十九のうち、五つ
導水路の南の端は、鉄の格子で塞がれておりました。
「――お待たせいたしました」
地下で額を石につけた老人に、わたくしが返せたのは、その一言きりでございます。
ユベールは前掛けで顔を拭いて、鍵束を鳴らして立ち上がりました。九日をどう過ごしたかは、それきり申しません。
その鍵束から一本を選び、格子の下の錠に差し込みます。錆びた音がして、格子が半分だけ持ち上がります。
くぐって、石段を上がります。
数えました。七十二ございます。
中継所で降りたのと、同じ数でございました。
――外でございました。
夕方の光が、いきなり目に入ってまいりました。
一刻半、角灯の輪の中しか見ていなかった目に、それは痛いほどでございます。わたくしは、しばらく手で顔を覆っておりました。
指の隙間から、少しずつ慣らして、それから、見ました。
水源林でございます。
ぶなと樫の混じった林が、山の裾へなだらかに広がっております。木の間から、水の音がいたしております。一筋ではございません。四方から、絶えず。
その音の中に、石造りの堰が並んでおりました。
ひとつ、ふたつ――目に見えるところで、七つ。
「十九ございます」
ユベールが、傍らで申しました。
「木の陰と、尾根の向こうに、あと十二。全部で十九」
「九日前に、全部お閉めになったのね」
「へえ。第一鐘の音を、麓の礼拝堂で聞きまして。それから二刻かけて、順に」
「二刻」
「ひとりでは回りきれません。四十人がかりで、順序を決めて閉じました。上から順ではございません。下から閉じると、上の水が行き場をなくして溢れますので」
わたくしは、うなずきました。
――順序。
管理令にございますのは『すべての水門を閉じる』の一行きりでございます。順序という言葉は、どこにも書いてございませんでした。
書かなくても、この人たちが決めておりました。
「ユベール」
「へえ」
「五つ、開けてください」
老人の顔が、止まります。
「……五つ、とは」
「十九のうち、五つ。開度は全開で構いません。五つでおよそ四分の一の水量になります」
「お嬢様」
「四分の一では、分水塔の上の口まで水面が上がりません。王宮へは行きません。下の口だけが濡れます」
「――そこまでは、分かります」
ユベールは、地面を見ておりました。
「分かりますが、お嬢様。一度開ければ、二度と閉じられません」
「なぜ」
「軍が来ます」
老人は、顔を上げます。
「閉じている堰を開けるには、外から来た者にゃあ手が出せません。錠がございます。錠を壊すには手間がかかる。壊しているあいだに、こちらは山へ入れます」
「ええ」
「けんど、開いている堰は、閉じるだけなら誰でもできます。逆も同じでございます。開いてる錠を、開いたままにしておくのは、もっと簡単だ」
ユベールの指が、堰のほうを指します。
「五つ開けたその晩に、軍が来て、残りの十四も全部開けます。そうしたら、王都に水がどんどん行きます。お嬢様の梃子が、その日でなくなります」
――正しゅうございます。
この人は、わたくしより先に、そこまで考えておりました。
「ユベール。全部開けたら、どうなりますか」
「王都に水が行きます」
「その次は」
老人が、口を開いて、閉じました。
それから、目を細めました。
「……三日で、割れますな」
「はい」
「導水路の傾きは、一マイルにつき二尺しかつけてございません。十九全部となると、水がいっぺんに落ちます。四百年、あの石が保っているのは、毎日誰かが加減しているからで」
「石が割れたら」
「掘り直しでございます。地下三マイルを。……二年では、きかんかもしれません」
わたくしは、五つ目の堰のほうを見ておりました。
水の音が、ずっといたしております。閉じていても、水は止まりません。堰の向こうで溜まって、山肌へ逃げて、別の谷へ落ちているだけでございます。
「では、軍は開けられません」
「……開けりゃあ、自分の首を絞めます」
「開けないなら、五つのままです。五つのままなら、王宮には届きません」
ユベールは、しばらく黙っておりました。
それから、革の前掛けで手を拭いて、こう申しました。
「お嬢様。ひとつだけ、申し上げてよろしいですか」
「どうぞ」
「その理屈が通るのは、向こうに分かる者がいる場合でございます」
――今日、いちばん胸に刺さったのは、その一言でございました。
「工兵隊が先行しております」
「へえ。存じております」
「工兵は、石と水の専門でございます。導水路の傾きを見れば、三日で割れることは分かります」
「分かる者が、指揮を執っておればよろしゅうございますな」
老人は、そう申しました。
嫌味ではございません。ただ、この六十年で何度もそういう目に遭ってきた者の言い方でございました。
わたくしは、しばらく考えました。
――第七条をご確認ください、と申し上げたとき、殿下は「なんの話だ」と仰いました。
バルテルミー閣下は、椅子を倒して立ち上がられました。
同じ一文を聞いて、片方は意味が分からず、片方は青ざめたのでございます。
この国では、いつもそうでございます。
「ユベール」
「へえ」
「五つ、開けてください」
「……お嬢様」
「開けます。そのうえで、開けた理由を紙に書いて、堰の脇に立ててください」
老人が、目を丸くいたしました。
「立て札を、でございますか」
「『十九のうち五つ。これ以上開くと導水路が割れる。割れれば復旧に二年』。それだけ書けば足ります。日付と、水門長の名前を添えて」
「そんなもの、軍が読みますか」
「読む者が、ひとりでもいればよろしいのです」
「――一人で、二個大隊が止まりますかね」
「止まりません」
わたくしは、そう申し上げました。
「止まりませんが、記録には残ります。『水門長は警告していた』と。二年後に導水路が復旧しなかったとき、誰の判断だったのかを、誰かが調べます」
「……そこまで先を」
「ユベール。わたくしは、明日の朝までにこの土地を守る手を持っておりません。持っているのは、二年後に誰が悪かったかを決める紙だけでございます」
わたくしは、堰へ向かって歩き出しました。
「分からない方が指揮を執っておいでなら、わたくしどもは負けます。それはもう、こちらの手の外でございます」
「へえ」
「ですが、分かる方が一人でも隊の中におられたなら、その方が上官を止めます」
堰の縁に手を置きました。石が、まだ昼の熱を持っております。
「止められる材料を置いておくのが、わたくしの仕事でございます」
五つの堰が開いたのは、日が落ちてからでございました。
錠を外し、歯車を回し、木の板を持ち上げる。たった五つに、四十人と、二刻かかりました。
九日前、十九を閉じるのに要したのも、同じ四十人と二刻でございます。
閉じるのは板を落とすだけ。開けるほうは、堰の裏に溜まった九日ぶんの水を背負ったまま持ち上げますので、一つに四倍近くかかるのだそうでございます。
最後の一つが上がったとき、音が変わりました。
それまで、水は溜まって、迷って、山肌を伝っておりました。
それが、一本になりました。
石の樋を落ちて、暗い口へ吸い込まれていく。三マイル先の市壁の下へ。分水塔へ。下の口へ。
――水道橋を、通ります。
七日目に出した使用停止通告は、撤回しておりません。解くのは、下の口へ落ちるぶんだけ。上の口へ渡るぶんは、止めたままでございます。
――明日の朝には、市中の泉が濡れます。
泉が涸れて、三日でございます。堰を閉じてからは、九日。
領民たちが、堰の上に立って、それを見ておりました。誰も何も申しません。
やがて、いちばん端にいた若い男が、片手を上げました。
それから、隣が。その隣が。
声はございませんでした。夜の水源林で四十人が声を上げれば、麓まで届きますので。
ただ、手だけが上がっておりました。
わたくしは、そちらを見ないようにいたしました。
見てしまうと、また、目のあたりがおかしくなりそうでしたので。
早馬が着いたのは、その半刻あとでございます。
麓の礼拝堂から、少年がひとり駆け上がってまいりました。組合のマルタンの言伝でございました。
『王国軍、南進。工兵隊が先行。歩兵二個大隊、これに続く。
先頭は明朝、水源林へ達する見込み。
――近衛は、北の丘の屋敷を接収した。井戸から水は上がっておらぬ由』
(第十六話へつづく)




