↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄をご希望でしたら、契約書の第七条をご確認ください ~王都の水は、わたくしの領地から流れております~  作者: 七条 みなも


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/25

読む者がひとり

 工兵中尉ジュリアン・デュランは、二十六歳で、水と石のことしか知らない男だった。


 士官学校では成績が中の下だった。戦術も馬術も剣術も、どれも人並みに届かない。ただ一つ、水準測量の実技だけが四年間首位だった。


 だから工兵に回された。本人はそれで満足していた。


 剣で人を止められる人間は、この軍に何千人もいる。水の落ち方で人を止められる人間は、たぶん十人といない。士官学校の教官にそう言われたとき、彼は生まれて初めて自分の場所を見つけた気がした。


 父は石工だった。祖父もだ。デュラン家は三代、橋と水路を組んできた。


 士官学校へ行けと言ったのは父である。理由は一つだった。


『民間の石工は、悪い図面を渡されても断れん。軍の工兵なら断れる』


 ――断れる、と父は言った。


 二十六歳のいま、彼はまだ一度も断ったことがない。


 その朝、彼が野営の天幕に持ち込んだのは、帳面が一冊と、水準器と、書き写した立て札の文面だった。


 水準器は、父の形見である。真鍮の筒に気泡が一つ入っただけの、士官学校の備品より古い代物だった。


「大佐。ご報告いたします」


 歩兵第二大隊長ボーモン大佐は、地図の上に肘をついたまま顔を上げなかった。五十三歳。頬に古い傷がある。八年前のヴァレの丘でついたものだと、隊では誰もが知っていた。本人は一度も語らない。


「手短にしろ」

「はい。まず、十九の取水堰のうち、五つがすでに開いております」

「五つ」

「はい。昨日の夕刻に開けられたものと見られます。板の縁がまだ濡れております」

「なぜ開けた。閉じていたのではないのか」

「分かりません。ただ――五つ開けば、およそ四分の一の水量になります」


 デュランは、帳面を開いた。


「四分の一では、市壁内の分水塔の上の口まで水面が上がりません。市中の泉と共同井戸には水が届きますが、丘の上の王宮の貯水槽には届きません」


 ボーモンが、初めて地図から目を離した。


「……市中には、もう水が行っているのか」

「今朝の第一鐘ごろから流れているはずです。三マイルございますので」


 大佐は、しばらく地図を見ていた。


「では、暴動は起きんな」

「起きないと思われます」

「王宮は」

「渇いたままでございます」


 ボーモンは、鼻から息を吐いた。


 その音を、デュランはよく知っている。上官が「面倒なことになった」と思ったときの音だ。


「大佐。もう一点、ご報告がございます」

「言え」

「堰の脇に、立て札がございました」


 彼は、書き写した文面を読み上げた。


「『十九のうち五つ。これ以上開くと導水路が割れる。割れれば復旧に二年』。日付は昨日。南部三領水門長ユベールの署名がございます」

「脅しだろう」

「いえ」


 デュランは、そこで一度、唾を飲んだ。


 上官に「いえ」と言うのは、この四年で三度目だった。


「取水口の敷居と、南街道の下の点検坑の口。測れた二点だけ測りました」

「それで足りるのか」

「四百年前の工部の写しと一致いたします。導水路の傾きは、一マイルにつき二尺。三マイルで六尺しかございません」


 中尉は、帳面を開いたまま言った。


「――水をわざと急がせない設計でございます」

「それがどうした」

「四百年、十九は毎日少しずつ開いておりました。日によって、季節によって、上げたり下げたり。それが加減でございます」


 デュランは、帳面の図をボーモンのほうへ向けた。


「王宮の貯水槽は満水で十一日分ございます。常に満たしておく必要はございません。空きかけたときだけ堰を大きく開けて、満ちたら絞る。――十二という数は、その注ぎ足しの数でございます」


 大佐の指が、地図の上で止まった。


「注ぎ足しの数」

「はい。流しっぱなしにする数ではございません」

「違いがあるか」

「出立の前に、分水塔の水位帳を繰りました。工部に四百年ぶん残っております。十二以上を開けたまま三日を越えた記録が、一度もございません」


 デュランは、帳面をもう一枚めくった。


「傾きは一マイルにつき二尺。三マイルで六尺しかございません。三分の二の水を流し続ければ、二日で管の天井まで水が来ます。そこから目地が緩みます」

「絞ればよかろう」

「絞る者が、山へ上がりました」


 天幕の中が、静かになった。


「加減には、毎日四十人が要ります。いま開いている五つは、絞る者がいなくても保つ数でございます。――もっとも、そこまで読んだ者がいるのかどうかは、私には分かりません」


 彼は、そこで一度、息を継いだ。


「十二を開けたままにすれば、三日で目地が緩みます。緩めば抜けます。抜ければ、三マイルの地下を掘り直すことになります」

「――二年か」

「二年では、済まないかもしれません。あのころの工法でございますので、いま同じものが組めるかどうか」


 天幕の中が、静かになった。


 デュランは、待った。


 ――通じた。


 そう思った。この人は分かる人だ。頬の傷は本物で、地図の読み方も本物だ。数字を出せば、数字で返してくれる。


「デュラン」

「はい」

「私は、堰を開けろとは言われていない」

「……は」

「押さえろと言われている」


 ボーモンは、地図の上の一点を指で叩いた。ヴェルネ公爵領、南部三領。


「勅令の文言は『国家非常事態における水源地の保全』だ。保全であって、給水ではない。ここを軍が押さえている、という事実を作ることが任務だ」

「では、堰は」

「触るな。五つのままでいい」


 デュランは、息を吐いた。


 肩から、力が抜けた。


 ――あの石が、割れずに済む。


「――だが、王宮に水がないのは困る」


 大佐が、そう言った。


「は」

「陛下の貯水槽が空だ。宮内省から毎日早馬が来ている。市中に水が行っていて王宮に行っていないというのは、絵として最悪だ。分かるか」

「……はい」

「あと、いくつ開ければ上の口に届く」


 デュランの手が、止まった。


「大佐」

「数字を聞いている」

「――十二でございます」

「十二」

「十九のうち十二。それでおよそ三分の二。分水塔の上の口まで水面が上がります」

「十二なら、割れるか」


 デュランは、答えなかった。


 答えれば、その数字が命令になる。分かっていた。


「デュラン」

「……三日、保ちます」

「三日」

「三日で目地が緩みはじめます。四日目に一か所抜けて、そこから連鎖いたします」


 ボーモンは、うなずいた。


「三日あれば、王宮の貯水槽は満ちるな」

「――満ちません」


 大佐の手が、地図の紐にかかったまま止まった。


「なんだと」

「王宮の管は、水門が閉じた翌日には空になっております。上の口は分水塔でいちばん高うございますので、水が細れば真っ先に涸れます」

「――翌日か」

「空になった石の管は、内側が乾いて目地が痩せます。次に水を通すには、詰め直しに二月――工部の見積りでございます」

「二月」

「はい。上の口まで水面が上がっても、そこから先の管が水を運びません。貯水槽には、一滴も入りません」


 天幕の中が、静かになった。


 デュランは、待った。


 ――これで、終わる。


 開ける理由が消えた。あの石は無事だ。彼は自分の呼吸が浅くなっているのを感じた。


 ボーモンは、地図の紐を結び終えた。


「管は工部の管轄だ」

「……は」

「私の任務は、水源地の保全と、上の口まで水を届けることだ。管が詰まっているのは、私が届けたあとの話になる」


 デュランは、上官の顔を見た。


 この人は、いま自分が何を言ったかを分かっている。分かったうえで、境目を引いた。


「大佐。それでは、水は誰にも届きません」

「届いたという記録は残る」


 ボーモンは、地図を小脇に抱えた。


「宮内省の早馬は毎日来る。私が返せるのは『上の口まで水が来た』の一行だけだ。そこから先を返すのは工部の仕事で、工部が二月かかると言うなら、それは工部が説明する」

「では、十二開けろ」

「――錠がございます。鍵は、水門長が持って山へ上がりました」

「破れ」

「七つを破って、歯車を回して、板を上げます。あちらは四十人で二刻かかっております」

「工兵は何人いる」

「六十でございます」

「では、二刻で足りるな」


 デュランは、答えなかった。


 足りる。


 錠の形も、歯車の噛み方も、板の上げ方も、開いている五つを見れば分かる。閉じたままの十四が相手なら、彼らは半日を潰したはずだった。


 開けた五つが、残りの開け方を教えている。


 命令が下りた。


 文書にはならない。天幕の中で、地図を巻きながら口頭で出された一行だ。記録に残るのは、開けたという事実だけになる。


 デュランは、天幕の帆布を見ていた。


 外で、木が伐られている音がする。柵を組む音だ。四百年、斧の入ったことのない林で。


 その柵は、三月もすれば朽ちる。杉の生木を組んだだけのものだ。


 地下三マイルの石は、四百年もった。


「大佐」

「なんだ」

「三日のあとは、二年でございます」

「聞いた」

「王都に、二年、水が参りません」

「聞いたと言っている」


 ボーモンは、地図を巻きはじめた。


「デュラン。お前は二年後、どこにいる」

「……存じません」

「私は、ここにはいない」


 中尉は、顔を上げた。


 大佐は、彼を見てはいなかった。地図の紐を結びながら、こう言った。


「五十三だ。あと二年で退く。私の名前が残るのは、いま王宮に水を戻したかどうかだけだ。二年後に管が抜けたとき、その報告書に私の名前は載らん。載るのは、そのとき現場にいる誰かの名前だ」


 そして、初めてデュランを見た。


「たぶん、お前の名前だな」


 ――天幕を出たとき、デュランは自分の手が震えているのに気づいた。


 立て札を書いた男は、正しかった。


 この土地の水門長は、二年先まで数えていた。数えたうえで、板に書いて、堰の脇に立てた。


 読む者がひとりでもいればいい、という書き方だった。


 ――読んだ。読んで、報告した。


 それで、十二になった。


 ――断れる、と父は言った。


 いま断れば、彼は軍法会議にかけられる。命令の拒否だ。四百年の石のために、二十六年の人生を差し出すことになる。


 差し出すだけの価値があるのか、彼には分からなかった。


 分からないというより、その計算のしかたを教わっていない。士官学校の四年間に、そういう科目はなかった。


 ――二年後に、私の名前が載る。


 大佐はそう言った。あれは脅しではない。事実の予告だ。二年後、抜けた導水路の前に立って報告書を書くのは、たぶん自分だ。


 そのときの報告書に、なんと書くのか。


『当時、当職は上官に対し、十二の開門が三日で目地を緩めることを具申した。上官はこれを了と認めたうえで、開門を命じた』


 ――そう書ける。


 書けば、自分は守られる。守られたうえで、二十万人は二年渇く。


 彼は、帳面を握りしめて、しばらく柵の材木の脇に立っていた。


 斧の音が続いている。


 その音の向こう、尾根の陰のどこかに、この林を四百年扱ってきた者たちがいるはずだった。



(第二十話へつづく)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
〉「――十二でございます」 「あと、いくつ開ければ」と聞かれているんだから「七つ」または「今開いている五つを含めて十二」では? 〉「では、十二開けろ」 このセリフの位置が不自然です。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。