二年後に、あの方はここにいない
昼過ぎに、わたくしどもは木立の縁から尾根の陰まで退きました。歩兵が柵を組みはじめましたので、四半マイルでは近すぎます。
ここからは、堰は見えません。あいだに尾根が一本入っておりますので。
――旗が立ったあと、体ごとこちらへ向き直られたきり、閣下は何も仰いません。
王都へ戻ると申し上げたことについて、訊かれるのを待っておいでなのだと、尾根まで退いてから気づきました。訊かれれば、答えねばなりません。答えを持っていないのは、わたくしのほうでございます。
見えるのは、水源林の上に立ちのぼる煙だけでございます。野営の煮炊きの煙が、朝から数を増やしております。
その煙を数えていたユベールの手が、途中で止まりました。
「――音が、変わりました」
わたくしには、分かりません。
この老人には分かるのでございます。四百年、この林の水を扱ってきた家の、いまの水門長でございますので。
「開けております」
「五つのままではないのですか」
「いえ。……六つ。七つ。八つ」
ユベールの声が、途中から掠れてまいりました。
「九つ。十。十一――」
老人は、そこで口を閉じました。
それから、地面に膝をつきました。
「十二でございます」
わたくしは、しばらく動けませんでした。
――十二。
十九ではございません。全部開けたのなら、何も分からずに開けたのでございます。十二という数は、分かっていなければ出てまいりません。
十二は、分水塔の上の口に水面が届く、いちばん少ない数でございます。
立て札は、読まれました。読んで、測って、そのうえで開けた方が、あの中にいらっしゃいます。
――そして。
わたくしは、堰の並びを思い浮かべておりました。
「ユベール」
「へえ」
「錠は、十四かかっていたはずでございます」
「……へえ」
「破るには、錠の形も、歯車の噛み方も、板の上げ方も要ります。四十人で二刻かかる作業でございました」
老人の顔が、ゆっくりと上がりました。
「――開いてる五つを、見りゃあ分かりますな」
「はい」
昨日、わたくしが開けさせた五つが、残りの十四の開け方を教えたのでございます。
「お嬢様。三日でございます」
「はい」
「三日で目地が緩みます。四日目に一か所抜けて、そこから連鎖いたします。あとは――」
「二年」
「二年で済めば、御の字でございます」
尾根の風が、木の間を抜けてまいります。
ユベールが、地面に手をついたまま、こちらを見上げました。
「お嬢様。読んで、そのうえで開けたのでございますか」
「はい」
「――なぜでございます」
その答えだけが、わたくしにも出てまいりませんでした。
王宮の管は、とうに空になっております。空になった石の管は、詰め直しに二月かかる。上の口まで水面が上がっても、貯水槽には一滴も入りません。あの管の見積りは、わたくしが王宮にいた十年のあいだに、工部が三度出しております。
水は、届かないのです。
届かないと分かっている水のために、二十万人が二年渇く。
「ユベール。あちらは、二年後にどうなるかを分かっておらんのでしょうか」
「分かっとらんのでしょう」
「いいえ」
わたくしは、煙のほうを見たまま申し上げました。
「分かっております。分かったうえで、二年後にはご自分がそこにいないと判断なさったのでしょう」
――こういう計算が、この世にはございます。
わたくしは、それを知っておりました。王宮で十年、決裁を回しておりましたから。
三年前の東部の飢饉のとき、救援の書類が二月止まりました。理由は、その年に退官する方が、任期の最後に赤字を出したくなかったからでございます。四晩かけて経路を引き直したのは、そのあとでございました。
あのときも、誰も嘘はついておりません。全員が、自分の任期の中で正しいことをいたしました。
「ユベール」
「へえ」
「立て札は、無駄ではございませんでした」
「……お嬢様。二年、水が来ませんのに」
「無駄ではございません」
わたくしは、尾根の岩に手をついて立ち上がりました。
「あの中に、二年先まで数えた方がおられます。数えたうえで、上官の命令に従った方が。――その方は、いま、たいへん気分が悪いはずでございます」
しばらく、老人はわたくしを見ております。
それから、こう申しました。
「お嬢様は、その方をどうなさるおつもりで」
「覚えておきます。名前は知りませんが、立て札の前で足を止めて、導水路の口へ戻って、また読みに来た方でございます。――あの方は、二年後、抜けた導水路の前に立っております」
わたくしは、外套の裾を払いました。
「ユベール。麓の少年を、もう一度走らせてくださいませ」
「どちらへ」
「中継所のマルタンへ。三つ書いていただきます」
老人の手が、腰の帳面へ伸びます。
「ひとつ。十一日目の第五鐘、王国軍が南部三領の取水堰を十九のうち十二まで開いた。開けたのは工兵隊でございます」
「へえ」
「ふたつ。十二の開門により、導水路は三日で目地が緩み、四日目に抜ける。復旧に二年。これは開門の前日、堰の脇に立て札で掲示してあった」
「……三つめは」
「みっつ。王宮の管は二月かからねば水を通しません。上の口まで水が上がっても、貯水槽には入りません」
「……へえ」
「増やした七つぶんは、王宮へは一滴も行きません。行き場がないので、そのぶんは市中へ落ちます。――明日から三日、市中の泉は勢いが増します。三日ぶんだけでございます。四日目に、全部が止まります」
老人の手から、帳面が滑り落ちました。
「お嬢様。それを、市中に」
「マルタンの荷車は、日に二度、市壁の中を端から端まで回ります。王都でいちばん耳が早い方でございます」
わたくしは、水音のするほうへ目をやりました。昨日の倍になっております。
「四日目に水が止まってから知らせても、それはただの言い訳でございます。止まる前に知らせておけば、止まった日に、王都の民は誰の顔を思い浮かべるかを、もう決めております」
「……お嬢様」
「日付と、堰の数だけは違えずに。誰が命じたかは書かなくて結構です。名前は、あとで王宮が自分で出します」
「……お嬢様。市中が荒れますな」
「荒れます」
わたくしは、そう申し上げました。
水の値が跳ねます。買い占めが出ます。先に知るのは、桶をいくつも買える方でございます。マルタンは二リーヴルを守れなくなります。
水門を閉じると決めた晩、父に「二十万の民がおります」と申し上げたのは、わたくしでございました。
「それでも、止まってから知るよりは、ましでございます」
「……誰にとって、でございます」
ユベールは、そう訊きました。
この人は、こういうときだけ、遠慮をなさいません。
「わたくしにとっても、でございます」
その夜。
尾根の陰の窪地で、わたくしどもは条約の草案を広げました。
紙は、ガルデニアの法務官が書いたものでございます。テオドール閣下が宿場から持ってこられました。
角灯を二つ。地面に荷の油布を敷いて、その上に紙を並べます。
「読んだか」
「はい。三度」
「どうだ」
「よく書けております。第一条から第四条までは、直すところがございません」
わたくしは、五枚目を引き抜きました。
「第五条以降を、書き直させてください」
閣下が、こちらを見られました。
「半刻で書かせたものだ。粗はあるだろう」
「粗ではございません。前提が変わりました」
角灯を、紙のほうへ寄せます。
「この草案は、南部三領が無事であることを前提に書かれております。水源地の宗主権を移し、水利権をヴェルネ家に残す。――ですが、四日目に導水路が抜けます」
「……ああ」
「抜けた導水路のついた水源地を、相場で買っていただくわけには参りません。ガルデニアは、二年間なんの役にも立たない土地に金を払うことになります」
「構わん」
「構います」
わたくしは、はっきりと申し上げました。
「議会が割れておいでなのでしょう」
紙の上で、閣下の指が動かなくなりました。
「――なぜ、それを」
「使節が街道の宿場で丸一日動かなかったというのは、本国から帰れと言われている方の止まり方でございます」
わたくしは、五枚目の余白を指しました。
「役に立たない土地を相場で買った軍務卿、という報告書が上がります。そのとき閣下を守るのは、この紙一枚でございます」
「何を書く」
「復旧条項でございます」
鉛筆を、取ります。
「導水路の復旧費用は、ヴェルネ家が負担いたします。持参金十二万リーヴルと、南部三領の年間収入をあてます」
「……ほう」
「復旧が成るまで、ガルデニアは買収代金の支払いを繰り延べる」
閣下は、紙から指を離されません。
「――これで、閣下は『壊れた土地を買った』のではなく、『直るまで払わない契約を取った』ことになります」
「あなたの家が、二年、無収入になる」
「はい」
「それで、あなたに何が残る」
わたくしは、鉛筆を止めました。
――何も残りません。
持参金も、領地の収入も、二年ぶんの人生も。
けれど、この条項がなければ、この方が本国で立てなくなります。
「閣下」
「なんだ」
「三つめの条件を、覚えておいでですか」
冬の川の色をした目が、角灯の光の中でこちらを見ておりました。
「好きにはなれない、というやつか」
「はい。……あれは、たぶん、少し違っておりました」
言ってから、自分の声が思ったより低いのに気づきました。
「なりかたを知らないと申し上げました。いまも知りません。ただ、いま、わたくしは自分の持参金を全部差し出す条項を、ためらわずに書いております」
鉛筆の先が、紙の上で止まったままでございます。
「これが何という名前の行いなのか、わたくしには分かりません。ご存じでしたら、教えてくださいませ」
閣下は、しばらく黙っておられました。
角灯の芯が、細くなってまいります。油が尽きかけているのでございます。
それから、外套の内側に右手を当てて――やめて、その手を下ろされました。
「知らん」
「……そうですか」
「だが、私はそれを八年やっている」
(第二十一話へつづく)




