十一日目の朝
礼拝堂の前で、その方は馬を下りられました。
礼拝堂は、四百年前にこの林の石工が建てたものでございます。石を積んだだけの、鐘楼が一つきりの小さな堂でございました。
扉の脇に松明が二本。ほかに灯りはございません。十二騎はその外側で止まり、下馬もいたしません。他国の使節が、他国の領民の集まりに踏み込まない距離を、あらかじめ測って止まったのだと分かりました。
「アデライド・ヴェルネ」
「閣下」
わたくしは、膝を折りました。
二十度。相手が他国の高官で、公の場で、こちらに非がない場合の礼でございます。
――八歳から十八まで、この作法だけは何度でも出てまいります。
「鐘を一つ鳴らしたのは、あなたか」
「はい」
「なぜ一つだ」
「二つでも三つでも、連打でもございませんので」
「――届いた」
「十二で止まりました。軍は、十二では動きませんので」
その方は、しばらく黙っておられました。
それから、こう仰いました。
「――灯りを数えたな」
「十二で止まりました。軍は十二では動きません」
松明の火が、風で一度、大きく揺れます。
その火が、外套の肩と、顎の線とを、順に照らしました。
「アデライド」
「はい」
「あなたの父上の話をする」
わたくしは、顔を上げました。
「父の」
「王宮に召し上げられたと、私は宿場で聞いた。――そのとき、私は考えた」
「……」
「公爵が戻らないなら、署名は取れない。署名が取れないなら、条約は結べない。条約が結べないなら、私がここにいる理由が消える」
「はい」
「ならば帰るべきだった。私は帰らなかった」
その方は、それだけ仰いました。
理由は、仰いません。
――たぶん、ご自分でも、まだ数え方が分からないのだと思いました。
わたくしにも、分かりません。
――夜のうちに、四百人が山へ入りました。
持っていったのは三日分の食糧と、鍵束の写しと、堰の順序を書いた紙でございます。紙は、ユベールが一枚ずつ手渡しで配りました。文字の読めない者には、順序を歌にして覚えさせておりました。
四百年、そうしてきたのだそうです。
出ていく者たちに、わたくしは礼拝堂の扉の脇で立っておりました。
声はかけません。かければ、この方々はわたくしに何か言わねばならなくなります。夜通し歩く前に、そういう荷物を増やすわけには参りません。
それでも、通り過ぎるとき、何人かが立ち止まりました。
最初の一人は、麻の作業着の男でございました。集会で二度手を挙げた方です。
「お嬢様。訊いてもよろしいですか」
「どうぞ」
「歯が残る、と仰いましたな」
「はい」
「あれは、公爵閣下も同じことを仰いますか」
わたくしは、答えられませんでした。
男は、それで十分だという顔をいたしました。
「ならば、わしらはお嬢様の使用人でございます」
そう言って、山へ上がっていきました。
――十一日目。
工兵隊の先頭が水源林に達したのは、第三鐘の少し前でございました。
わたくしどもは、堰から四半マイルほど下の、木立の縁におりました。ガルデニアの十二騎は、さらにその後ろ。旗は下ろしております。
「見えるか」
「はい」
葉の隙間から、堰の縁と、そこに取りついた四人が見えます。
――音は、ユベールが取りました。
「歯車が四つ。……いや、四つとも空回しで。開けとりません。噛み方を検めておるだけでございます」
「錠は」
「触っとりますが、壊しゃあせん。板が上がる音もいたしません」
老人は、目を閉じたまま顎を上げております。四百年、この林の水を音で扱ってきた家の、いまの水門長でございました。
その四人のうち、ひとりが立ち上がりました。
堰の脇へ歩いていきます。
――昨日、板を立てたところでございます。
わたくしは、外套の袖口を握りました。
『十九のうち五つ。これ以上開くと導水路が割れる。割れれば復旧に二年』。日付と、水門長の名前。
男は、そこで足を止めました。
立ったまま一度読むには、長すぎる間でございました。
やがて男は板を離れ、導水路の口へ下りていきます。それから、また板の前へ戻ってまいります。
二度目でございます。
――読む者が、ひとりでもいれば。
紙を疑っている者の順序では、ないように見えます。紙を信じたうえで、自分の数字と突き合わせている者の順序ではないか、と。
男は、板の前で屈みました。
何かを膝の上で広げております。
「……お嬢様」
ユベールが、目を開けました。
「写しておりゃあ、よろしゅうございますな」
「ええ」
それだけ申し上げました。
この老人に、そうであってほしいと言わせておくくらいは、してもよいと思ったのでございます。わたくしが同じことを言うわけには参りませんけれど。
「アデライド」
「はい」
「あの男が、上官に報告する。上官が容れるかどうかは五分だ」
「はい」
「五分に賭けたのか」
「賭けてはおりません」
わたくしは、そう申し上げました。
「五分でも、十分の一でも、置く手間は同じでございます。置かなければゼロでございますから」
その方は、しばらく木の間の先を見ておられました。
それから、こう仰いました。
「――八年前も、そうだったな」
「……」
「白旗一本で丘を歩いてくる娘が、止められる見込みは十分の一もなかった」
わたくしは、答えませんでした。
あのとき、見込みという言葉で考えた覚えがございません。斜面の骨の数を数えて、増える分を引いただけでございます。
いま思えば、それを見込みと呼ぶのかもしれません。
第四鐘を過ぎたころ、歩兵の先頭が着きました。行軍の列は、木の間を抜けて途切れることなく続いております。
二個大隊。四百年、この林に入ったことのない数でございます。木が伐られはじめました。野営の柵を組むためでございましょう。
そして、水源林の中に、旗が立ちます。
――ヴァルモア王国軍。
四百年、この林に入った旗は一本もございません。
四百年前にこの土地を測って堰を組んだのは、ヴェルネ家の先祖と、そのとき雇われた石工でございます。王家は金を出しておりません。借りただけでございますから。
その借りていた側の旗が、いま、貸していた側の林に立っております。
「アデライド」
「はい」
「怒っているか」
わたくしは、少し考えました。
「――分かりません」
「分からんのか」
「胸のあたりが重うございます。ただ、これが怒りなのか、計算が合わなくなったことへの落ち着かなさなのか、区別がつきません」
閣下は、それきり何も仰いませんでした。
しばらくして、こう仰いました。
「区別は、いらん」
――そう仰るのなら、そういうことにしておきます。
区別のつかないものを、区別のつかないまま抱えて歩いてよいのだと、この十八年で初めて言われました。
胸のあたりの重さは、消えませんでした。消えませんでしたが、置き場所が決まった気がいたします。
わたくしは、うなずいて、老人のほうへ向き直りました。
「ユベール」
「……へえ」
「あなたも、山へ」
「お嬢様が残られるのに、わしが上がるわけには」
「わたくしは残りません」
老人が、こちらを見ました。
「この林で、わしより先に音を聞き分けられる者はおりません。堰が抜けるときも、いちばん先に分かります」
「存じております」
「お嬢様がおられんかったら、わしは誰にそれを申し上げりゃあよろしいので」
――そういう問い方をなさるのだと思いました。
残れと言われているのではございません。この人は、自分の耳の行き先を尋ねているのでございます。
「王都へ戻ります。父の署名を取りに」
その言葉を聞いて、隣で、外套が動きました。
テオドール・アシュフォード閣下が、初めてこちらへ体ごと向き直られたのが、目の端に見えました。
(第十九話へつづく)




