第1話 解放の署名
『婚姻解消申出書。
侯爵家グラーフ当主エーリヒ・フォン・グラーフの名において、妻リーナとの婚姻を解消したく申し出る。
事由──子を成す見込みなきため。』
届いた封書は、思ったより薄かった。
私はそれを窓際の机で開いた。封蝋はグラーフ家の紋章、銀の鷲。押し方が少し歪んでいる。たぶんエーリヒ様ではなく、お義母様が押したのだろう。あの方は力を入れすぎる癖がある。
文面に目を通す。
子を成す見込みなきため。
七年間、一度も私の部屋の扉を叩かなかった人が、よくもまあ、こんな文言を選んだものだ。
笑いが込み上げてきた。声には出さない。口の端だけが上がる。机の上の冷めた茶に映った自分の顔が、少しだけ歪んでいた。
「リーナ様」
背後でアンナの声がした。私の侍女は、扉の前で手を握り締めていた。
「……来ましたか」
私はそう言って、申出書を机に置いた。
アンナは目を伏せた。
「はい。先ほど、お義母様の侍女が持ってまいりました。リーナ様に直接渡せと」
直接渡せ。
お義母様らしい。使用人に持たせることで、私の最後の体面すら奪うつもりだったのだろう。まあ、いい。体面なんてものは、この七年でとっくに擦り切れている。
私は立ち上がって、窓を閉めた。秋の風が思ったより冷たくなっていて、カーテンの裾が少し湿っていた。洗濯が間に合わなかったのは、ここしばらく私に割り当てられる使用人が減ったせいだ。
嫌がらせとしてはずいぶん地味だった。でも、地味な嫌がらせほど効く。それは七年かけて学んだことのひとつだ。
結婚したのは二十一の春だった。
ブランシェ子爵家の長女として、侯爵家への嫁入りは破格の縁談と言われた。祖母の遺産を含めた持参金は金貨三千枚。子爵家にしては異例の額だった。
その全てが、いまはもうない。
お義母様──イレーネ・フォン・グラーフが帳簿を握り、使途不明金として処理した。最初の二年で。残りの五年は、その帳簿の辻褄を合わせるために私の持参金以外の領地収入にも手をつけた。
知っている。全部。
だって私は前世で法律事務所に十年勤めた人間だ。帳簿のごまかしは、見ればわかる。
結婚三年目の秋、エーリヒ様が愛人を作ったことも知っている。クラーラ・フォン・ベルク。男爵令嬢。柔らかい巻き毛と、よく潤んだ目をした女性だ。彼女の存在は、社交界では公然の秘密だった。私にだけ、誰も教えなかった。
いや、正確には、教えなくてよいと判断されたのだ。
石女の嫁に、夫の愛人のことなど教えてどうする。
石女。
その言葉を最初に使ったのはお義母様だ。結婚二年目の冬、朝食の席で。エーリヒ様は黙ってパンを千切っていた。否定もしなかった。
白い結婚。
一度も夫婦としての営みがないまま、七年。子ができるはずもない。石女と呼ばれる筋合いもない。でもそれを証明する手段を、当時の私はまだ持っていなかった。
だから待った。
帳簿を見る権限は侯爵夫人にはある。お義母様はそれを知っていたが、「どうせ数字など読めまい」と侮っていた。私は侮られたまま、使途不明金の頁を一枚ずつ、管理保管の名目で抜き出した。七年間で十二枚。慎重に、少しずつ。
夫の不貞についても記録をつけた。日付、場所、同席者。アンナが見たもの、私が気づいたこと。昔からの癖で、何でもメモを取る。その癖が役に立つ日が来るとは思わなかった。
ずっと、離縁申出書を待っていた。
この国の法では、婚姻中に配偶者が一方的に訴訟を起こすことはできない。離縁を申し出る側が、まず書面を相手に送る。相手がそれを受け取って初めて、訴訟の道が開く。
七年間、私が動けなかった理由はそれだ。
エーリヒ様から離縁を切り出してくれるのを、ずっと待っていた。
思い出すことがある。
結婚四年目の冬の夜会で、見知らぬ侯爵がこちらを見ていた。
会場の隅、柱の陰に立っていた大柄な男だった。軍服を着ていたから武官だろう。顔はよく覚えていない。ただ、暗い灰色の目がじっとこちらを向いていて、視線が合いそうになった瞬間に逸らされた。
あの視線の意味を、当時の私は考えなかった。
「アンナ」
私は書棚に向かった。
下から二段目の、背表紙が日に焼けた法律書。その裏に、木箱がある。
箱を引き出す。蓋を開ける。中身は三つ。
帳簿原本の頁が十二枚。使途不明金に関わる部分だけを、管理保管の名目で抜き出したもの。お義母様の筆跡がびっしりと並んでいる。
不貞の記録帳。日付、場所、同席者。アンナの証言メモを含む。
婚姻契約書の写し。第十四条に不貞時の慰謝料条項がある。エーリヒ様の父上──先代侯爵が署名した時、お義母様は「形式的なものだ」と笑っていた。
アンナが私の隣に立った。彼女の手がわずかに震えていた。
「お嬢様の七年間」
アンナはそう言いかけて、声を詰まらせた。
「……私は、ずっと見ていました」
お嬢様。アンナは私をそう呼ばない。いつもリーナ様だ。今、口をついて出たのは──たぶん、最初に私に仕え始めた頃の呼び方だ。結婚翌年の春、お義母様に解雇されかけたアンナを、私が引き留めた。あの頃はまだ、侯爵夫人の言葉に少しだけ力があった。
「あなたがいたから耐えられた」
私はそう返した。本音だった。
アンナは唇を噛んで、鼻を啜った。泣くのを堪えている顔だった。私は泣かなかった。泣く段階はとっくに過ぎている。
代わりに、木箱の中の帳簿の頁を指でなぞった。お義母様の几帳面な字。数字の並びに、わずかな震え。金貨の額が大きくなるほど字が小さくなる癖がある。ごまかしている自覚はあるのだ。
支度に時間はかからなかった。
離縁申出書に受領の署名をする。ペンを取る前に、一度だけ文面を読み直した。
子を成す見込みなきため。
子を成す見込みなきため、か。
インクをつける。署名する。日付を入れる。手が震えなかったのは、七年間この日を待っていたからだ。
署名を終えた申出書を折りたたみ、封筒に戻す。
アンナに目配せをした。アンナが頷く。
私は木箱を抱えて、応接間に向かった。
お義母様は応接間の長椅子に座っていた。
銀の髪を高く結い上げ、黒い絹のドレスを着ている。喪服のような色だが、喪に服しているわけではない。威圧のための黒だ。
テーブルの上に茶器が二つ。ただし、私の分には茶が注がれていない。空の杯だけが置いてある。七年間ずっとこうだった。
「署名は済みましたか」
お義母様の声は、いつも通り平坦だった。感情を見せない人だ。ただし、それは意志の強さではなく、他人の感情に興味がないだけだと、七年かけて気づいた。
「ええ、お義母様」
私は申出書の入った封筒を差し出した。
お義母様の細い指がそれを受け取る。封を確認し、小さく頷いた。もう済んだとでも言いたげな顔だった。
私は空の茶杯を見下ろした。
「受領の署名は致しましたわ」
お義母様が立ち上がりかけた動きが止まった。
「ただし」
私は木箱を抱えたまま、背筋を伸ばした。
「同意の署名ではございませんの。受け取ったという事実の確認です」
お義母様の眉が動いた。
「──何を言って」
「貴族院に、正式な申立をさせていただきます」
空気が変わった。
応接間の暖炉で薪が崩れる音がした。お義母様の指が、封筒の角を握り潰していた。
「……貴族院?」
「ええ」
私は微笑んだ。七年間、一度も見せなかった笑顔だったと思う。
「不貞、白紙婚、そして横領。三点について、正式に申し立てます」
お義母様の顔から表情が消えた。それは怒りではなく、理解が追いつかない時の顔だった。この七年間、一度も見たことがない顔。
「七年分の帳簿」
私は木箱を少しだけ持ち上げた。
「持ち出してございます」
沈黙が落ちた。
暖炉の薪がまた崩れた。窓の外で、庭師が落ち葉を掃く音がしていた。季節は秋。侯爵邸の庭の楓が赤く染まる頃だ。
七年前も、この庭の楓は赤かった。
私はお義母様に背を向けた。振り返らなかった。木箱は思ったより軽い。七年分の証拠が詰まっているのに、不思議なほど軽かった。
廊下に出ると、アンナが待っていた。
「行きましょう」
私はそう言った。
アンナが荷物を受け取ろうとしたが、首を振った。これは私が持つ。
侯爵邸の長い廊下を歩く。もうここに戻ることはないだろう。壁に掛かった肖像画、磨かれた燭台、すり減った絨毯。七年間見てきた景色が、一歩ごとに遠ざかっていく。
不思議と寂しくはなかった。
玄関の扉を使用人が開けた。秋の冷たい空気が頬を打つ。
馬車が待っている。実家──ブランシェ子爵家から迎えが来ていた。アンナが手配していたのだ。いつの間に。
「アンナ」
「はい」
「ありがとう」
アンナは何も言わなかった。ただ、私の後ろに続いた。
馬車に乗り込む。扉が閉まる。動き出す。
窓から侯爵邸が小さくなっていくのを、私は見なかった。代わりに膝の上の木箱を見下ろした。
蓋の角が少し欠けている。書棚の裏に七年間押し込んでいたせいだ。
七年分の帳簿。
不貞の記録。
婚姻契約書の写し。
これが私の七年間だ。
馬車が石畳の上で跳ねた。木箱の中で紙が擦れる音がした。
私はその音を聞きながら、目を閉じた。
──さあ、始めましょう。




