地下三マイル
梯子は、七十二段ございました。
降りながら数えました。数えると怖くなくなるものではございませんが、数えているあいだは、下を見ずに済みます。
底に足がつきます。
石でございました。四百年前の切石が、隙間なく組んでございます。角灯を掲げると、天井は思ったより高うございました。背丈の二倍ほど。左右は五尺。人がひとり、腕を広げれば両側に届きます。
そして、足首まで水がございました。
「……冷たい」
セシルが、小さく申しました。
「水門は閉じております。これは、管の中に残っていた分でしょう」
「十日も経つのに、残るものなのですか」
「三マイルございます。傾きは、一マイルにつき二尺しかつけてございません。急に落とすと、石が削れますので」
わたくしは、天井を見上げます。
「四百年前の方々は、水を急がせないように作りました。だから、十日経っても、まだ底に残っております」
――そのおかげで、七日目まで、市中の泉に細々と水が出ておりました。
それが尽きたのだと、三日前に書面で王宮へ通告いたしました。
その通告の下に、いま、わたくしが立っております。
「行きましょう」
三マイル。歩いて一刻半でございます。
水の中を歩くというのは、思ったより体力を使います。膝から下が、いちいち引き戻される。半マイルも行かないうちに、腿が張ってまいりました。
セシルの靴は、わたくしには少し緩うございました。それでも、底が減っているというのはこういうことなのだと分かりました。石の凹凸が、足の裏に伝わってまいります。
角灯の輪の外は、何も見えません。
前も、後ろも。
「お嬢様」
「なに」
「ひとつ、お伺いしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「先ほど、屋敷の窓を振り返っておいででした」
わたくしは、少し驚きます。
あの一瞬を、この子は見ていたのでございます。
「二階の、左から三つめでございましょう。お嬢様のお部屋でした」
「覚えているの」
「わたくしがこの家に入ったのは五年前でございます。あのお部屋は、ずっと閉めてございました。年に二度、風を通すだけで」
水音が、二人分。石に反響して、四人分に聞こえます。
「クレマンさんが、風通しのたびに窓を全部開けて、しばらく立っておいででした。何をしていらっしゃるのかと伺ったら、『お嬢様がお好きだった景色でございます』と」
わたくしは、足を止めます。
角灯の輪の中に、水面が揺れております。石の目地に沿って、細い波が行ったり来たりしております。
――どう好きだったのかを、わたくしは思い出せません。
そのことを、わたくしは今朝まで、自分ひとりの欠落だと思っておりました。
「セシル」
「はい」
「わたくしは、母の手紙も思い出せませんでした」
「……はい」
「三つのわたくしが、井戸に落ちた仔猫のために半刻、父の書斎の扉を叩いたのだそうです。手が赤くなっても、やめなかったと」
わたくしは、また歩き出しました。
「その仔猫が、そのあとどうなったのかも、書いてございませんでした」
「……お嬢様」
「助かったのかしら」
自分でも、なぜそんなことを口にしたのか分かりません。
十日ぶん先の水の量を計算しているときには、決して浮かばない種類の問いでございます。
「助かったと思います」
セシルは、はっきりと申しました。
「なぜ」
「半刻も叩けば、開きますもの」
その言い方があまりに自信たっぷりでしたので、わたくしは思わず角灯を持ち上げて、この子の顔を見てしまいました。
濡れた頬に、灯りが揺れております。
泣いておりました。今朝から、ずっと泣いておりません、と申していた子が。
しばらく行ったところで、セシルが小さく声を上げました。
膝まで、水が深くなっております。石の底に窪みがあるのでございましょう。
「お嬢様、包みが」
「胸より上に上げなさい」
「上げております。上げておりますが、腕が」
わたくしは、角灯を左手に持ち替えて、右手を差し出しました。
「貸しなさい」
「いけません」
「セシル」
「濡らさないと申し上げました」
この子は、油紙の包みを頭の上まで持ち上げて、その姿勢のまま、窪みを渡りきりました。
四百年に二通しかない紙が、二十歳の侍女の腕一本で運ばれていく。
――ヴェルネ家の四百年で、いちばん危うい運び方かもしれません。
それでも、いま、この地下三マイルにその紙があること自体が、そもそも四百年で初めてのはずでございます。
一マイルほど進んだあたりで、天井に細い光が差しておりました。
点検坑でございます。中継所のものとは別の、途中に開けられたもの。この三マイルには、そういう坑が七つございます。
光の柱の中を、埃が落ちてまいります。上の世界は、まだ昼でございました。
その柱の下で、セシルが立ち止まりました。
「お嬢様。ここ、上は何がございますか」
「南の街道でしょう。位置からいって」
「では、いま、真上を人が歩いておりますね」
二人で、しばらく見上げておりました。
光の中を、埃だけがゆっくり落ちてまいります。足音はいたしません。石が三尺ございますので。
「知らないのですね。誰も」
「四百年、知りません」
「毎日飲んでいるのに」
――バルテルミー閣下も、同じことを仰いました。四十年、毎日飲んでいて、味など考えたこともなかったと。
人は、届いているものの道筋を考えません。届かなくなって初めて、道を探します。
わたくしは、いま、その道の中を歩いております。
二マイル目を過ぎたころ、水が浅くなってまいりました。
足首から、くるぶしへ。それから、石が乾いてまいります。
水門に近づいているのでございます。閉じた水門の向こう側に水があり、こちら側には、もう流れてまいりません。
乾いた石を歩くようになって、半刻。
セシルが、わたくしの袖を引きました。
「お嬢様」
前方でございました。
角灯の輪の、そのずっと先。
闇の中に、小さな橙が、ひとつ。
揺れております。
止まって、こちらを見て、それから、こちらへ向かって動きはじめました。
――ひとつではございませんでした。
その後ろに、二つ、三つ。四つ目が、遅れて。
わたくしは、角灯を下に置きました。
こちらの灯りを上げれば、相手に人数を数えられます。置いてしまえば、相手はこちらの足元しか見えません。
「セシル。壁に寄って、しゃがんで」
「お、お嬢様は」
「立っております」
石の反響のせいで、足音の数が数えられません。
橙の灯りが、近づいてまいります。
二十間。十五間。
男の声が、闇の中から飛んでまいりました。
「――誰だ!」
わたくしは、両手を体の脇に下ろしました。
武器を持っていないと示すには、それがいちばん早うございます。
「ヴェルネ公爵家、アデライドでございます」
灯りが、止まりました。
しばらく、何も聞こえません。水の落ちる音だけが、どこか遠くでいたしております。
それから、灯りが大きく傾ぎました。
落としたのだと分かりました。角灯が石に当たって、油の匂いが流れてまいります。
「……お嬢様」
しわがれた声でございました。
「――お嬢様!」
橙が、いきなり駆けてまいります。
老人でした。六十を過ぎております。革の前掛けをして、腰に鍵束を下げ、片手に工具袋を提げたまま、水も乾いた石の上を、転びそうになりながら走ってまいりました。
わたくしの三歩手前で膝をつき、そのまま額を石につけました。
「南部三領水門長、ユベールにございます」
白髪の頭。革の前掛けの背。工具袋の口から覗く、真鍮の歯車。
「――九日前の第一鐘に、十九の堰をすべて閉じました。管理令に署名なさったお名前を、この目で拝見しております」
老人の肩が、震えておりました。
「あの日から、ずっとお待ち申し上げておりました」
(第十五話へつづく)




