山へ入ってください
麓の礼拝堂に、四百人が集まります。
夜でございます。灯りは蝋燭が十二本きり。堂の中には入りきりませんので、半分は外の墓地に立っておりました。
わたくしは、祭壇の前の段に上がります。
――こういう場のための科目も、王妃教育にはございませんでした。
三百人の前で膝を折る作法は、十歳の冬に三か月かけて習いました。四百人に向かって話す作法は、習っておりません。
ですから、いちばん短い言い方をいたしました。
「明日の朝、軍が参ります」
堂の中が、静まります。
「工兵隊が先で、そのあとに歩兵が二個大隊。目的は水源林の取水堰と、水門でございます」
誰も動きません。
「みなさんには、山へ入っていただきます」
ざわめきが、外の墓地のほうから戻ってまいります。
前列の男が、手を挙げます。麻の作業着を着た、四十がらみでございます。
「お嬢様。逃げろ、ということでございますか」
「いいえ」
「では」
「消えていただきます」
わたくしは、そう申し上げました。
「逃げるのは、追われている者がすることでございます。みなさんは追われておりません。この土地の持ち主の使用人でございますから、どこにいようと自由です」
男が、まばたきをいたしました。
「軍が来て、堰を見ます。錠がかかっている。開け方が分からない。開けても、どの順に開けるのかが分からない。訊こうとしても、訊く相手がひとりもいない」
「……」
「それだけでございます。誰も戦いません。誰も隠れません。ただ、山に用があって、山におります。それが四百人でございます」
どこかで、短い笑い声がいたしました。
「ただし」
わたくしは、続けました。
「戻ってこられる方は、いつでも戻ってきてください。麓に家族を残しておられる方は、残ってくださって構いません。残った方が訊かれたら、知っていることをそのままお答えください」
「――お嬢様」
別の男が、声を上げます。
「答えたら、この土地はどうなります」
「取られます」
はっきりと申し上げました。
「ですが、あなたの歯は残ります。わたくしは、そちらのほうが大事でございます」
堂の中が、また静かになりました。
――マルタンが、中継所で申しておりました。答えませんよ、誰も、と。
あのとき、わたくしは何も返せませんでした。
人が黙ってくれることを、あてにして計算を組むわけには参りません。あてにしてよいのは、こちらが差し出せるものだけでございます。
ですから、こう申し上げました。
「答えても、わたくしは誰も責めません。それは、あらかじめ申し上げておきます」
前列の男が、また手を挙げます。
「お嬢様。逆を申し上げてよろしいですか」
「どうぞ」
「わしらが山へ入って、軍が堰を壊したら、水はどうなります」
「二年、来ません」
「王都の二十万は」
「渇きます」
堂の中が、水を打ったように静かになりました。
「そこまで含めて、山へ入れと仰いますか」
わたくしは、その男の顔を見ました。
――これは、いちばん答えにくい問いでございます。
九日前の夜、わたくしは父の書斎で同じことを訊きました。二十万の民がおります、病院と孤児院と、パン焼き窯がございます、と。
あのとき父は「知っている」と三度お答えになりました。
わたくしは、三度は言えません。
「わたくしは、五つの堰を開けました。明日の朝、市中の泉が四日ぶりに濡れます」
「へえ」
「軍が壊さなければ、それは止まりません。壊すのはわたくしではございません」
男は、しばらくわたくしを見ておりました。
それから、うなずいて、座りました。
納得したからではないと思います。この人は、わたくしが逃げなかったことだけを見て、それで十分だとしたのでございましょう。
夜が更けてから、ユベールが墓地の隅までついてまいりました。
石の低い柵に、二人で腰かけました。山の下に、灯りがいくつか見えます。麓の家々でございます。
「お嬢様は、どうなさいます」
「王都へ戻ります」
老人の手が、止まりました。
「――今、王都から出てこられたばかりでございましょう」
「はい」
「近衛が屋敷を押さえております。市壁の中には、お嬢様の顔を知っている者が何百人もおります」
「はい」
「なぜでございます」
わたくしは、膝の上で指を組みました。
「父が、王宮に留め置かれております」
「……公爵閣下が」
「あの条約には、署名が三つ要ります。ガルデニア軍務卿、ヴァルモア国王陛下、そしてヴェルネ公爵」
「三つも」
「南部三領の宗主は王家でございます。売る資格があるのは陛下だけ。ですが、水利権はヴェルネ家のものでございますから、そちらを残す約定には当主の署名が要ります」
わたくしは、組んだ指をほどきました。
「陛下の署名は、水を止めれば取れます。四百年、それだけが王家を動かす唯一の手でございました。――取れないのは、父のほうでございます」
「なぜでございます」
「父は、王宮の中でございますので」
「……」
「ですから、取りに戻ります」
山の下で、麓の家の灯りが一つ消えます。
ユベールは、それを見てから口を開きました。
「お父上を、でございますか。ご署名を、でございますか」
わたくしは、答えられませんでした。
――質問の意味は、すぐに分かりました。
分かったうえで、答えが出てまいりません。
あの晩、十年ぶりにわたくしの名を呼んだ人が、いまも王宮の中においでです。
呼ばれたのは、それきりでございました。
「――署名でございます」
わたくしは、そう申しました。
「そう申し上げておくのが、いちばん間違いが少のうございますので」
ユベールは、それ以上何も訊きませんでした。
この人は、四十人の順序を決める人でございます。訊いてよい順序というものも、知っておいでなのだと思いました。
「セシル」
柵の向こうで、蝋燭を持ったまま立っていた子を呼びました。
「あなたは、ここに残りなさい」
「お断りいたします」
「セシル」
「お断りいたします」
この子が、こういう言い方をするのを初めて聞きました。
「お嬢様。わたくしは五年前、市場で財布を掏られて、路地で泣いておりました」
「セシル」
「そこへお嬢様が馬車を降りていらして、掏摸に遭った場所を三度回って、警吏に届けを出してくださいました。それから、雇い主の家まで送って、その方に頭を下げてくださいました」
「あれは、手順で」
「手順に、頭を下げる項目はございません」
二度目でございます。この子は、同じことを二度、わたくしに言いました。
「今度は、わたくしがお供する番でございます」
――そのとき。
ユベールが、急に立ち上がりました。
老人は、南の空を見ておりました。
わたくしも、そちらを見ました。
山の稜線が、夜空をひとところだけ黒く切り取っております。その線の上に、小さな橙が並んでおりました。
一つ、二つ――増えてまいります。
「……南でございます」
ユベールの声が、掠れました。
「南から来るものは、ございません。あの道は、国境へ抜けるだけの道でございます」
わたくしは、数えました。
数えるというのは、こういうときのためにございます。
六つ。八つ。十。
十一。
十二。
――そこで、止まりました。
しばらく待っても、十三は増えません。
「ユベール。南街道の麓の宿場から、この尾根へ回る道はございますか」
「炭焼きの道が一本。荷車は通れませんが、馬なら」
「軍が街道を塞いでおりますね」
「工兵隊が先行しておりますので、今ごろは宿場から北はいっぱいでございましょう」
――昨日の夕方に南門を出て、宿場で止まったまま動かない馬車。
その馬車は今日の昼、街道の北が軍で埋まるのを見たはずでございます。
街道を北へ戻れないなら、炭焼きの道で尾根を越えるほかありません。尾根を越えれば、南から下りてくることになります。
わたくしは、蝋燭を持ったままのセシルの手から、そっとそれを取り上げました。
火を吹き消します。
闇の中で、南の稜線の十二の灯りだけが、ゆっくりとこちらへ下りてまいります。
「お嬢様! 伏せませんと」
「いいえ」
わたくしは、柵から立ち上がりました。
外套の襟を、留め直しました。
「軍は、灯りを十二では動きません」
――護衛が十二騎ついておりましたな。
今日の昼過ぎ、中継所でマルタンがそう申しました。銀の狼の旗を上げた馬車が、昨日の夕方に南門を出た、と。
「――ユベール。礼拝堂の鐘を、一つだけ鳴らしてください」
「ひ、一つ、でございますか」
「一つで結構です」
わたくしは、山道のほうへ歩き出しました。
「こちらの居場所を、教えてさしあげます」
(第十七話へつづく)




