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元夫の後悔に興味はありません  作者: 九葉(くずは)


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第2話 純潔の証明と寡黙な隣人

神殿の白い回廊を歩きながら、私は昔覚えた言葉を思い出していた。


証拠は、集めた者が勝つ。


前の人生で上司が言っていた。正確には、朝のコーヒーを啜りながら、コピー機の前で言っていた。もう少し格好のいい場面で聞きたかったが、真実というのは得てしてそういうものだ。


実家に一泊した翌日、王都近くの借家に移った。裁判を戦うなら貴族院に通える距離に住む必要がある。父は何も言わなかったが、母が持たせてくれた外套は薄手で、侯爵邸にいた頃の毛皮つきのものとは比べものにならなかった。


その三日目の朝、私は神殿に向かっていた。


神殿の床は白い石で、足音が嫌によく響いた。天井が高いせいだ。柱と柱の間から差し込む秋の光が、床に長い影を落としている。空気は冷たく、かすかに香のにおいがした。


受付の修道女に用件を告げると、少しだけ間があった。


「……純潔証明の申請、でございますか」


「はい」


「失礼ですが、ご婚姻中の方で」


「離縁の手続き中です」


修道女の目が泳いだ。前例がほとんどないのだろう。制度としては存在するが、婚姻中──正確には離縁手続き中──の女性が申請することは極めて稀なはずだ。


「少々お待ちください」


修道女が奥に消えた。私は回廊の長椅子に座って待った。石の冷たさが腰に沁みる。


でも、この外套は自分の意思で着ている外套だ。


それだけで十分だった。



やがて案内されたのは、神殿の奥にある小さな白い部屋だった。


窓はない。燭台が四方に置かれ、柔らかい光が壁を照らしている。部屋の中央に鑑定用の台座があり、その前に年配の神官が立っていた。


「ブランシェ子爵家のリーナ殿ですな」


神官は白髪を短く刈り込んだ穏やかな老人だった。声は低いが、圧のない低さだ。


「はい」


「事情は伺っております。鑑定は神聖魔法による身体検査です。触れますが、痛みはありません。ご不安でしたら、侍女殿を同席させますか」


「いいえ。一人で大丈夫です」


嘘だった。不安でないはずがない。


七年間「石女」と呼ばれ続けた身体を、見知らぬ神官に調べられるのだ。結果はわかっている。わかっているからこそ、ここに来た。でも、頭でわかっていることと、身体が平気でいることは別だ。


台座に座る。神官が両手を翳す。手のひらから淡い白光が広がった。


温かい。


それが最初の感覚だった。七年間、誰にも触れられなかった──正確には、誰かの温度を近くで感じることがなかった身体に、柔らかい光が沁みていく。


目を閉じた。暗闇の中に白い光が透けた。


どのくらい経っただろう。一分か、五分か。光が引いて、神官が手を下ろした。


「終わりました」


私は目を開けた。


神官は少し黙っていた。鑑定結果を整理しているのかと思ったが、違った。


老人は、静かに頭を下げた。


「──あなたは何も穢れていません」


その言葉は、鑑定結果の報告としては奇妙だった。穢れているかどうかを調べたのではない。純潔を証明するために来たのだ。


でも、神官が言いたかったことは、たぶん鑑定とは別のことだった。


「証明書は喜んでお書きします」


喜んで。


その一言が、思ったより深く刺さった。


私は「ありがとうございます」と言った。声が少しだけ掠れた。台座から降りる時、膝が震えていることに気づいた。鑑定の緊張が解けたのだ。それだけだ。



証明書は厚い羊皮紙に神殿の紋章入りで発行された。


神聖魔法による鑑定の結果、申請者リーナ・フォン・ブランシェは純潔であることを証明する。日付、神官の署名、神殿の封印。


これが武器になる。


白紙婚──肉体関係のない婚姻が三年以上続いた場合、客観的な証明があれば一方からの申立で白紙婚と認定される。純潔証明はその「客観的な証明」だ。グラーフ侯爵の同意は必要ない。


そして同時に、この証明書は「石女」の冤罪を晴らす物的証拠でもある。


子を成す見込みなきため。


あの離縁申出書の文言が、嘘だったことの証明。子を成す機会すら与えられなかった女を、石女と呼んだ者たちへの回答。


仮住まいに戻ると、アンナが玄関先で待っていた。


「リーナ様、お帰りなさいませ」


借家の玄関は狭い。侯爵邸の十分の一もない。扉の立てつけが悪くて、閉める時にいつも引っかかる。でも、アンナが毎朝花を一輪だけ玄関に飾ってくれるようになった。今日は白い野菊だった。


居間に入り、証明書をテーブルに広げた。アンナが隣で覗き込む。


「これが……」


「純潔証明書。神殿の公文書よ。法的な証拠能力がある」


アンナが息を呑んだ。それから、小さく笑った。


「石女ではなかった。最初からわかっていたことですけれど……こうして文書になると」


「嘘つきはあちら側になった、ということね」


私はそう言って、証明書の写しを二通作る準備を始めた。一通は貴族院への提出用。もう一通は、元夫側の弁護人への送達用。


写しを作りながら、アンナが口を開いた。


「リーナ様」


「なに」


「私も証言台に立ちます」


ペンが止まった。


「……アンナ」


「七年間、お傍にいました。旦那様が──グラーフ侯爵が奥の部屋に通うのを見ています。クラーラ様がお屋敷を訪ねてくるのも。リーナ様の部屋の扉を、一度も叩かなかったことも」


アンナの声は震えていなかった。三日前に泣いた時とは違う。覚悟を決めた声だった。


「証言台に立てば、あなたは侯爵家に戻れなくなる」


「戻りません」


即答だった。


「リーナ様が戻らないところに、私も戻りません」


私は何も言えなかった。代わりに、冷めかけた茶を一口飲んだ。安物の茶葉だ。侯爵邸の銀の茶器で飲む高級茶とは比べものにならない。でも味はちゃんとする。


「……ありがとう」


アンナは頷いた。


証明書の写しを仕上げ、封をして、元夫側の弁護人に送達する手配をした。配達は明日になる。届いた時の弁護人の顔が見てみたい。



その反応は、思ったより早く来た。


翌日の昼過ぎ、仮住まいの玄関を叩く音がした。配達人だった。


元夫側の弁護人からの書簡。封蝋を切る。


『──事前協議の場を設けたく存じます。本件において、双方の名誉ある解決のため──』


長い。そして、震えている。文面ではなく、字が。インクの太さが安定していない。急いで書いたのだ。


「事前協議」


私は書簡をテーブルに置いた。


経験が囁く。相手が事前協議を求めてくるのは、法廷で不利だと悟った時だ。示談で済ませたいのだ。


「お断りしましょう」


私は返書を一筆したためた。


『事前協議には応じかねます。法廷にてお会いしましょう。リーナ・フォン・ブランシェ』


短い方がいい。焦っている相手には、こちらの落ち着きが一番堪える。



返書を出して、遅い昼食を取ろうとした時だった。


「リーナ様」


アンナが少し困った顔で居間に入ってきた。


「お客様です。レーヴェンシュタイン侯爵様と名乗る方が」


レーヴェンシュタイン。


聞いたことがある。グラーフ領の隣領を治める侯爵家だ。確か、ライナ河という共有河川を挟んで領地が隣り合っている。


「お会いになりますか」


知らない男の訪問。しかも侯爵。三日前に侯爵邸を出たばかりの私には、警戒する理由しかない。


でも──レーヴェンシュタイン。


四年前の夜会で、柱の陰からこちらを見ていた灰色の目。あの時の軍服姿の男を、ふと思い出した。まさか、同じ人物だろうか。


「お通しして」


応接間──と呼ぶには狭すぎる部屋で、私は客を待った。窓際の椅子に座り、テーブルの上に証明書関連の書類を片づける。昼食に食べようとしていた固いパンを台所に戻す余裕はなかった。テーブルの端にパンが残ったまま、来客を迎えることになる。


扉が開いた。


大きい、と思った。


扉の枠いっぱいに人影が立っている。身長は六フィートをゆうに超えている。暗い灰色の外套、磨かれた革の長靴。軍服ではなく平服だが、背筋の伸び方が軍人のそれだった。


顔を見上げる。


四年前と同じ目の色だった。


「レーヴェンシュタイン侯爵ヴォルフガング・フォン・レーヴェンシュタインだ」


低い声。必要なことだけを言う声だった。


「ブランシェ子爵家のリーナです。……お掛けになって」


椅子を勧める。ヴォルフガング侯爵は腰を下ろしたが、椅子が小さすぎて少し窮屈そうだった。借家の家具は侯爵を迎える仕様ではない。


アンナが茶を運んできた。客にも、私にも。侯爵邸と違って、ちゃんと二人分の茶が出る。それが少しだけ可笑しかった。


「突然の訪問をお詫びする」


ヴォルフガング侯爵は茶には手をつけず、真っ直ぐこちらを見た。


「ライナ河の水利権調査をしている。上流のグラーフ領で水利施設の荒廃が進んでいて、下流の俺の領の農地に被害が出ている」


水利権。


意外な話題だった。もっと個人的な──例えば社交界の好奇心とか、離縁の噂を聞きつけた野次馬とか──そういう訪問を想像していた。


「その調査の過程で、グラーフ家の財務状況を確認する必要があった。それで──あなたの訴訟を知った」


「……なるほど」


水利施設の荒廃。それはあの義母の横領と直結する。領地の維持費が愛人との遊興費に消えれば、インフラは当然劣化する。


「助言させてもらえないか」


私は少し間を置いた。


「なぜ、ですか」


「隣領の紛争が長引けば、水利権の問題も解決が遅れる。グラーフ家の財務がどうなっているか、裁判を通じて明らかになれば、水利施設の修繕費用の請求根拠にもなる」


合理的だった。あまりにも合理的で、逆に少し拍子抜けした。


私を助けたいのではない。自分の領地の利益のために、私の訴訟が早く進んだ方が都合がいい。それだけの話だ。


「侯爵様は以前、軍にいらっしゃいましたか」


「軍法務官だった」


軍法務官。法律の専門家ということだ。


「退役後は領地経営を」


「ああ」


短い。この人は、必要なこと以外を話さない。


私は少し考えた。いつもの癖で、相手の言葉を法律文書のように分析してしまう。この人の話には装飾がない。飾る必要を感じていないか、飾る能力がないか。たぶん前者だ。


「お申し出、ありがたくお受けします」


ヴォルフガング侯爵が小さく頷いた。


それから少しだけ、具体的な話をした。貴族院への申立の手順、必要な書類、審理の流れ。侯爵の助言は簡潔で正確だった。軍法務官の経験は、貴族間の法手続きにも通じているらしい。


私が白紙婚の一方申立について説明すると、侯爵の眉がわずかに動いた。


「……客観的証明による一方申立。純潔証明を取得済みか」


「本日、発行されました」


侯爵が初めて、少しだけ目を見開いた。


「早いな」


それだけだった。褒めでも驚きでもない。ただ、事実として「早い」と認めた。


なぜか、それが少し嬉しかった。お世辞を言わない人に認められると、その分だけ言葉が重くなる。


テーブルの端に残ったパンが目に入った。片づけ損ねたことが急に恥ずかしくなった。でも今さら隠すのも不自然だ。


侯爵の視線がパンに移った──気がした。気のせいかもしれない。



話が一段落して、ヴォルフガング侯爵が立ち上がった。


「長居した。失礼する」


玄関まで見送る。扉は相変わらず立てつけが悪い。侯爵が開けると、蝶番がぎいと鳴った。


外はもう夕暮れだった。秋の日は短い。侯爵の馬が門の前に繋がれていて、息を白くしている。


侯爵は外套の襟を正した。


それから、小声で言った。


「道中、気をつけて」


振り返らずに。


道中? 私はここに住んでいるのだが。侯爵はこれから自分の領地に帰るのだから、気をつけるのは侯爵の方だ。


言い間違いだろうか。それとも、裁判までの道のりを指しているのだろうか。


考えているうちに、侯爵はもう馬に跨っていた。大きな人だが、馬の扱いは妙に静かだった。鞍に乗る動作に無駄がない。


馬が歩き出す。蹄の音が石畳に響いて、やがて角を曲がって見えなくなった。


私は玄関先に立ったまま、しばらく動かなかった。


秋の風が首筋を撫でた。アンナが後ろから外套を掛けてくれた。


「……変な人」


口をついて出たのは、そんな感想だった。


アンナが小さく首を傾げた。


「侯爵様が、ですか」


「水利権の調査で訴訟を知ったって。助けたいんじゃなくて、自分の領地のために来たんですって」


「合理的な方ですね」


「そうね」


合理的な人だ。


なのに、帰り際に「道中、気をつけて」と言った。あれは合理的ではない。少なくとも、水利権の調査には関係のない一言だ。


玄関の戸を閉めた。蝶番がまた鳴った。


「アンナ、お茶を淹れ直してくれる?」


「はい」


台所に向かうアンナの後ろ姿を見ながら、私はテーブルの端に残ったパンを手に取った。冷たくなっている。かじる。固い。


あの侯爵、パンが見えていただろうか。見えていたとしても、何も言わなかった。そういう人なのかもしれない。余計なことを言わない人。


窓の外はもう暗い。遠くで鐘が鳴っている。


淹れ直した茶を飲みながら、今日起きたことを整理した。


純潔証明書。取得済み。

元夫側の弁護人。焦っている。

証人。アンナが立つ。

隣領の侯爵。法律に詳しい。味方、かもしれない。


かもしれない、にしておく。信じるのは、もう少し先でいい。七年かけて学んだのだ。人を信じるには、時間がいる。


でも、あの目の色は、七年前に見たのと同じだった。



馬の背で、ヴォルフガングは息を吐いた。


秋の夜気が肺に冷たい。王都の外れから自領まで、馬で半日。今夜は途中の宿を取ることになる。


水利権の調査。嘘ではない。グラーフ家の放漫経営でライナ河の上流施設が荒廃し、下流の農地に被害が出ているのは事実だ。その調査の過程でグラーフ家の離縁訴訟を知ったのも本当だ。


だが、助言を申し出る必要があったかと言われれば──なかった。


水利権の問題は、訴訟の結果を待たなくても別の手段で対処できた。


あの女が、自分の訴訟を一人で戦おうとしていると知って。気がついたら、馬を王都に向けていた。


「……何をやっている、俺は」


手綱を握る指に力が入った。


十年前に妻を亡くしてから、他人の問題に首を突っ込む性分ではなくなったはずだ。自分の領地を守ることだけを考えて、十年。


それなのに。


あの女──リーナ殿は、純潔証明を「本日、発行されました」と、事実だけを述べるように言った。七年間の屈辱を、声を震わせもせず。


テーブルの端に固いパンが残っていた。片づける暇もなく客を迎えたのだろう。借家は狭く、家具は安い。侯爵夫人だった女の暮らしとは思えなかった。


それでも、あの目は澄んでいた。


怒りでも、悲しみでも、諦めでもない。七年かけて何かを積み上げてきた人間の目だ。


「……この女は、何者だ」


馬が首を振った。答えは出ない。


夜道を、一人で帰る。

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