わたくしの返答
手巾を返せるようになるまで、ずいぶん長くかかりました。
その間、テオドール・アシュフォード閣下は一度も座らず、一度も急かさず、ただ窓の外を見ておいででした。
わたくしは、ようやく息を整えて、椅子に座り直しました。
「――お待たせいたしました」
「構わん」
「ご提案について、お答えいたします」
「聞こう」
机の上のインクの滲んだ紙を、そっと脇へ寄せました。
「お受けいたします」
セシルが、また泣きそうな顔をいたしました。
「――先に申し上げておかねばなりません。わたくしに、これを受ける資格はございません。父から預かっているのは、水門管理令に署名する権限だけでございます」
「知っている」
「ご存じで、わたくしに仰ったのですか」
「公爵の署名は、あとでいい」
声の調子は、少しも変わりません。
「私が今日、返事を聞きに来た相手は、公爵ではない」
わたくしは、しばらく答えられませんでした。
「……父の署名を取るところまでを、わたくしの仕事といたします」
閣下は、うなずかれました。それだけです。表情は動きません。ただ、外套の内側に当てていた右手が、ようやく下ろされました。
「ただし」
息を、ひとつ。
「三つ、条件がございます」
「言え」
「ひとつ。南部三領の宗主権の買収価格は、相場の三倍ではなく、相場のままとしてください」
閣下の眉が、動きました。
「高く払うのは我が国だ。金を受け取るのは王家で、あなたの家には一銭も入らん。あなたが止める理由がない」
「ございます」
顔を上げて、閣下を見ます。
「三倍で売った王家は、二十年後に必ずこう言われます。『あの王は、金に目が眩んで国土を売った』と。そう言われた王家は、必ず取り返しに参ります。取り返しに来れば、また戦でございます」
「……」
「相場で売られた土地は、誰にも文句を言われません。買い叩かれてもいない、儲けてもいない。二十年後に蒸し返す材料が、どこにも残らない」
わたくしは、指を組みました。
「わたくしが欲しいのは、安い契約ではございません。揉めない契約でございます」
「……なるほど」
「ふたつ。婚姻の時期は、王都への給水が正常化したのちとしてください」
「それは、いつになる」
「管の詰め直しに二月。組合と王家の取り決めが片づくのに、その先。半年かもしれませんし、三年かもしれません」
「三年、待てと」
「はい」
閣下を、まっすぐ見上げます。
「ヴァルモア王国は、わたくしが渇かせました。契約に従っただけとはいえ、水門を閉じる管理令に署名したのはわたくしです。あの二十万人の喉を放り出して、隣国へ嫁ぐわけには参りません」
閣下は、返事をなさいませんでした。
「――王家は、あなたに何ひとつ返していない」
「はい」
「あなたを八歳で連れ去り、十年こき使い、三百人の前で心がないと言った」
「はい」
「それでも、給水を戻すのか」
「王家には戻しません」
はっきりと、申し上げます。
「民に戻します」
閣下の目が、ほんのわずか、細くなりました。
「王家を通さずに、か」
「はい。南部三領の水は、ヴェルネ家からリュミエール水売組合へ直接売却いたします。組合はすでに、荷車で日に二百四十八樽を王都じゅうへ回しております。器は、この六日でできあがりました」
「水道橋は王家のものだと聞いたが」
「はい。ですから、水道橋の使用料を王家にお支払いいたします。組合が徴収し、ヴェルネ家が王家へ納めます。先日出しました使用停止通告は、その取り決めと引き換えに撤回いたします」
閣下の眉が、わずかに上がります。
「――逆にしたな」
「はい。四百年、王家が水の仲介料を取っておりました。これからは、王家が橋の賃料を受け取る側になります。金額は、王家の手取りが変わらぬよう設計いたします」
「――王家に水を売るのは断ったと聞いたが」
「売りません。売れば更新の時期が来て、そのたびに王家はヴェルネの娘を欲しがります。橋の賃料には、更新も、娘も要りません」
閣下が、こちらを見ておられました。
「四百年、この家は水で縛られてまいりました。縛る側に回るのではなく、縄そのものを短くいたします」
「王家が、橋を使わせぬと言えば」
「そのときは、荷車で運びます。今と同じでございます。届くのは病院と共同井戸だけ。市中の九割は、渇いたままでございます」
わたくしは、地図の上に指を置きました。
「ただ――今度は、水はあるのに橋を渡らせてもらえないのだと、王都の民が知ります。渇きの理由が、婚約破棄から橋の賃料に変わります」
「……民は、どちらに怒る」
「賃料を惜しんだほうに」
返事は、すぐには参りません。
わたくしは、先を続けました。
「王家の収入は、消えません。立場だけが入れ替わります。四百年、水を握っていた側が、今日から橋を貸すだけの側になる。それだけのことでございます」
「――待て」
閣下が、初めてこちらの言葉を遮られました。
「市中に水が戻れば、あの国は渇かん。渇かなければ、宗主権の条約に署名する理由が消える。あなたは今、私の梃子を自分で外した」
まいりました、と思いました。
この方は、こちらの三つの条件を、条件ごとに損得へ換算しながら聞いておいでです。
「外しておりません。当て先を変えるだけでございます」
「言え」
「市中の水は、組合が買います。王宮の水は、わたくしから借りるものになります。分けてしまえば、渇いているのは王家だけです」
「……王宮だけが渇く」
「はい。しかも王宮の管は、詰め直しに二月かかります。二月のあいだ、この国の王は、市中の水売りから桶で水を買うことになります」
冬の川の色をした目が、ゆっくりと一度だけ瞬きました。
「――二十万人を渇かせるより、効くな」
「二十万人は、渇いても署名いたしません。署名する方は、王宮にお一人だけでございます」
閣下が、ゆっくりと息を吐かれました。
そして、初めて――ほんの少しだけ、口の端を動かされました。
それが笑みなのだと気づくまでに、ずいぶんかかったように思います。
「あなたは、あの国を潰す気か」
「まさか」
わたくしは、首を横に振りました。
「殺しはいたしません。ただ――もう二度と、誰かの喉を握って威張れないようにするだけでございます」
「三つめは」
「はい」
わたくしは、少し、言い淀みました。
これが、いちばん申し上げにくいものでした。
「閣下。……三つめは、条件ではございません。お願いでございます」
「言え」
「わたくしは、たぶん、あなたを好きにはなれません」
部屋の空気が、止まりました。
壁際で、セシルが小さく『お嬢様』と申しました。
「なりかたを、知らないのです」
わたくしは、膝の上で両手を組みました。
「八歳から今日まで、そういう科目がございませんでした。殿下のことも、十年間、好きだったのか嫌いだったのか、わたくしにはわかりません。思い出そうとしても、決裁の記憶しか出てまいりません」
「……」
「ですから、閣下。もし、あなたがわたくしに愛情を期待しておられるのでしたら、この縁談はお受けするべきではございません。八年待たれた方に、返せるものがないというのは、あまりに――」
最後まで、言えませんでした。
閣下が、机の向こうから、手を伸ばされたからです。
その手は、わたくしに触れませんでした。
わたくしの手の、すぐ手前で止まりました。指が触れる、ほんのわずか手前で。
「アデライド」
初めて、名だけで呼ばれました。
「私は八年、返事を待ったのではない」
「……」
「返事は、八年前にもらっている」
閣下は、外套の内側から、また、あの紙をお取り出しになりました。
子どもの字。綴りの間違った、二か所。
――『ほねは、ほりかえさないこと』
「これだ」
閣下は、その一行を指でなぞられました。
「十歳が書いた」
「……はい」
「二十年先の恨みを、十歳が、腹ばいになって止めた」
閣下は、紙をたたまれました。
「私に返せるものがない、と言ったな」
「はい」
「私はもう、もらっている」
わたくしは、口を開いて、何も言えませんでした。
「好きにならなくていい。なりかたを知らないなら、それでいい。私も知らん」
「閣下」
「あなたと同じだ」
閣下は、手を引かれました。
触れないまま、最後まで。
「同じ人間が二人並んでいれば、そのうち、どちらかが先に覚えるだろう」
――その日の夕方。
閣下の馬車が門を出て行くのを、わたくしは二階の窓から見ておりました。
二十樽の水は、半分が屋敷に、半分が西区の広場に届けられたそうです。十樽では、明日の朝の一巡ぶんにもなりません。
それでも、見たことのない旗を掲げた荷馬車が広場に入ってきたとき、はじめは人が退き、それから誰かが手を叩いたと、セシルが報告してくれました。
「お嬢様」
「なに」
「あの、失礼を承知で申し上げますが」
「どうぞ」
「あの方、お嬢様のことをずっと見ておいででした。膝を折ってから、お帰りになるまで、ずっと」
「……そう」
「お嬢様は、気づいておられましたか」
わたくしは、窓硝子に映る自分の顔を見ました。
いつもの顔でした。何も浮かんでおりません。
「セシル」
「はい」
「明日、南部三領へ発ちます。支度を」
「かしこまりました。……あの、ご用向きは」
「水門を、四分の一だけ開けます」
セシルが、目を見開きました。
「え? で、でも、それでは」
「王宮の貯水槽までは届かないわ」
「そんな加減が、できるのですか」
「水門で加減するのは、水の量だけです。仕分けは、分水塔がひとりでにいたします」
机の上の地図を、広げ直します。
「分水塔の、上の口と下の口は」
「上が王宮へ、下が市中の泉と共同井戸へ」
セシルは、すぐに答えました。五年、この地図を運んできた子でございます。
「では、上の口が塔のどこに開いているかは」
「……存じません」
「王宮は丘の上にございます。城とは、そういうものでございますから。分水塔の上の口も、その高さに合わせて作ってございます」
「……あ」
「四分の一の水量では、上の口まで水面が上がりません。下の口だけが濡れます」
セシルの口が、半分開きました。
「四百年前、王家はご自分で、ご自分を高いところへ置かれたのです。水が細ったとき、いちばん後に濡れる場所へ」
地図を、巻きます。
「王家には水が行かず、民にだけ届く。――それがどう見えるか、王都の民が判断してくれます」
「……お嬢様。それは」
「ええ。とても意地の悪いことをしています」
わたくしは、自分でそう言って、少しだけ、驚きました。
自覚があるのだ、と気づいたからです。以前のわたくしなら、これはただの「最適解」でした。
「セシル」
「はい」
「わたくし、少し変わったかしら」
セシルは、涙ぐみながら、力いっぱいうなずきました。
――その夜。
王宮では、ひとつの動きがございました。
国王陛下の名において、緊急の勅令が発せられたのです。
わたくしがそれを知ったのは、翌朝。南部三領へ向かう支度を終え、外套を羽織ったところへ、門番が転がり込んでまいりました。
宰相バルテルミー閣下からの早馬でございます。封も押していない、走り書きでした。
『嬢
今すぐ屋敷を出よ。南街道は使うな。
陛下は、ヴェルネ公爵領の一時接収を決定された。
名目は『国家非常事態における水源地の保全』。
軍が動いている。目的地は、南部三領ではない。
北の丘の、あなたの屋敷だ。
公爵閣下は四日前から王宮に留め置かれておる。お帰しにならぬ』
わたくしは、その紙を二度読みました。
四日前から、と書いてございます。
あの晩、羽根ペンをこちらへ寄越して『よくやった』と仰った人が、四日、王宮の中においでです。
――十年ぶりに名を呼ばれて、四日でございますか。
その一行だけが、なぜか読みにくうございました。
窓へ寄りました。
北の丘の下、王都から続く街道に、朝靄を裂いて、細長い列が上がってまいります。
旗が見えました。
――ヴァルモア王国近衛。
――十日目でございます。
あの晩、父に言いかけて、遮られた日でした。人が死にはじめる日だと。
わたくしは、外套の襟を留めました。
右手は、震えておりませんでした。
「セシル」
「は、はい」
「馬車の紋章を外して。それから、屋敷じゅうの水瓶を空にしてちょうだい」
「――お嬢様?」
「四百年、この家の水を飲みに来た方々です」
わたくしは、扉に手をかけました。
「一滴も、お出しいたしません」
(第十二話・第二章へつづく)




