表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
元夫の後悔に興味はありません  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/10

第4話 荒れ地に立つ

裁判が終われば私のものになる予定の領地は、想像の三倍荒れていた。


馬車を降りたところで、まず匂いが来た。草が枯れて腐りかけた匂い。それと、使われなくなった井戸から立ち上る湿った石の匂い。


目の前に広がっているのは、かつて農地だったらしい平野だった。かつて、と言うしかない。畝は崩れ、雑草が腰の高さまで伸びている。灌漑用の水路は泥で埋まって、水の跡すら見えなかった。道と呼べるものはない。馬車が入れたのは領地の入口までで、そこから先は獣道のような踏み跡があるだけだった。


「これは……」


アンナが声を落とした。


「ひどいですね」


ひどい。その通りだった。


グラーフ領の南端。旧グラーフ領の中でも最も手入れの行き届かなかった区画だと聞いていた。慰謝料として割譲される予定の土地。年収金貨二百枚程度の小規模領地。


金貨二百枚。


今の状態で二百枚の収入があるとは到底思えない。五十枚でも怪しい。


隣で馬を降りたヴォルフ様が、黙って辺りを見回していた。表情は変わらない。この人は何を見ても顔色を変えないから、内心で何を考えているのか読めない。


「行こう」


ヴォルフ様が歩き出した。長靴が枯れ草を踏む音が、やけに大きく響いた。



領地を歩いて回った。


集落がある──と言っても、石造りの小屋が十数軒、まばらに並んでいるだけだ。半分は屋根が崩れている。残りの半分も、窓板が外れていたり壁に亀裂が入っていたりで、人が住んでいる気配は薄い。


「住民は」


ヴォルフ様がぽつりと言った。


「三年前の疫病で大半が離散したと聞いています。残っている方もいるようですが……」


畑に人の姿はなかった。昼間だというのに煙突から煙が上がっている家もない。


水路を見た。以前、都市計画の仕事をしていた頃、水利インフラの基礎は叩き込まれた。この水路は元々しっかりした設計だった。石組みが丁寧で、勾配も計算されている。ただし、三年以上手入れがされていない。泥が溜まり、所々で石が崩れ、水が流れなくなっている。


でも、構造は生きている。


泥を浚い、崩れた石を積み直せば、水は通る。


土を見た。しゃがんで、手で掬う。黒い。有機質が多い。耕作放棄されているが、土そのものは死んでいない。


「この土なら薬草がいけるわ」


声に出してから気づいた。ヴォルフ様がこちらを見ていた。


「薬草か」


「穀物は初年度から収穫するのが難しい。でも薬草──特にこの気候帯で育つ種類なら、半年で最初の収穫が見込めます。まずは薬草で収入の柱を立てて、並行して水路を修繕し、二年目から穀物を入れる」


言いながら、頭の中で知識が回り始めていた。土壌分析、灌漑計画、作付けローテーション。以前の仕事そのものだった。


ヴォルフ様は何も言わなかった。ただ、私が土を手に取るのを見ていた。



農地跡の奥に進むと、道がさらに悪くなった。


道と呼べるかも怪しい。雨で削られた地面が泥濘になっていて、足を取られる。アンナは先に馬車に戻っていた。私の荷物を整理すると言っていたが、たぶん泥が嫌だったのだろう。気持ちはわかる。


ヴォルフ様は平気な顔で泥の中を歩いている。軍人だった人には、これくらいは何でもないのかもしれない。


私はそうはいかなかった。


左足が沈んだ。泥が靴の上まで来て、体が傾いた。


──と思った瞬間、目の前に暗い色が広がった。


ヴォルフ様の外套だった。


灰色の外套が、泥の上に広げられていた。私が足を取られた場所に、ヴォルフ様が自分の外套を敷いたのだ。


無言で。


「道が悪い」


それだけ言って、ヴォルフ様は先に歩き出した。振り返りもしない。


私は外套の上に立って、少しの間動けなかった。泥の中に灰色の布が沈んでいく。高価な外套だ。仕立てのいい生地で、裏地に侯爵家の紋章が縫い込んであるのが見えた。


汚れてしまう。


そう思ったが、「汚れます」と言うのは違う気がした。ヴォルフ様は汚れることをわかっていて敷いたのだ。そこに「汚れます」と言うのは、この人の判断を否定することになる。


黙って外套の上を歩いた。泥が靴底にこびりつく感触が、布越しに少し和らいだ。


前を歩くヴォルフ様の背中は、外套がなくても寒そうには見えなかった。秋の風が吹いているのに。大きな背中だった。



視察を終えたのは夕方近くだった。


領地の外れに、まだ使える宿屋がひとつだけあった。宿屋というよりは、農家の一部を開放しているだけの簡素な場所だ。部屋は二つしかない。ヴォルフ様が一つ、私とアンナがもう一つ。


壁が薄い。隣の部屋でヴォルフ様が椅子を引く音が聞こえた。


夕食は宿の主人が出してくれた硬いパンと豆の煮込みだった。肉はない。味は薄い。でも温かかった。温かいだけでありがたいと思うのは、侯爵邸にいた頃にはなかった感覚だ。


食事の後、ヴォルフ様は「先に休む」と言って部屋に下がった。私は居間に残った。


テーブルの上に、今日歩いた領地の見取り図を広げた。視察中に描いたものだ。地形、水路の位置、集落、農地跡、森との境界線。ところどころインクが滲んでいるのは、歩きながら描いたせいだ。


蝋燭を灯す。紙を広げる。ペンを取る。


三度目の徹夜になるかもしれない、と思いながら書き始めた。



再建計画書。


第一期(初年度前半)──水路の泥浚いと石組み修繕。最低限の灌漑機能の回復。同時に薬草園の区画を確保し、播種。


第二期(初年度後半)──薬草の初収穫と市場への試験出荷。収益で次期の種子と資材を調達。住民の帰還を促すため、崩れた家屋の修繕に着手。


第三期(二年目)──水路の本格修繕。穀物の作付け開始。薬草園を拡大し、常設の取引先を確保。


書きながら、経験と現実の条件を突き合わせた。


この世界には重機がない。人力と馬力が基本だ。水路の修繕には石工が要る。近隣の町から雇うことになるが、費用は慰謝料の金貨から捻出できる。薬草の品種は、この気候帯で育つものに限定する。植物学の基礎知識が使えるのは、生育条件の判断までだ。この世界の薬草には、馴染みのない種が多い。


だから、計画書には「現地調査に基づく品種選定」と書いた。知ったかぶりはしない。知らないことは知らないと書く。


計画書を書き上げたのは、窓の外が白みかけた頃だった。明け方の光が紙の上に落ちている。


蝋燭は三本使った。宿代に上乗せしないといけない。



朝食の席で、ヴォルフ様に計画書を渡した。


豆の煮込みの残りと、昨日と同じ硬いパン。ヴォルフ様はパンを千切りながら、計画書を読んでいた。


片手でパンを千切り、片手で頁をめくる。器用だと思った。不器用な人かと思っていたが、こういうところは妙に手際がいい。


長い沈黙だった。


計画書は八枚。薬草園の区画図、水路の修繕工程表、費用概算、住民帰還のための施策案。何百枚も企画書を書いてきた経験が、ここでも生きている。


ヴォルフ様が最後の頁を読み終えた。


パンを置いた。


「……よくできている」


声が低かった。いつもと同じ低さだが、響き方が違った。


ヴォルフ様の目が計画書の上を行き来している。特に水路の修繕工程表を何度か見直していた。


「費用概算が現実的だ。こういう計画書は、大体ここが甘い」


「以前にも──似たようなものを書いたことがありますの」


ヴォルフ様は聞き返さなかった。前回と同じだ。私が言い淀んだ箇所を、追及しない。


代わりに、計画書の三枚目を指で叩いた。


「薬草の品種選定が空欄になっている」


「現地の条件を見ないと決められません。土壌の酸性度と日照時間で、適した品種が変わるので」


「俺の領でも薬草は栽培している。品種の情報は提供できる」


「……ありがとうございます」


この人はいつもこうだ。必要なことを、必要な分だけ言う。多くも少なくもない。


ヴォルフ様はパンの残りを口に放り込んで、立ち上がった。


「もう少し見て回ろう。昨日、領地の東側がまだだった」



東側の外れに、崩れかけた石造りの小屋が何軒かあった。


他の建物と同じように朽ちている。屋根の半分が落ちて、壁に蔦が絡みついている。人が住める状態ではない。


──と思った時、聞こえた。


泣き声。


かすかだった。風の音に紛れるほど小さい。でも確かに、人の声だった。


「ヴォルフ様」


私は立ち止まった。ヴォルフ様も止まった。


「聞こえるか」


「ええ。あの小屋から」


一番奥の、屋根が半分残っている小屋だった。扉はなかった。外れた蝶番の跡だけが壁に残っている。


中に入った。


暗い。屋根の隙間から差し込む光だけが頼りだ。床は土で、隅に枯れ草が積んである。誰かが寝床にしていたのかもしれない。


枯れ草の陰に、何かが動いた。


小さい。


人の形をしている。子どもだ。


枯れ草の中に丸まって、膝を抱えている。汚れた茶色の髪。痩せた腕。服と呼べるかも怪しい、擦り切れた布きれ。


五歳くらいだろうか。女の子だった。


大きな目がこちらを見ている。涙で濡れていた。恐怖で固まった目。


「……っ」


声にならない声を上げて、女の子が身を縮めた。


私はその場にしゃがんだ。ゆっくり。急な動きをしないように。


「怖がらないで」


声を小さくした。怯えている生き物に対しては同じだ。声を低く、動きを遅く、目線を合わせる。


女の子は震えていた。泣きすぎて声が出ないらしい。涙だけが頬を流れている。


「一人だったの?」


女の子が小さく頷いた。


「……おかあさん、もう、いない」


掠れた声だった。喉が渇いているのだろう。最後にいつ水を飲んだのか。最後にいつ食べたのか。


胸の奥が痛んだ。痛いという言葉では足りない。もっと鈍い、もっと深い場所が軋んだ。


この子は、一人で、ここにいた。


崩れかけた小屋の中で。枯れ草を集めて。誰もいない領地で。


七年間、侯爵邸で一人だった自分を思い出した──というのは嘘だ。比べるのも失礼だ。私には屋根があった。食事があった。アンナがいた。


この子には何もない。


私は手を伸ばした。


女の子が身を引いた。怯えている。知らない大人の手を怖がっている。当然だ。


「大丈夫」


自分の声が震えていないか確かめた。震えていなかった。


「大丈夫よ。もう一人にしない」


なぜそう言ったのかはわからない。言うつもりはなかった。私はこの領地の正式な持ち主ですらない。裁判が終わるまで、ここは法的にはまだグラーフ家のものだ。引き取る権限などない。


でも、言った。


口が勝手に動いた。


女の子の目がわずかに変わった。恐怖の中に、ほんの少しだけ、別のものが混じった。


期待、と呼ぶには弱すぎる何かだ。でも、確かに。


私は両手を広げた。


女の子は動かなかった。


三拍くらい経って、小さな手が伸びてきた。汚れた指。爪の間に泥が詰まっている。


その手を取った。冷たかった。小さくて、骨ばっていて、震えていた。


引き寄せると、抵抗しなかった。枯れ草の匂いと、子どもの汗の匂いがした。軽い。こんなに軽いものかと思った。


抱き上げた。


女の子が私の肩に顔を押しつけた。声を上げずに泣いている。服の布が濡れていくのがわかった。


後ろで、ヴォルフ様が立っていた。


入口の光を背にして、影のように立っていた。何も言わなかった。踏み込まなかった。


ただ、立っていた。


私は女の子を抱いたまま、振り返った。


「この子を連れて帰ります」


ヴォルフ様が頷いた。


「……名前は」


私は女の子に聞いた。肩に顔を埋めたまま、かすれた声が答えた。


「ミラ」


ミラ。


小さな名前だった。


抱き上げた腕の中で、ミラが少しだけ力を抜いた。怯えが消えたわけではない。でも、震えが少し──ほんの少しだけ──収まった。


小屋を出た。外の光が眩しかった。


ヴォルフ様が先に歩いて、道を確認している。泥がないか、石が転がっていないか。私がミラを抱えたまま歩けるように、道を作っている。


何も言わない。


ただ、歩きやすいように先を行く。


来た時に外套を敷いてくれた泥道のところで、ヴォルフ様が立ち止まった。外套はまだ泥の上にあった。朝からそのままだ。もう乾きかけていて、泥と混じって灰色とも茶色ともつかない色になっている。


ヴォルフ様はそれを拾い上げず、自分が泥の中に足を踏み入れて、私とミラのために乾いた側の道を空けた。


長靴が泥に沈む音がした。


私は何も言えなかった。ありがとうと言うべきだったかもしれない。でも、この人にありがとうと言うと、「道が悪い」としか返ってこない気がした。



馬車に乗った。


ミラは私の膝の上で眠っていた。疲れ切っていたのだろう。抱き上げてから十分もしないうちに目を閉じた。


アンナがミラの顔を覗き込んで、何も言わずに自分の上着を掛けた。


「宿の主人に聞いた」


ヴォルフ様が馬上から窓越しに言った。


「この辺りの孤児は、三年前の疫病で親を亡くした子が多いらしい。大半は親戚か教会に引き取られたが、この子は──」


「見落とされたのでしょうね」


見落とされた。


誰にも見つけてもらえなかった。


「……連れて帰ります」


二回目だった。同じ言葉。今度は、もう少し静かに。


ヴォルフ様は頷いた。それから、馬を前に進めた。


馬車が揺れる。ミラの寝息が聞こえる。小さな息だ。生きている音だ。


膝の上のミラの重さを感じながら、私は窓の外を見た。


荒れ地が流れていく。崩れた石壁、枯れた畑、泥の道。


あの領地を、立て直さなければならない。


計画書は書いた。水路も土壌も見た。やるべきことはわかっている。


でも今、一番強く思っているのは、計画書のことではなかった。


この子に、温かいものを食べさせなければ。


それだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ