鐘は一つ
テオドール・アシュフォードが夜のうちに越えたのは、左が岩壁、右が谷の道だった。踏み固められた幅は、炭俵を背負った馬が一頭通れるだけ。四百年、炭焼き以外の誰も使わなかった道である。それでも十二騎は一列になって尾根を越え、いま、南部三領の水源林を見下ろす稜線の上にいる。
彼は、馬を止めて、麓を見ていた。
――待つ、という行為が、これほど不得手だとは思わなかった。
宿場に停まったのは、丸一日だった。
旗を上げた使節が街道の途中で動かないのは、外交上、褒められたことではない。十日目の朝、宿の主人は恐る恐る出立の予定を尋ねに来た。彼は「未定だ」と答えた。
宿は、南街道の麓にある古い建物だった。一階が食堂で、二階に部屋が四つ。銀の狼の旗を掲げた馬車が中庭に停まったとき、女将が悲鳴を上げた。
その朝、食事を運んできたのは女将だった。
「旦那。あの旗、下ろしちゃいけませんかね」
「なぜだ」
「客が来ませんで。八年前まで敵の旗でしたので」
テオドールは、銅貨を積んだ。二日分の宿代の十倍になる額だった。
「これで足りるか」
「足ります。……足りますが」
女将は、それでも困った顔をしていた。
「旦那。あの旗ってのは、何かを待ってるときに上げとくもんですかね」
彼は、答えなかった。
答えられなかったからだ。旗は、待っているときに上げるものではない。宣言するときに上げるものだ。
九日目の夕方、ヴェルネ公爵邸の門を出たとき、彼は南へ向かった。国境へ帰るためではない。
あの娘は、こう言った。
――父の署名を取るところまでを、わたくしの仕事といたします。
公爵は王宮にいる。娘は北の丘にいる。署名が動くのは、その二つが繋がったときだ。
繋がるまで、彼は国内にいなければならない。旗を下ろせば、その瞬間に彼はただの外国人になる。旗を上げたまま止まっているかぎり、彼は「まだ交渉中の使節」であり続ける。
止まっているというのは、そういう手だった。
その朝、ガルデニアから早馬が来た。
封蝋は公国議会のもの。中身は短い。
『北部国境の全部隊を一マイル後退させた件につき、軍務卿は議会に説明を要する。至急帰国されたし』
二通目は、法務官ラングレーの私信だった。こちらは長い。
『閣下。
議会は割れております。三分の一は「四百年に一度の好機を捨てた」と申し、三分の一は「戦をせずに水源地を得る策なら支持する」と申し、残る三分の一は閣下が正気かどうかを疑っております。
閣下がお持ちの草案は、馬車の中で半刻で書いたものでございます。どこを直されても構いません。ただし、あれに署名を要する者が三人いることだけは、動かしようがございません。
閣下。ひとつだけ申し上げます。
この条約は、公国にとって割に合います。数字で説明できます。
閣下がそこにおられる理由は、数字では説明できません。
議会でその区別を問われたとき、前者だけをお話しください。後者を口にされた瞬間、この条約は「軍務卿の私情」になります』
テオドールは、最後の一行だけをもう一度目で追い、紙を宿の火に入れた。
――区別。
彼は自分で、二つを分けて考えたことがない。分ける必要を感じたことがない。
八年前、ヴァレの丘で署名した理由を、彼はいまでも数字で説明できる。二千四百。翌朝の突撃で失われるはずだった命の数だ。
だが、あの紙を八年持ち歩いた理由は、数字にならない。
同じ一枚の紙が、片方は説明でき、片方は説明できない。
――厄介なものだ。
護衛の十二騎も、動きたがっていた。
その朝のうちに、伍長のジローが意を決した顔で部屋に来た。三十半ばの、無口な男だ。ヴァレの丘で生きて帰った六百のひとりである。
「閣下。無礼を承知で申し上げます」
「言え」
「兵が、落ち着きません」
「なぜだ」
「理由を知らんからでございます。閣下が北部の全部隊を退かせ、旗を上げて敵国に入り、いま街道の宿で止まっている。――そのどれにも説明がございません」
テオドールは、窓の外を見た。街道を、荷馬車が北へ上っていく。
「説明はある」
「では」
「言えば、私情になる」
伍長は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「閣下。八年前のヴァレの丘で、生きて帰ったのは我々を含めて六百でございます」
「知っている」
「あの六百に、理由を尋ねた者はおりません。今回も、誰も尋ねません」
男は、扉のところで一度止まった。
「落ち着かんと申しましたのは、待つのが下手だからでございます。閣下と同じで」
その日の昼、街道の北が埋まった。
王国軍の南進が始まっていた。工兵隊が先行し、歩兵二個大隊がそれに続く。宿場の前を通り過ぎるのに二刻かかった。
旗を上げた馬車は、その列を見送るしかなかった。使節が軍の行軍を妨げれば、それは事件になる。
北へは戻れない。
旗を上げたまま、彼は宿の中庭に立っていた。列が途切れてからも、まだ立っていた。
行軍の列は途切れない。工兵の荷車、資材、それに続く歩兵。街道の埃が中庭まで来て、馬車の銀の狼を薄く曇らせた。
この列が向かう先は、あの娘の土地である。
――止められる。
北部の三個中隊を国境へ戻すと言えば、この二個大隊は南へ行けない。半日で伝令が出せる。
そして、それをやった瞬間に、この条約は消える。彼は使節ではなくなり、ガルデニアは八年ぶりに戦をする国になる。
テオドールは、中庭の柱に手を置いたまま、動かなかった。
宿の女将が、彼を避けて通った。
宿の主人に炭焼きの道を尋ねたのは、その日の夕方だった。
「馬なら通れます。ですが夜は」
「夜に行く」
「旦那、あの道は――」
「いくら払えばいい」
尾根に着いたのは、日が変わってからだ。
いま、麓の水源林は暗い。木の間に、灯りが点々と散っている。数は多い。二十や三十ではない。
――四百人。あの領地の水門を扱う者の数だ。
人が集まっている。夜中に。
護衛の伍長が、馬を寄せてきた。
「閣下。あれは、何をしているのでしょう」
「分からん」
「軍が近いのでは。もし戦の支度なら、我々が居合わせるのはまずうございます」
「そうだな」
テオドールは、答えながら動かなかった。
――下りるべきではない。
これは軍務卿として正しい判断だ。他国の領地で、夜中に四百人が集まっている場所へ、旗を上げた使節が十二騎で下りていく。どう転んでも良い絵にはならない。
議会が知れば、それこそ「軍務卿の私情」になる。
彼は、外套の内側に右手を当てた。
紙は、そこにある。
――もう少し待て。
自分にそう言い聞かせたとき。
麓で、鐘が鳴った。
一つ。
彼は、稜線の上で身を起こした。
次を待った。
――来ない。
二つで火事、三つで葬儀、連打で敵襲。この国でも、彼の国でも、四百年変わっていない。
一つだけの鐘に、決まった意味はない。
村に向けた鐘ではない。
伍長が、怪訝な顔をした。
「閣下?」
「――誰が鳴らした」
「は?」
「あの鐘を鳴らせと言った者が、誰かと聞いている」
伍長は答えられない。答えられるはずがない。
テオドールは、手綱を引いた。
馬首が、麓へ向く。
「下りる」
「お待ちください、閣下。夜半に他国の領民の集会へ入るのは――」
「集会ではない」
彼は、そう言った。
「こちらの居場所を教えてやる、と言われている」
伍長には、通じなかっただろう。
通じなくてよかった。それが「数字で説明できないほう」だということくらいは、彼にも分かっていた。
――下りながら、一つだけ考えていた。
この丸一日、彼は待つのが下手だと自分を責めていた。
麓の誰かは、その半分ほどのあいだに、稜線の上に灯りが並ぶことを見越し、鐘の下に人を置いていたことになる。
テオドールは、笑った。二度目だった。一度目は、九日目の昼だ。
声は出さなかった。出せば、ジローがまた怪訝な顔をする。
(第十八話へつづく)




