第4話 荒れ地に立つ
裁判が終われば私のものになる予定の領地は、想像の三倍荒れていた。
馬車を降りたところで、まず匂いが来た。草が枯れて腐りかけた匂い。それと、使われなくなった井戸から立ち上る湿った石の匂い。
目の前に広がっているのは、かつて農地だったらしい平野だった。かつて、と言うしかない。畝は崩れ、雑草が腰の高さまで伸びている。灌漑用の水路は泥で埋まって、水の跡すら見えなかった。道と呼べるものはない。馬車が入れたのは領地の入口までで、そこから先は獣道のような踏み跡があるだけだった。
「これは……」
アンナが声を落とした。
「ひどいですね」
ひどい。その通りだった。
グラーフ領の南端。旧グラーフ領の中でも最も手入れの行き届かなかった区画だと聞いていた。慰謝料として割譲される予定の土地。年収金貨二百枚程度の小規模領地。
金貨二百枚。
今の状態で二百枚の収入があるとは到底思えない。五十枚でも怪しい。
隣で馬を降りたヴォルフ様が、黙って辺りを見回していた。表情は変わらない。この人は何を見ても顔色を変えないから、内心で何を考えているのか読めない。
「行こう」
ヴォルフ様が歩き出した。長靴が枯れ草を踏む音が、やけに大きく響いた。
領地を歩いて回った。
集落がある──と言っても、石造りの小屋が十数軒、まばらに並んでいるだけだ。半分は屋根が崩れている。残りの半分も、窓板が外れていたり壁に亀裂が入っていたりで、人が住んでいる気配は薄い。
「住民は」
ヴォルフ様がぽつりと言った。
「三年前の疫病で大半が離散したと聞いています。残っている方もいるようですが……」
畑に人の姿はなかった。昼間だというのに煙突から煙が上がっている家もない。
水路を見た。以前、都市計画の仕事をしていた頃、水利インフラの基礎は叩き込まれた。この水路は元々しっかりした設計だった。石組みが丁寧で、勾配も計算されている。ただし、三年以上手入れがされていない。泥が溜まり、所々で石が崩れ、水が流れなくなっている。
でも、構造は生きている。
泥を浚い、崩れた石を積み直せば、水は通る。
土を見た。しゃがんで、手で掬う。黒い。有機質が多い。耕作放棄されているが、土そのものは死んでいない。
「この土なら薬草がいけるわ」
声に出してから気づいた。ヴォルフ様がこちらを見ていた。
「薬草か」
「穀物は初年度から収穫するのが難しい。でも薬草──特にこの気候帯で育つ種類なら、半年で最初の収穫が見込めます。まずは薬草で収入の柱を立てて、並行して水路を修繕し、二年目から穀物を入れる」
言いながら、頭の中で知識が回り始めていた。土壌分析、灌漑計画、作付けローテーション。以前の仕事そのものだった。
ヴォルフ様は何も言わなかった。ただ、私が土を手に取るのを見ていた。
農地跡の奥に進むと、道がさらに悪くなった。
道と呼べるかも怪しい。雨で削られた地面が泥濘になっていて、足を取られる。アンナは先に馬車に戻っていた。私の荷物を整理すると言っていたが、たぶん泥が嫌だったのだろう。気持ちはわかる。
ヴォルフ様は平気な顔で泥の中を歩いている。軍人だった人には、これくらいは何でもないのかもしれない。
私はそうはいかなかった。
左足が沈んだ。泥が靴の上まで来て、体が傾いた。
──と思った瞬間、目の前に暗い色が広がった。
ヴォルフ様の外套だった。
灰色の外套が、泥の上に広げられていた。私が足を取られた場所に、ヴォルフ様が自分の外套を敷いたのだ。
無言で。
「道が悪い」
それだけ言って、ヴォルフ様は先に歩き出した。振り返りもしない。
私は外套の上に立って、少しの間動けなかった。泥の中に灰色の布が沈んでいく。高価な外套だ。仕立てのいい生地で、裏地に侯爵家の紋章が縫い込んであるのが見えた。
汚れてしまう。
そう思ったが、「汚れます」と言うのは違う気がした。ヴォルフ様は汚れることをわかっていて敷いたのだ。そこに「汚れます」と言うのは、この人の判断を否定することになる。
黙って外套の上を歩いた。泥が靴底にこびりつく感触が、布越しに少し和らいだ。
前を歩くヴォルフ様の背中は、外套がなくても寒そうには見えなかった。秋の風が吹いているのに。大きな背中だった。
視察を終えたのは夕方近くだった。
領地の外れに、まだ使える宿屋がひとつだけあった。宿屋というよりは、農家の一部を開放しているだけの簡素な場所だ。部屋は二つしかない。ヴォルフ様が一つ、私とアンナがもう一つ。
壁が薄い。隣の部屋でヴォルフ様が椅子を引く音が聞こえた。
夕食は宿の主人が出してくれた硬いパンと豆の煮込みだった。肉はない。味は薄い。でも温かかった。温かいだけでありがたいと思うのは、侯爵邸にいた頃にはなかった感覚だ。
食事の後、ヴォルフ様は「先に休む」と言って部屋に下がった。私は居間に残った。
テーブルの上に、今日歩いた領地の見取り図を広げた。視察中に描いたものだ。地形、水路の位置、集落、農地跡、森との境界線。ところどころインクが滲んでいるのは、歩きながら描いたせいだ。
蝋燭を灯す。紙を広げる。ペンを取る。
三度目の徹夜になるかもしれない、と思いながら書き始めた。
再建計画書。
第一期(初年度前半)──水路の泥浚いと石組み修繕。最低限の灌漑機能の回復。同時に薬草園の区画を確保し、播種。
第二期(初年度後半)──薬草の初収穫と市場への試験出荷。収益で次期の種子と資材を調達。住民の帰還を促すため、崩れた家屋の修繕に着手。
第三期(二年目)──水路の本格修繕。穀物の作付け開始。薬草園を拡大し、常設の取引先を確保。
書きながら、経験と現実の条件を突き合わせた。
この世界には重機がない。人力と馬力が基本だ。水路の修繕には石工が要る。近隣の町から雇うことになるが、費用は慰謝料の金貨から捻出できる。薬草の品種は、この気候帯で育つものに限定する。植物学の基礎知識が使えるのは、生育条件の判断までだ。この世界の薬草には、馴染みのない種が多い。
だから、計画書には「現地調査に基づく品種選定」と書いた。知ったかぶりはしない。知らないことは知らないと書く。
計画書を書き上げたのは、窓の外が白みかけた頃だった。明け方の光が紙の上に落ちている。
蝋燭は三本使った。宿代に上乗せしないといけない。
朝食の席で、ヴォルフ様に計画書を渡した。
豆の煮込みの残りと、昨日と同じ硬いパン。ヴォルフ様はパンを千切りながら、計画書を読んでいた。
片手でパンを千切り、片手で頁をめくる。器用だと思った。不器用な人かと思っていたが、こういうところは妙に手際がいい。
長い沈黙だった。
計画書は八枚。薬草園の区画図、水路の修繕工程表、費用概算、住民帰還のための施策案。何百枚も企画書を書いてきた経験が、ここでも生きている。
ヴォルフ様が最後の頁を読み終えた。
パンを置いた。
「……よくできている」
声が低かった。いつもと同じ低さだが、響き方が違った。
ヴォルフ様の目が計画書の上を行き来している。特に水路の修繕工程表を何度か見直していた。
「費用概算が現実的だ。こういう計画書は、大体ここが甘い」
「以前にも──似たようなものを書いたことがありますの」
ヴォルフ様は聞き返さなかった。前回と同じだ。私が言い淀んだ箇所を、追及しない。
代わりに、計画書の三枚目を指で叩いた。
「薬草の品種選定が空欄になっている」
「現地の条件を見ないと決められません。土壌の酸性度と日照時間で、適した品種が変わるので」
「俺の領でも薬草は栽培している。品種の情報は提供できる」
「……ありがとうございます」
この人はいつもこうだ。必要なことを、必要な分だけ言う。多くも少なくもない。
ヴォルフ様はパンの残りを口に放り込んで、立ち上がった。
「もう少し見て回ろう。昨日、領地の東側がまだだった」
東側の外れに、崩れかけた石造りの小屋が何軒かあった。
他の建物と同じように朽ちている。屋根の半分が落ちて、壁に蔦が絡みついている。人が住める状態ではない。
──と思った時、聞こえた。
泣き声。
かすかだった。風の音に紛れるほど小さい。でも確かに、人の声だった。
「ヴォルフ様」
私は立ち止まった。ヴォルフ様も止まった。
「聞こえるか」
「ええ。あの小屋から」
一番奥の、屋根が半分残っている小屋だった。扉はなかった。外れた蝶番の跡だけが壁に残っている。
中に入った。
暗い。屋根の隙間から差し込む光だけが頼りだ。床は土で、隅に枯れ草が積んである。誰かが寝床にしていたのかもしれない。
枯れ草の陰に、何かが動いた。
小さい。
人の形をしている。子どもだ。
枯れ草の中に丸まって、膝を抱えている。汚れた茶色の髪。痩せた腕。服と呼べるかも怪しい、擦り切れた布きれ。
五歳くらいだろうか。女の子だった。
大きな目がこちらを見ている。涙で濡れていた。恐怖で固まった目。
「……っ」
声にならない声を上げて、女の子が身を縮めた。
私はその場にしゃがんだ。ゆっくり。急な動きをしないように。
「怖がらないで」
声を小さくした。怯えている生き物に対しては同じだ。声を低く、動きを遅く、目線を合わせる。
女の子は震えていた。泣きすぎて声が出ないらしい。涙だけが頬を流れている。
「一人だったの?」
女の子が小さく頷いた。
「……おかあさん、もう、いない」
掠れた声だった。喉が渇いているのだろう。最後にいつ水を飲んだのか。最後にいつ食べたのか。
胸の奥が痛んだ。痛いという言葉では足りない。もっと鈍い、もっと深い場所が軋んだ。
この子は、一人で、ここにいた。
崩れかけた小屋の中で。枯れ草を集めて。誰もいない領地で。
七年間、侯爵邸で一人だった自分を思い出した──というのは嘘だ。比べるのも失礼だ。私には屋根があった。食事があった。アンナがいた。
この子には何もない。
私は手を伸ばした。
女の子が身を引いた。怯えている。知らない大人の手を怖がっている。当然だ。
「大丈夫」
自分の声が震えていないか確かめた。震えていなかった。
「大丈夫よ。もう一人にしない」
なぜそう言ったのかはわからない。言うつもりはなかった。私はこの領地の正式な持ち主ですらない。裁判が終わるまで、ここは法的にはまだグラーフ家のものだ。引き取る権限などない。
でも、言った。
口が勝手に動いた。
女の子の目がわずかに変わった。恐怖の中に、ほんの少しだけ、別のものが混じった。
期待、と呼ぶには弱すぎる何かだ。でも、確かに。
私は両手を広げた。
女の子は動かなかった。
三拍くらい経って、小さな手が伸びてきた。汚れた指。爪の間に泥が詰まっている。
その手を取った。冷たかった。小さくて、骨ばっていて、震えていた。
引き寄せると、抵抗しなかった。枯れ草の匂いと、子どもの汗の匂いがした。軽い。こんなに軽いものかと思った。
抱き上げた。
女の子が私の肩に顔を押しつけた。声を上げずに泣いている。服の布が濡れていくのがわかった。
後ろで、ヴォルフ様が立っていた。
入口の光を背にして、影のように立っていた。何も言わなかった。踏み込まなかった。
ただ、立っていた。
私は女の子を抱いたまま、振り返った。
「この子を連れて帰ります」
ヴォルフ様が頷いた。
「……名前は」
私は女の子に聞いた。肩に顔を埋めたまま、かすれた声が答えた。
「ミラ」
ミラ。
小さな名前だった。
抱き上げた腕の中で、ミラが少しだけ力を抜いた。怯えが消えたわけではない。でも、震えが少し──ほんの少しだけ──収まった。
小屋を出た。外の光が眩しかった。
ヴォルフ様が先に歩いて、道を確認している。泥がないか、石が転がっていないか。私がミラを抱えたまま歩けるように、道を作っている。
何も言わない。
ただ、歩きやすいように先を行く。
来た時に外套を敷いてくれた泥道のところで、ヴォルフ様が立ち止まった。外套はまだ泥の上にあった。朝からそのままだ。もう乾きかけていて、泥と混じって灰色とも茶色ともつかない色になっている。
ヴォルフ様はそれを拾い上げず、自分が泥の中に足を踏み入れて、私とミラのために乾いた側の道を空けた。
長靴が泥に沈む音がした。
私は何も言えなかった。ありがとうと言うべきだったかもしれない。でも、この人にありがとうと言うと、「道が悪い」としか返ってこない気がした。
馬車に乗った。
ミラは私の膝の上で眠っていた。疲れ切っていたのだろう。抱き上げてから十分もしないうちに目を閉じた。
アンナがミラの顔を覗き込んで、何も言わずに自分の上着を掛けた。
「宿の主人に聞いた」
ヴォルフ様が馬上から窓越しに言った。
「この辺りの孤児は、三年前の疫病で親を亡くした子が多いらしい。大半は親戚か教会に引き取られたが、この子は──」
「見落とされたのでしょうね」
見落とされた。
誰にも見つけてもらえなかった。
「……連れて帰ります」
二回目だった。同じ言葉。今度は、もう少し静かに。
ヴォルフ様は頷いた。それから、馬を前に進めた。
馬車が揺れる。ミラの寝息が聞こえる。小さな息だ。生きている音だ。
膝の上のミラの重さを感じながら、私は窓の外を見た。
荒れ地が流れていく。崩れた石壁、枯れた畑、泥の道。
あの領地を、立て直さなければならない。
計画書は書いた。水路も土壌も見た。やるべきことはわかっている。
でも今、一番強く思っているのは、計画書のことではなかった。
この子に、温かいものを食べさせなければ。
それだけだった。




