あの焦りがイレーネに伝われば、あの人は真っ先に書庫を確認するだろう。
十二枚が抜けていることに気づいた時、あの人がどんな顔をするか。
──いや、それは今考えることではない。
「申請書の書式に不安がある」
私は正直に言った。法律の知識は応用できるが、この世界の貴族院への申請書式は実物を見たことがない。
「書式は俺が持っている。軍法務官時代の資料に、類似の差し押さえ申請の雛形があるはずだ」
「お持ちなんですか」
「自領の書庫にある。送る」
素っ気ない。でも、ありがたかった。書式が手に入れば、今夜中に起案して明日には貴族院に提出できる。
「ありがとうございます、ヴォルフ様」
名前で呼んだのは、このときが初めてだった。
口にしてから気づいた。レーヴェンシュタイン侯爵、と呼ぶべきだっただろうか。でもヴォルフ様は訂正しなかった。聞こえなかったのか、気にしなかったのか。
たぶん後者だ。この人は、そういうことを気にしない。
ヴォルフ様が帰ったのは、日が傾き始めた頃だった。
今回は玄関で見送らなかった。居間の隅の机で、差し押さえ申請書の下書きを始めていたからだ。アンナが代わりに見送った。
アンナが戻ってきた時、少しだけ口元が緩んでいた。
「どうしたの」
「いえ。侯爵様が、帰り際に玄関の蝶番を見ていらっしゃいました」
「蝶番?」
「立てつけが悪いでしょう、あの扉。侯爵様が開ける時にまた鳴ったんです。そうしたら、蝶番のところをじっと見て、何か考えていらっしゃるようで」
何を考えていたのだろう。直してやろうか、とでも思ったのだろうか。まさか。侯爵が他人の家の蝶番を気にするなんて。
「変な人ね」
「リーナ様、それ二回目です」
「何が」
「侯爵様を変な人と仰るの」
言われてみればそうだった。
申請書の起案に取りかかった。
蝋燭を灯す。紙を広げる。ペンを取る。インクの蓋を開けて、少し匂いを嗅ぐ。安物のインクは鉄の匂いが強い。侯爵邸で使っていた上質なインクとは違う。でも書ければいい。
主文。
帳簿差し押さえ命令の申請。
申請者──リーナ・フォン・ブランシェ。被申請者──グラーフ侯爵家。
対象物──グラーフ侯爵家書庫所在の財務帳簿原本一式。
申請理由──申請者は婚姻中、侯爵夫人としての帳簿管理権限に基づき、グラーフ家財務帳簿の使途不明金に関わる頁十二枚を管理保管の名目で保管している。当該頁は帳簿原本の一部であり、残余の原本は被申請者の書庫に所在する。申請者は離縁訴訟において当該帳簿を証拠として提出する予定であるが、被申請者側による原本の隠滅または毀損のおそれがある。よって、貴族院審問官の権限に基づき、帳簿原本の差し押さえを申請する。
ペンが走った。何百枚も書いてきた申請書の構成が、手に染みついている。
この世界の法律用語に置き換える作業は必要だったが、骨格は同じだ。何が、どこに、なぜ、どうして必要なのか。それを過不足なく書く。
深夜になっていた。蝋燭が短くなっている。アンナが替えの蝋燭を持ってきてくれた。
「まだお休みにならないのですか」
「もう少し」
「……お身体に障りますわ」
「大丈夫。昔から、徹夜は得意だから」
アンナは少し怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。温かい茶を置いて、下がっていった。
明け方近くに、申請書を書き上げた。
読み返す。三回。一回目は構成、二回目は語句、三回目は相手の弁護人の目で。
問題ない。
ペンを置いた。指が少しだけ震えていた。緊張ではない。書きすぎてペンだこが痛いだけだ。右手の中指の第二関節。いつも同じ場所が痛む。
窓の外が白みかけていた。鳥が鳴き始めている。
私は申請書をそっと吹いて、インクを乾かした。
その日の午後、玄関を叩く音がした。
アンナが出ると、配達人が木箱を抱えていた。
「レーヴェンシュタイン侯爵家よりお届けものです」
木箱。思ったより大きい。配達人が居間に運び入れ、去った後に蓋を開けた。
法律書だった。
七冊。いや、八冊。
『貴族間紛争処理要覧』『貴族院審理手続概説』『婚姻法条文集成』『離縁判例選集』──背表紙の文字を目で追う。どれも実務家向けの専門書だ。一般に流通するものではない。軍法務官時代の蔵書だろう。
一冊を手に取って開いた。
頁の余白に、細かい字で書き込みがあった。
黒インクで、几帳面な文字。条文の横に「反論可能性あり」「この解釈は第三管区の判例と矛盾」「要確認」といった注釈が、ところどころに書かれている。
ヴォルフ様の字だ。
あの人が、この本を読みながら書き込んだ跡。頁をめくるたびに、静かに考えていた時間の痕跡が残っている。余白の使い方が律儀で、本文にはみ出さないように気をつけている。
「几帳面な方ね」
木箱の底に、紙が一枚入っていた。付箋のような薄い紙に、短い言葉。
『差し押さえ申請の書式は、三冊目の百二十三頁に類似例あり。参照されたし。──ヴォルフガング』
署名だけ。「お身体に気をつけて」も「ご武運を」もない。必要な情報だけ。
でも、八冊もの蔵書を──しかも自分の書き込み入りの私物を──他人に送るというのは、必要な情報だけでは説明がつかない。
その矛盾に、私はまだ気づいていなかった。
「アンナ、三冊目を取って」
百二十三頁を開く。差し押さえ申請の雛形があった。昨夜書いた私の申請書と、書式がほぼ一致している。ただし、この世界固有の定型句が三箇所抜けていた。
修正する。清書する。封をする。
午後のうちに、貴族院に提出した。
仮住まいに戻り、テーブルに座る。木箱の中の法律書が八冊、テーブルの半分を占めている。小さなテーブルだから、残りの半分にはパンと茶しか置けない。
パンをかじりながら、ヴォルフ様の注釈入りの本をもう一冊開いた。
『離縁判例選集』の二百七頁。「白紙婚認定における客観的証明の要件」という章の横に、短い書き込みがあった。
『この条文の解釈は審問官によって異なる。第一法官は厳格解釈派、第三法官は拡大解釈派。合議制の場合は第二法官がどちらに傾くかが鍵。』
審問官の性格まで把握している。元軍法務官だからこそ知っている実務の勘所だ。
この本を、この人は私に送った。
頁をめくる手が少し止まった。
「これで」
呟いた。声に出したのは自分に言い聞かせるためだ。
「これで、イレーネの手から帳簿を取り上げます」
差し押さえ申請は今日提出した。あとは貴族院が動くのを待つだけだ。あの人が帳簿の異変に気づくのが先か、貴族院の命令が先か。
窓の外では秋が深まっている。楓の葉がもう散り始めていた。
私は法律書を閉じて、冷めた茶を飲み干した。
明日からは、審理に向けた準備だ。証拠の整理、証人の打ち合わせ、主張の骨子。やることは山のようにある。
でも──不思議と、暗い気持ちではなかった。
机の上に八冊の法律書がある。付箋のような紙に、素っ気ない字で「参照されたし」と書いてある。それだけのことなのに、机の周りの空気が少しだけ温かい気がした。
気のせいだろう。
秋の夜は冷える。それだけのことだ。




