読む者がひとり
工兵中尉ジュリアン・デュランは、二十六歳で、水と石のことしか知らない男だった。
士官学校では成績が中の下だった。戦術も馬術も剣術も、どれも人並みに届かない。ただ一つ、水準測量の実技だけが四年間首位だった。
だから工兵に回された。本人はそれで満足していた。
剣で人を止められる人間は、この軍に何千人もいる。水の落ち方で人を止められる人間は、たぶん十人といない。士官学校の教官にそう言われたとき、彼は生まれて初めて自分の場所を見つけた気がした。
父は石工だった。祖父もだ。デュラン家は三代、橋と水路を組んできた。
士官学校へ行けと言ったのは父である。理由は一つだった。
『民間の石工は、悪い図面を渡されても断れん。軍の工兵なら断れる』
――断れる、と父は言った。
二十六歳のいま、彼はまだ一度も断ったことがない。
その朝、彼が野営の天幕に持ち込んだのは、帳面が一冊と、水準器と、書き写した立て札の文面だった。
水準器は、父の形見である。真鍮の筒に気泡が一つ入っただけの、士官学校の備品より古い代物だった。
「大佐。ご報告いたします」
歩兵第二大隊長ボーモン大佐は、地図の上に肘をついたまま顔を上げなかった。五十三歳。頬に古い傷がある。八年前のヴァレの丘でついたものだと、隊では誰もが知っていた。本人は一度も語らない。
「手短にしろ」
「はい。まず、十九の取水堰のうち、五つがすでに開いております」
「五つ」
「はい。昨日の夕刻に開けられたものと見られます。板の縁がまだ濡れております」
「なぜ開けた。閉じていたのではないのか」
「分かりません。ただ――五つ開けば、およそ四分の一の水量になります」
デュランは、帳面を開いた。
「四分の一では、市壁内の分水塔の上の口まで水面が上がりません。市中の泉と共同井戸には水が届きますが、丘の上の王宮の貯水槽には届きません」
ボーモンが、初めて地図から目を離した。
「……市中には、もう水が行っているのか」
「今朝の第一鐘ごろから流れているはずです。三マイルございますので」
大佐は、しばらく地図を見ていた。
「では、暴動は起きんな」
「起きないと思われます」
「王宮は」
「渇いたままでございます」
ボーモンは、鼻から息を吐いた。
その音を、デュランはよく知っている。上官が「面倒なことになった」と思ったときの音だ。
「大佐。もう一点、ご報告がございます」
「言え」
「堰の脇に、立て札がございました」
彼は、書き写した文面を読み上げた。
「『十九のうち五つ。これ以上開くと導水路が割れる。割れれば復旧に二年』。日付は昨日。南部三領水門長ユベールの署名がございます」
「脅しだろう」
「いえ」
デュランは、そこで一度、唾を飲んだ。
上官に「いえ」と言うのは、この四年で三度目だった。
「取水口の敷居と、南街道の下の点検坑の口。測れた二点だけ測りました」
「それで足りるのか」
「四百年前の工部の写しと一致いたします。導水路の傾きは、一マイルにつき二尺。三マイルで六尺しかございません」
中尉は、帳面を開いたまま言った。
「――水をわざと急がせない設計でございます」
「それがどうした」
「四百年、十九は毎日少しずつ開いておりました。日によって、季節によって、上げたり下げたり。それが加減でございます」
デュランは、帳面の図をボーモンのほうへ向けた。
「王宮の貯水槽は満水で十一日分ございます。常に満たしておく必要はございません。空きかけたときだけ堰を大きく開けて、満ちたら絞る。――十二という数は、その注ぎ足しの数でございます」
大佐の指が、地図の上で止まった。
「注ぎ足しの数」
「はい。流しっぱなしにする数ではございません」
「違いがあるか」
「出立の前に、分水塔の水位帳を繰りました。工部に四百年ぶん残っております。十二以上を開けたまま三日を越えた記録が、一度もございません」
デュランは、帳面をもう一枚めくった。
「傾きは一マイルにつき二尺。三マイルで六尺しかございません。三分の二の水を流し続ければ、二日で管の天井まで水が来ます。そこから目地が緩みます」
「絞ればよかろう」
「絞る者が、山へ上がりました」
天幕の中が、静かになった。
「加減には、毎日四十人が要ります。いま開いている五つは、絞る者がいなくても保つ数でございます。――もっとも、そこまで読んだ者がいるのかどうかは、私には分かりません」
彼は、そこで一度、息を継いだ。
「十二を開けたままにすれば、三日で目地が緩みます。緩めば抜けます。抜ければ、三マイルの地下を掘り直すことになります」
「――二年か」
「二年では、済まないかもしれません。あのころの工法でございますので、いま同じものが組めるかどうか」
天幕の中が、静かになった。
デュランは、待った。
――通じた。
そう思った。この人は分かる人だ。頬の傷は本物で、地図の読み方も本物だ。数字を出せば、数字で返してくれる。
「デュラン」
「はい」
「私は、堰を開けろとは言われていない」
「……は」
「押さえろと言われている」
ボーモンは、地図の上の一点を指で叩いた。ヴェルネ公爵領、南部三領。
「勅令の文言は『国家非常事態における水源地の保全』だ。保全であって、給水ではない。ここを軍が押さえている、という事実を作ることが任務だ」
「では、堰は」
「触るな。五つのままでいい」
デュランは、息を吐いた。
肩から、力が抜けた。
――あの石が、割れずに済む。
「――だが、王宮に水がないのは困る」
大佐が、そう言った。
「は」
「陛下の貯水槽が空だ。宮内省から毎日早馬が来ている。市中に水が行っていて王宮に行っていないというのは、絵として最悪だ。分かるか」
「……はい」
「あと、いくつ開ければ上の口に届く」
デュランの手が、止まった。
「大佐」
「数字を聞いている」
「――十二でございます」
「十二」
「十九のうち十二。それでおよそ三分の二。分水塔の上の口まで水面が上がります」
「十二なら、割れるか」
デュランは、答えなかった。
答えれば、その数字が命令になる。分かっていた。
「デュラン」
「……三日、保ちます」
「三日」
「三日で目地が緩みはじめます。四日目に一か所抜けて、そこから連鎖いたします」
ボーモンは、うなずいた。
「三日あれば、王宮の貯水槽は満ちるな」
「――満ちません」
大佐の手が、地図の紐にかかったまま止まった。
「なんだと」
「王宮の管は、水門が閉じた翌日には空になっております。上の口は分水塔でいちばん高うございますので、水が細れば真っ先に涸れます」
「――翌日か」
「空になった石の管は、内側が乾いて目地が痩せます。次に水を通すには、詰め直しに二月――工部の見積りでございます」
「二月」
「はい。上の口まで水面が上がっても、そこから先の管が水を運びません。貯水槽には、一滴も入りません」
天幕の中が、静かになった。
デュランは、待った。
――これで、終わる。
開ける理由が消えた。あの石は無事だ。彼は自分の呼吸が浅くなっているのを感じた。
ボーモンは、地図の紐を結び終えた。
「管は工部の管轄だ」
「……は」
「私の任務は、水源地の保全と、上の口まで水を届けることだ。管が詰まっているのは、私が届けたあとの話になる」
デュランは、上官の顔を見た。
この人は、いま自分が何を言ったかを分かっている。分かったうえで、境目を引いた。
「大佐。それでは、水は誰にも届きません」
「届いたという記録は残る」
ボーモンは、地図を小脇に抱えた。
「宮内省の早馬は毎日来る。私が返せるのは『上の口まで水が来た』の一行だけだ。そこから先を返すのは工部の仕事で、工部が二月かかると言うなら、それは工部が説明する」
「では、十二開けろ」
「――錠がございます。鍵は、水門長が持って山へ上がりました」
「破れ」
「七つを破って、歯車を回して、板を上げます。あちらは四十人で二刻かかっております」
「工兵は何人いる」
「六十でございます」
「では、二刻で足りるな」
デュランは、答えなかった。
足りる。
錠の形も、歯車の噛み方も、板の上げ方も、開いている五つを見れば分かる。閉じたままの十四が相手なら、彼らは半日を潰したはずだった。
開けた五つが、残りの開け方を教えている。
命令が下りた。
文書にはならない。天幕の中で、地図を巻きながら口頭で出された一行だ。記録に残るのは、開けたという事実だけになる。
デュランは、天幕の帆布を見ていた。
外で、木が伐られている音がする。柵を組む音だ。四百年、斧の入ったことのない林で。
その柵は、三月もすれば朽ちる。杉の生木を組んだだけのものだ。
地下三マイルの石は、四百年もった。
「大佐」
「なんだ」
「三日のあとは、二年でございます」
「聞いた」
「王都に、二年、水が参りません」
「聞いたと言っている」
ボーモンは、地図を巻きはじめた。
「デュラン。お前は二年後、どこにいる」
「……存じません」
「私は、ここにはいない」
中尉は、顔を上げた。
大佐は、彼を見てはいなかった。地図の紐を結びながら、こう言った。
「五十三だ。あと二年で退く。私の名前が残るのは、いま王宮に水を戻したかどうかだけだ。二年後に管が抜けたとき、その報告書に私の名前は載らん。載るのは、そのとき現場にいる誰かの名前だ」
そして、初めてデュランを見た。
「たぶん、お前の名前だな」
――天幕を出たとき、デュランは自分の手が震えているのに気づいた。
立て札を書いた男は、正しかった。
この土地の水門長は、二年先まで数えていた。数えたうえで、板に書いて、堰の脇に立てた。
読む者がひとりでもいればいい、という書き方だった。
――読んだ。読んで、報告した。
それで、十二になった。
――断れる、と父は言った。
いま断れば、彼は軍法会議にかけられる。命令の拒否だ。四百年の石のために、二十六年の人生を差し出すことになる。
差し出すだけの価値があるのか、彼には分からなかった。
分からないというより、その計算のしかたを教わっていない。士官学校の四年間に、そういう科目はなかった。
――二年後に、私の名前が載る。
大佐はそう言った。あれは脅しではない。事実の予告だ。二年後、抜けた導水路の前に立って報告書を書くのは、たぶん自分だ。
そのときの報告書に、なんと書くのか。
『当時、当職は上官に対し、十二の開門が三日で目地を緩めることを具申した。上官はこれを了と認めたうえで、開門を命じた』
――そう書ける。
書けば、自分は守られる。守られたうえで、二十万人は二年渇く。
彼は、帳面を握りしめて、しばらく柵の材木の脇に立っていた。
斧の音が続いている。
その音の向こう、尾根の陰のどこかに、この林を四百年扱ってきた者たちがいるはずだった。
(第二十話へつづく)




