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婚約破棄をご希望でしたら、契約書の第七条をご確認ください ~王都の水は、わたくしの領地から流れております~  作者: 七条 みなも


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水の来た道を、逆に辿ります

 王都リュミエールは、丸うございません。


 市壁は南北に長い楕円で、北の端に丘がひとつ、南の端に門が三つ。水道橋は市壁の外側を西から南へ回り込んで、南門の脇で壁をくぐります。


 つまり、北の丘から南の中継所まで、市壁に沿って外を半周いたします。四マイル。荷馬車で三刻ほど。


 その道を、わたくしどもは水と逆向きに進んでおりました。


「お嬢様。前」


 セシルが、荷台の前板を指しました。


 道の先に、荷車の列がございます。空車でございました。轅を上げて、樽を伏せて、ぞろぞろと南へ帰っていく。


「組合の車ね」

「ヴェルネの紋章が入っております」

「ええ。わたくしが入れさせました」


 二十六台。いえ――数えると、三十一台ございました。六日目に五台足しましたので、三十一台で日に二百四十八樽。中継所で汲める上限が二百五十樽ですから、その直下でございます。


 わたくしどもの荷馬車は、その列の後ろについて、三十二台目になりました。


 誰も何も申しません。堆肥樽を積んだ紋章のない車が一台混じったところで、それがどうしたという顔をしております。


 ――紛れるというのは、こういうことでございます。


 列に入るのではありません。列の速さに合わせるのです。速すぎても遅すぎても目につきます。


 南門の脇を通りかかったとき、セシルが息を呑みました。


 門の外に、人が並んでおりました。


 三十人ほど。桶と壺を抱えて、市壁の外の泉の前に立っております。


 市壁外の泉はひとつきりで、日に汲めるのは千人分。並んでいる方々は、その千人分に間に合った側でございます。


「お嬢様。あの、」

「見なくていいわ」

「でも」

「見て、覚えて、それで、通り過ぎるの」


 わたくしは、そう申し上げました。


 自分の声が、思ったより硬うございました。


 中継所は、南門から一マイルほど西の窪地にございました。


 石積みの平屋がひとつ。屋根は板葺きで、壁には四百年ぶんの苔が生えております。外から見ると、ただの古い納屋でございます。


 王家の図面に、この建物はございません。


 空車が次々に轅を下ろし、男たちが樽を転がし、水を汲み、また積んでいく。夕の一巡の支度でございます。


 水は、平屋の中ほどの汲み上げ井から上がってまいります。点検坑の、桶を通すための口でございます。梁から下がった滑車が三つ。桶が上下するたびに、木の軋む音が三つぶん重なります。


 その真ん中に、背の低い男が立っておりました。五十がらみ。腕が丸太のようでございます。


 リュミエール水売組合の組合長、マルタンでございました。


「――お嬢様」


 マルタンは、荷馬車から降りたわたくしを見て、それから、道の向こうを見ました。誰も追ってきていないかを、まず確かめる男でございます。


「ご無事で」

「ご迷惑をおかけします」

「近衛が北の丘へ上がったと、二刻前に聞きました」

「早いのね」

「水売りは、王都でいちばん耳が早うございます。市壁の中を毎日二度、端から端まで回っておりますので」


 マルタンは、それから、思い出したように付け加えました。


「そういえば、昨日の夕方、南門から妙な馬車が一台出ていきました」


 わたくしは、顔を上げました。


「妙な、とは」

「旗を上げておりました。銀の狼で。護衛が十二騎ついておりましたな」


 ――九日目の夕方でございます。


 あの方が、わたくしの家の門を出ていかれた、あの時刻。


「どちらへ」

「南街道でございます。街道を上ってきた馬方が、麓の宿場に停まっていたと申しておりました。今朝の話でして」

「今朝、まだ宿場に」

「へい。動いておらんそうで」


 わたくしは、樽の上で指を組みました。


 ――正式な使節でございます。旗を上げて入国した者は、旗を上げたまま出国いたします。途中で止まる理由がございません。


 止まっているということは、待っておいでなのです。


 何を、とは、考えるまでもございませんでした。


 父の署名を取るところまでを、わたくしの仕事といたします。そう申し上げたのは、昨日の昼過ぎでございました。


 マルタンは、樽の一つを蹴って、こちらへ転がしました。腰を下ろせという意味でございます。わたくしは、素直に座りました。


「お伺いします。組合は、これからどうなりますか」

「どうもなりません」

「近衛が中継所を押さえたら」

「押さえられません。ここがどこかを知っている者は、組合の中でも六人だけでございます。荷車引きは、南の窪地で樽を受け取っているとしか知りません」

「六人が、答えたら」


 マルタンは、初めて笑いました。歯が三本欠けておりました。


「お嬢様。この六日で、王都のガキが何人生き延びたとお思いです」


 わたくしは、答えませんでした。


「うちの倅も入っております。九つで。西区の共同井戸に並んで、樽から水をもらった口でございます」


 マルタンは、手の甲で鼻をこすりました。


「答えませんよ。誰も」


 ――こういうものを、わたくしは計算に入れておりませんでした。


「マルタン。ひとつ伺います」

「へい」

「いま、王都で水はいくらで売られていますか」


 男の目が、わずかに動きました。


 都合の悪いことを訊かれた者の目ではございません。訊かれると思っていた者の目でございます。


「一樽、二リーヴルでございます」


 わたくしは、しばらく黙っておりました。


「平時と同じ値でございますね」

「へい」

「九日目の相場は、二十四リーヴルでございます。市壁の外の泉に並んでいる方々は、その値を知っておいでです」

「知っておりますとも」

「では、なぜ二リーヴルなのですか」


 マルタンは、樽の縁を平手で叩きました。


「値を上げりゃあ、うちは十日で組合三代ぶんの金が入ります。倅の代まで遊んで暮らせます」

「はい」

「その代わり、うちの荷車は十年、石を投げられます」


 男は、そう申しました。


「水売りってえのは、渇いてるときにしか要らねえ商売でございます。渇いてるときに何をしたかで、あとの十年が決まる。四百年、この組合はそうやって食ってまいりました」


 ――あの晩、父は申しました。荷車に紋章を入れればすぐに知れ渡る、と。


 その紋章が、いま、値を上げなかった荷車についております。


「マルタン」

「へい」

「ありがとうございます」


 男は、初めて困った顔をいたしました。それから、耳の後ろを乱暴に掻きました。


「……お嬢様。礼を言われるようなことじゃございません。うちは商売をしてるだけでして」

「存じております」

「なら、なぜ」

「言われたことが、たぶん、ないでしょうから」


 マルタンは、返事をいたしませんでした。


 荷車三十一台、日に二百四十八樽。四百九十六リーヴル。持参金十二万と、領の四分の一をあわせて、十月。


 あの晩、父に一年と申し上げました。五台増やしたぶん、二月縮んでおります。


 数はすべて合っておりました。合っていたのは数だけでございます。


 この六人が黙るということを、わたくしはどの欄にも書いておりませんでした。


「マルタン」

「へい」

「点検坑の、人の降りる口を開けてください」


 男の顔から、笑いが消えました。


「……本気でございますか」

「南街道は使えません。宰相閣下からの報せです。近衛は屋敷へ、王国軍は南部三領へ向かっております。地上の道は、南へ行くほど混みます」

「そりゃあ、そうですが」

「水の来た道を、逆に辿ります」


 マルタンは、しばらく黙って、それから中継所の奥へ歩いていきました。


 平屋の一番奥、樽の陰に、四角い鉄の蓋がございました。


 二尺四方。四隅に錆びた輪。上に空樽が三つ積んでございました。


 男が四人がかりで輪に棒を通し、掛け声とともに持ち上げます。


 蓋が、石の縁からずれました。


 ――冷たい空気が、下から上がってまいります。


 夏の午後の空気の中に、その一筋だけが、はっきりと別のものでございました。石と、苔と、それから、水の匂い。


 覗き込みました。


 鉄の梯子が、闇の中へまっすぐに落ちております。底は見えません。


「お嬢様」


 セシルが、わたくしの外套の裾を掴んでおりました。


「その下は、真っ暗でございますよ」

「そうね」

「灯りは」

「マルタン。角灯を三つ」

「四つお持ちください。一つは必ず落とします」


 男は、そう言って背を向けました。


 ――この人は、下に降りたことがあるのです。


「マルタン」


 角灯を受け取りながら、わたくしは訊きました。


「あなたは、いつ降りたのですか」

「十九のときで」


 男の指が、鉄蓋の縁をなぞります。


「親父に連れられて。組合に入る者は、一度だけ下を見せられます。自分が運んでる水がどこから来てるかを、目で見ておけと」

「四百年、そうしてこられたのね」

「へい。もっとも、下まで降りたのは六人だけでございます。あとの者は、蓋を開けて、覗いて、それで終わりで」


 男は、そこで一度、口を閉じました。


「――お嬢様。ひとつ、お願いがございます」

「どうぞ」

「戻ってきてください」


 梯子の一段目に、足をかけたところでございます。


「うちの荷車は、ヴェルネの紋章で走っております。あの紋章が消えたら、市中の連中は明日から誰の水を飲んでるのか分からなくなります。分からなくなった水は、値が上がります。誰も止められません」

「……」

「商売の話でございます。それだけで」


 わたくしは、うなずきました。


 この人は、商売の話しかいたしません。四百年、そうやって食ってきた組合の、いまの組合長でございます。


「善処いたします」

「そういう返事は、お役人が使うやつでございますよ」

「では――戻ります」



(第十四話へつづく)

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