水瓶を空にしてちょうだい
近衛の列が北の丘を上がりきるまでに、半刻はかかります。
丘の道は三度折れております。四百年前に、そう作られました。攻める側が三度、隊列を組み直さねばならないように。四百年、一度も使われたことのない工夫でございます。
その半刻で、片づけなければならないことが四つございました。
ひとつ。人を出すこと。
わたくしは玄関の広間に使用人を集めました。二十三人。四百年ぶんの屋敷に、それだけしか残っておりません。八歳でわたくしが王宮へ上がってから、この家は人を減らし続けてまいりました。
「みなさん、今日で暇を出します」
誰も、声を上げませんでした。丘を上がってくる旗は、窓から見えております。
「三月ぶんの給金を先にお渡しします。厨房の裏に紙包みを置きました。ご自分の名の書いてあるものをお取りください」
「お嬢様」
執事のクレマンが、一歩前に出ました。六十二でございます。父の代からこの屋敷におります。
「わたくしは、残ります」
「残っていただいても、水がございません」
「――は」
「近衛は屋敷を取りに参ります。取ったあと、必ず人を尋ねます。この家の井戸はどこか。導水路はどこか。公爵令嬢はどこへ行ったか」
わたくしは、広間を見渡しました。
「答えられる方が屋敷にいれば、その方は答えることになります。答えなければ、答えるまで訊かれます。わたくしは、そういう場に人を置いてまいりません」
クレマンの唇が、震えておりました。
「では、せめて、どちらへ向かわれるかだけでも」
「存じません」
わたくしは、そう申し上げました。
「本当に存じませんので、どうぞ、そのままお答えください」
ふたつ。紙を焼くこと。
書斎の暖炉に、使用人名簿と、この十年ぶんの出入り帳を入れました。荷車の手配書、水売組合との覚書、給金の受取控え。誰がこの家で何をしていたかが分かるものは、一枚も残しません。
燃えるまで、思ったより手間がかかります。紙というものは束のままでは燃えません。一冊ずつ、背を割って開いてやらねばなりません。
セシルが、火掻き棒を持って隣にしゃがんでおりました。
「お嬢様。これ、水売組合の覚書ではございませんか」
「そうよ」
「焼いてしまってよろしいのですか。あれがないと、組合が水を売る根拠が」
「組合の控えが向こうにあります。片方あれば足ります。両方あると、こちらの分は取り上げられます」
焼かないものが、一つだけございました。
書斎の奥の金庫を開けて、油紙の包みを取り出します。
婚約契約書の写しでございました。全十二条。四百年間、この世に二通しか存在しないと決められてきたもの。もう一通は王宮の文書庫、地下三層の第七棚にございます。
三通目を作らないと双方が取り決めたのは、写しが増えれば条文が書き換えられるからでございます。
――ということは。
この一通が近衛の手に渡れば、この世の写しは王宮の一通だけになります。地下三層の、王家が鍵を持つ棚に。
第七条は、そのとき、たいへん書き換えやすくなります。
「セシル」
「はい」
「これを、油紙で三重に包んでちょうだい。それから、あなたが持って」
「わ、わたくしがですか。お嬢様がお持ちになったほうが」
「わたくしが捕まったとき、まず調べられるのはわたくしの懐です」
セシルは、包みを両手で受け取って、それから、なぜか自分の胸に強く押しつけました。
「――絶対に、濡らしません」
三つ。井戸でございます。
ヴェルネ公爵邸の井戸は掘り抜きでございます。王都に七軒しかなく、そのうち六軒が市壁の外にございます。この屋敷は、その一軒。だからこそ、断水の十日目にまだ水が出ます。
だからこそ、近衛はここへ来るのです。
中庭の井戸端で、庭師のポールが待っておりました。この人にだけは、事情を話してございます。
「外しましたぜ、お嬢様」
足元に、滑車と、巻き上げの把手と、縄が置かれておりました。麻の縄が三巻き。日に焼けて、白くなっております。
「深さは」
「十八間でございます。この縄がなけりゃ、桶は底に届きません」
「屋敷じゅうの縄は」
「シーツも、洗濯紐も、馬の曳き綱も、いま使う一組を残して全部積みました。厩の革帯まで」
「水瓶は」
「空にして、伏せてございます。庭に撒きました」
わたくしは、井戸を覗きました。
暗うございます。底のほうで、光が小さく揺れております。水は、たっぷりとございました。
「ポール。あなたも今日で暇です」
「ようがす」
「南へは行かないで。西の街道を使いなさい」
老人は、帽子を取って、深く頭を下げました。
――埋めなかったのか、と、あとで問われるかもしれません。
埋めることはできました。石を落とし、土を入れれば、半刻で使えなくなります。二度と使えなくなります。
けれど、この井戸はいずれ誰かのものになります。近衛のものではない誰か。四十年後か、百年後かに、この丘で水を汲む誰かのものに。
縄は、また綯えばよいのです。埋めた井戸は、戻りません。
四つ。出ることでございます。
厩から出したのは、荷馬車でした。屋根も紋章もない、堆肥を運ぶための古い車です。ポールが前の晩のうちに、車体の紋章を削り落としてくれておりました。削り跡には泥を塗ってございます。
積み荷は、麻の縄が三巻きと、空の樽が六つ。
「お嬢様」
セシルが、荷台の縁に手をかけたまま動きません。
「お召し物が」
わたくしは、自分の身なりを見下ろしました。
外套の下は、旅装でございます。金糸はございません。留め具も、鉄の平打ちに替えました。
「足りないかしら」
「靴でございます」
言われて、気がつきました。
旅装の靴です。けれど、底が一度も減っておりません。
「……あなたの靴と替えましょう」
「そ、そんな、恐れ多い!」
「わたくしより、あなたの足のほうが大きいわ。緩いほうが歩けます」
三度目の折れ道を、近衛の先頭が過ぎたのが見えました。
あと、四半刻もございません。
裏門は、厨房の裏手から抜けて、丘の西の斜面に降りております。四百年前に作られた道でございます。攻める側が三度折れねばならない表門と同じ図面に、この一本だけが引いてございました。
馬車の車輪が石畳を離れ、土の道に入りました。
わたくしは、荷台の縁から、屋敷を振り返りました。
八歳まで、あの二階の左から三つめの窓が、わたくしの部屋でございました。窓辺が好きでした。どう好きだったのかは、いまも出てまいりません。
思い出せないまま、たぶん、二度と戻りません。
「セシル」
「はい」
「泣かないで」
「泣いておりません」
「わたくしもよ」
丘の中腹で、こちらへ上がってくる列と、すれ違いました。
鎧の胸に、ヴァルモア王家の紋章。近衛でございます。三十騎ほど。歩兵はその後ろに続いております。
紋章のない荷馬車が一台、堆肥樽を積んで丘を下りていく。それだけのことですから、誰も止めません。
止めないはずでございました。
列の中ほどで、一騎だけが手綱を引きました。
兜の下から、こちらを見ております。
若い男でした。二十四、五でしょうか。近衛の中隊長でございます。肩の房飾りの色で分かります。
わたくしは、荷台の縁で膝を抱えたまま、目を伏せました。土くれを運ぶ小娘が、騎士に見つめられて怯えている。そう見えるように。
そう見えたはずでございます。
馬蹄の音が、遠ざかりました。
息を吐こうとして――やめました。
背中に、まだ視線がございます。
その男は、隊列に戻らずに、道の端で馬を止めたまま、こちらを見送っておりました。
荷馬車が二度目の折れ道を曲がって、丘の陰に入るまで、ずっと。
(第十三話へつづく)




