八年前の一枚
わたくしは、しばらく言葉が出ませんでした。
こういうとき、どう返すのが正しいのか。
いちばん近い引き出しを開けました。
――交渉。
「閣下。お立ちください」
「断る」
「膝を折ったまま外交交渉をなさる方は、四百年の記録に一人もいらっしゃいません」
「では、私が一人目だ」
わたくしは、息を吸いました。
「……『国ごと買う』とは、どういう意味でございましょう」
その方は、膝を折ったまま、答えました。
「言葉どおりだ。南部三領を、ガルデニア公国が買う。相場の三倍を金で払う。ただし買うのは土地の宗主権だけだ。水利権はヴェルネ家に残す。宗主はガルデニア、権利はヴェルネ。そして、あなたが私に嫁ぐ」
「……」
「ヴァルモア王国は、水源地の外側を隣国に囲われる。あの国の軍は、二度と南部三領に入れん。入れば我が国への侵攻になるからだ。王家はヴェルネ家に手を出せない。あなたは、二度と誰にも駒として使われない」
わたくしは、机の端に手をつきました。
頭のなかで、条文が組み上がっていきます。
――宗主権の移転。水利権の分離保持。婚姻による人的保証。三重の構造。
完璧です。
完璧すぎます。
「閣下。ひとつだけ、確かめさせてください」
「言え」
「この案で、ガルデニアは南部三領の水を、一滴も手に入れません」
「入れん」
「王都へ流すか止めるかを決めるのは、今日と同じく、ヴェルネ家です」
「そうだ」
「――では、あなたの国は何を買うのですか」
「あの国が二度と南へ攻めてこない、という状態だ」
低い、平らな声でございます。
「四百年、我が国はあの丘のために焼かれてきた。土地でも水でもない。焼かれないという一点を買う」
「閣下。もうひとつ」
「言え」
「南部三領の宗主は、ヴァルモア王家でございます。ヴェルネ家に、売る資格がございません」
「知っている。売らせるのだ」
わたくしは、顔を上げました。
「あの国は、水がなければ二月で王都を失う。水を戻す条件として、南部三領の宗主をガルデニアへ移す条約に署名させる。金は王家へ払う。あなたの家には一銭も入らん」
「……王家が拒めば」
「渇いたままだ。どちらにしても、あの国は署名する」
冷たい話でございます。
けれど、わたくしが夜会の晩から組み立ててきたものと、骨組みがまったく同じでございました。
「閣下」
「なんだ」
「これは、あなたがお考えになったのですか」
「いや」
「では」
「馬車の中で、うちの法務官が半刻で書いた。私は『彼女が二度と道具にならない形にしろ』としか言っていない」
わたくしは、目を伏せました。
「……不利でございます」
「何がだ」
「ガルデニアにとって、まるで割に合いません。相場の三倍を払って、水は一滴も手に入らない。得るものは名義だけです。今なら、兵を動かせば無償で手に入るものを」
「そうだな」
「なぜ」
「言っただろう」
軍務卿は、ようやく立ち上がりました。
思ったより、ずっと背が高うございます。見上げなければ、目が合いません。
「八年、この紙を持って歩いた」
「……それは、恩義でございますか」
「違う」
「では、義務」
「違う」
「情でしたら、なおのことお断りいたします。わたくしには、返せるものがございませんので」
「返せるもの」
「はい。わたくしが持っているものは、すべて誰かに与えられたものでございます。名も、教育も、この領地も。自分で選んで手に入れたものが、ひとつもありません」
わたくしは、机の上で指を組みました。
「与えられたものしか持たない人間は、返礼ができません。返したところで、それは元の持ち主のものを回しているだけです」
自分でも、驚くほど平坦な声が出ました。
いつもの声です。夜会でも、この声で『承知いたしました』と申し上げました。
「アデライド・ヴェルネ」
「はい」
「あなたは今、私を試したな」
わたくしは、顔を上げました。
「……なんのことでしょう」
「恩義か、義務か、情か。三つ並べて、どれを選んでも断れるように並べた。交渉の型だ。うまい」
心臓が、跳ねました。
「私はどれも選ばん」
「では、何を」
「損得だ」
その方は、机の上に手をつきました。指の節に、古い傷がいくつも見えます。
「ガルデニアは、八年前の戦で北部の三分の一を焼かれた。復興が終わっていない。今この国を攻めれば勝てる。勝ったあと、二十年間、占領地の反乱を鎮圧し続けることになる。人が死ぬ。金が消える。私の国は、もう一度焼ける」
冬の川の色の目が、まっすぐこちらを向いておりました。
「――だが、南部三領を買い、あなたを妻に迎えれば、一兵も死なずに国境が動く。あの丘の北側が、我が国の内側になる。ヴァルモア王国は二度とこちらへ牙を剥けない。私の国は焼けない。金は、二十年分の戦費より安い」
そこで一度、言葉が切れます。
「これが、公国軍務卿としての説明だ」
「……はい」
「ここまでは、議会に出す文書に書ける」
「はい」
「ここからは、書けない」
その方が、少しだけ、身を屈めました。
「私は、あなたに会いたかった」
わたくしは、動けませんでした。
「八年前、私は二十歳で、死ぬはずだった。生きて帰って、公国の宮廷に立って、五年で軍務卿になった。その間ずっと、あの丘のことを考えていた。あの朝、なぜ十歳の子どもが一人で歩いてきたのか。誰が、その子をそこへ行かせたのかを」
わたくしの、右手が。
止まりません。
「八年で、わかったことは多くない。年に一度、あなたの名が公文書に出る。停戦の更新覚書だ。署名の字が、少しずつ大人になっていく。私が知っているのは、それだけだ」
「……」
「残りは、今日、この目で見た。西区の広場に紋章入りの荷車が二十台。並んでいるのは女と子どもだ。荷車の数と樽の数を数えれば、誰がどこまで計算して、どこを削ったかはわかる。――あなたは削れるものを全部削って、最後まで王宮を一台も勘定に入れなかった」
わたくしは、答えられませんでした。
「それを見たうえで言う。あの男は『心がない』と言ったそうだな」
その方の声が、初めて、わずかに低くなります。
「私は、剣を持つ人間だ。人を殺したことがある。自分の底は、とうに見たつもりでいた」
「閣下」
「あの言葉を聞いたとき、私は生まれて初めて、剣以外の相手に殺意を持った」
部屋が、静かになりました。
セシルは、壁際で、両手で口を押さえたまま泣いておりました。
震える右手を、左手で押さえます。
「……閣下」
「なんだ」
「わたくしは、あなたの顔を、覚えておりません」
言ってしまいました。
言わなくてもよいことでした。交渉としては、最悪の一手でございます。
わたくしは、頭を下げました。
「八年間、あなたが持ち歩いてくださったものを、わたくしは、一日も思い出しませんでした」
沈黙が、長うございます。
わたくしは、頭を下げたまま、その沈黙を数えました。四十七、まで数えました。
それから、上から声が降ってきました。
「――ああ、よかった」
伏せていた顔を、起こします。
その方は、笑っておりませんでした。表情は、最初から髪一筋ほども動いておりません。
けれど、目だけが。
冬の川の色をした目だけが、少しだけ、溶けておりました。
「もし覚えていると言われたら、私は今日ここへ来た理由を疑うところだった」
「……理由」
「私が八年間覚えていたのは、あなたが私を覚えていてくれたからではない。そんな見返りは最初からなかった。だから今日、こうして立っていられる」
灰色の外套の内側に、右手が当てられました。
「アデライド・ヴェルネ」
「はい」
「私を、覚えてくれ」
――そのとき、わたくしの目から、水が落ちました。
自分でも、何が起きたのかわかりませんでした。
王都中が渇いているというのに。井戸が濁り、王宮の貯水槽が底を見せたというのに。わたくしの頬を、水が伝って、机の上の書類に落ちて、インクを滲ませました。
「……あら」
わたくしは、自分の頬に触れました。
「セシル」
「は、はい!」
「わたくし、泣いているようです」
「はい……! はい、お嬢様……!」
「おかしいわね。目的も、必要性も、まったくないのに」
三日前、わたくしはこの子に言いました。泣く分は、三つのときに全部使い切ったのだ、と。
あの計算も、間違っていたようです。
その方は、何も言いませんでした。
ただ、手巾を出されました。飾りのない、灰色の、丈夫そうな布でございます。
手渡しては、こられませんでした。机の上に置いて、指を引かれました。わたくしが取れる場所に、わたくしの手が届かない距離のまま。
わたくしは、それを握りしめました。
――返さなければ。
返すまでは、この方は帰れません。
そう思ったことが、この十年で初めての、目的も必要性もない計算でございました。
(第十一話へつづく)




