氷の狼が門を叩く
九日目の昼過ぎ、ヴェルネ公爵邸の門前に、旗を上げた馬車が停まりました。
旗章は、銀の狼。ガルデニア公国軍務卿旗でございます。
門番が仰天して駆け込んでまいりました。無理もありません。八年前まで、この旗は敵旗でございました。
「お嬢様、いかがいたしましょう。追い返しますか」
「まさか」
わたくしは、書きかけの配水計画を伏せます。
「正式な使節旗を上げております。追い返せば外交問題です。応接室へお通しして。それから、お茶は――」
言いかけて、止まりました。
「お茶を淹れる水が、ないわね」
「……はい」
屋敷の井戸も、いよいよ細ってまいりました。飲用は残っておりますが、客人にふるまう余裕はございません。
「そのままお伝えして。『当家には、客人に出す水がございません。それでもよろしければ』と」
セシルが目を丸くしました。
「そ、そんなことを!」
「それが今のこの国の実情です。隠しても意味がありません」
しばらくして、セシルが戻ってまいりました。
「あの、閣下が」
「なんと」
「『では、こちらから水を持ち込む。荷馬車に二十樽ある。屋敷と、それから西区の広場へ回す』と」
わたくしは、ペンを取り落としました。
――西区の広場。
わたくしが荷車を出している場所です。この方は、王都に入ってから、まっすぐここへ来たのではありません。どこを通り、何を見てきたのか、それだけでわかります。
「……お通しして」
父は、三日前に王宮へ呼ばれたまま、戻っておりません。屋敷でこの旗を迎える者は、わたくしのほかにおりませんでした。
応接室に現れたその方は、思ったより大きく、思ったより静かでした。
背が高く、肩幅が広く、けれど足音がほとんどしませんでした。灰色の外套。飾りのない剣。年の頃は二十代の後半でしょうか。髪は暗い金で、目は――冬の川の色をしておりました。
無表情でした。完全に。
わたくしは、そういう顔を毎朝、鏡で見ております。
「ガルデニア公国軍務卿、テオドール・アシュフォードだ」
低い声でした。
「アデライド・ヴェルネにございます。ヴェルネ公爵の娘でございます。この度は、水のご手配、痛み入ります」
「礼はいらん」
「では、代金をお支払いいたします。二十樽であれば、王都の現在相場で――」
「いらん」
「無償のご厚意は受け取れません。国家間の贈与とみなされ、後日、あらぬ解釈をされます」
その方は、初めてわずかに眉を動かしました。
「……それは、道理だな」
「はい」
「では、一リーヴルでいい」
「二十樽で一リーヴルは、贈与と同じでございます」
「では、いくらなら受け取る」
「王都相場で、四百八十リーヴル」
「一樽二十四リーヴルか」
「はい」
「三日前は、いくらだった」
わたくしは、答えに詰まりました。
「……八リーヴルでございます」
「六日前は」
「二リーヴル」
その方は、うなずきました。
「では、四百八十は相場ではない。渇きの値だ。私はこの国の渇きで儲けに来たわけでも、施しに来たわけでもない。――高すぎる」
「値切られるのですか」
「ガルデニアの相場では、二十樽で四十リーヴルだ。私はその値で仕入れ、その値で売る。運び賃はいらん。もともと北へ動く輜重に載せただけだ。貴国の水が六日で十二倍になったのは、貴国の事情だろう」
わたくしは、少し、言葉に詰まりました。
――どちらでもない値を出すために、この方はこちらの平時価格を先に調べておいでです。
「……ひとつ、確かめさせてください。四十リーヴルで、閣下は損をなさいますか」
「一銭もしない」
「儲けは」
「一銭もない」
でしたら、贈与ではございません。
贈与とは、片方が損をして、もう片方が得をする取引のことでございます。どちらも動かないのであれば、後日どのように解釈されようと、動かした証拠が出てまいりません。
「四十リーヴル、お支払いいたします」
わたくしは、頭を下げました。
「それと、覚書に一行加えさせてください。『本取引はガルデニア公国の国内平時価格による。いずれの側にも利益および損失を生じない』」
「――書け」
短い返事でした。
その方は、椅子に座りません。立ったまま、こう言いました。
「本題に入る」
「どうぞ」
「ヴァルモア王国軍は南へ動いている。矛先は、自国の公爵領だ。国境の砦は、こちらに背を見せる。――私の手元には、三日でこの王都を見下ろせる兵力がある」
セシルの、息を呑む音がいたしました。
わたくしは、椅子から立ち上がりました。
「――お聞きします。閣下は、宣戦の通告にいらしたのですか」
「いや」
「では」
「軍は退かせた。第三水門の二十騎は私の部隊ではない。出した隊は四日前に特定し、隊長は軍法会議にかけた」
わたくしは、しばらく答えられませんでした。
この方は、こちらの水位観測所の報告に何が書かれていたかを、先に潰しにおいでです。問われる前に、こちらが最も恐れている一行から片づけておいでになりました。
「――それと、昨日、南街道で貴女の早馬と行き違った。追わせなかった」
「……四度書き直して、ようやく出したものでございます」
「そうか」
「お読みになっていないのですか」
「読んでいない。読んでから来たのでは、私が何をしに来たのかが濁る。明日読む」
交渉の順序として、正しゅうございます。
――正しすぎて、わたくしには読めませんでした。
「……なぜでございます」
「後退させた理由か」
「はい。四百年に一度の好機と、ご部下は申し上げたはずです」
「言った」
「では、なぜ」
軍務卿は、しばらく黙っております。
それから、外套の内側に右手を差し入れました。
わたくしは、身構えました。武器かと思ったのです。
取り出されたのは、一枚の紙でした。
黄ばんで、繊維がほぐれて、折り目が透けている紙。
「これを、返しに来たのではない」
その方は、それを両手で持っておりました。剣を持つ手つきとは、まるで違いました。
「見せに来た」
わたくしは、その紙を見ました。
最初に目に入ったのは、文字ではなく、紙そのものの状態でした。
八年。
毎日持ち歩けば、紙はこうなります。折り目の繊維がほぐれ、光にかざせば透けます。角は丸くなり、表面には手の脂が染みております。何度も濡れて、何度も乾かした跡がございます。
わたくしは、書類を扱う人間でございます。紙を見れば、それがどう扱われてきたかがわかります。
これは――しまい込まれていた紙ではありません。
持ち歩かれていた紙です。
子どもの字でした。
――『たたかいをやめること。りようこくのぐんは、ヴァレのをかから、それぞれとおまいるさがること』
綴りを、二つ間違えております。
八年前のわたくしが、直させてもらえなかった二つでございます。あの朝、腹ばいで書いたきり、誰にも見せずに渡してしまいましたので。
――三日前に燃やした手紙も、二か所でした。
あちらは王太子の手。こちらは十歳のわたくしの手。同じ数だと気づいてしまって、わたくしは、ひどく居心地の悪い思いをいたしました。
そして、下に、二つの署名。
わたくしの、十歳の署名。
その隣に――テオドール・アシュフォード。
息が、止まりました。
「八年前だ」
低い声でございました。
「ヴァレの丘で、白旗を持って歩いてきた娘がいた。十歳だった。彼女は地面に腹ばいになって、これを書いた」
「……」
「私はその日、部隊の三分の二を失っていた。翌朝、残りの六百で突撃する予定だった。そうすれば全滅していた。私も、向かいの丘の千八百人も」
わたくしは、動けませんでした。
覚えて、おりません。
いえ。覚えては、おります。丘には行きました。父に『行け』と言われて行きました。紙も書きました。そういう記録が、頭のなかにございます。
けれど、相手の顔を、わたくしは一度も見ておりませんでした。
見なかったのではありません。見る、という発想がなかったのです。
わたくしにとってあれは、署名を二つ集める作業でしたから。
「アデライド・ヴェルネ」
その方が、名を呼びました。
「王太子は、あなたに心がないと言ったそうだな」
わたくしは、うなずきました。
「その通りでございます」
「そうか」
アシュフォード閣下は、紙を丁寧に折り、外套の内側に戻しました。
そして、片膝を折りました。
軍務卿が。旗を上げた正式な使節が。他国の公爵令嬢の前で。
セシルが、悲鳴を上げかけて、両手で口を押さえました。
「私は八年、この紙を持って歩いた」
「閣下……」
「四つの戦役に出た。負けなかった。部下は私を氷の狼と呼ぶ。感情がないからだそうだ」
その目が、わたくしを見上げておりました。
「私は、心のない人間が、どうやって二千四百人を止めるのかを知っている」
わたくしの右手が、震えはじめました。
夜会の晩から、何度も震えたこの手が、今度は、どうしても止まりませんでした。
「アデライド・ヴェルネ。あなたを、国ごと買いに来た」
(第十話へつづく)




