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婚約破棄をご希望でしたら、契約書の第七条をご確認ください ~王都の水は、わたくしの領地から流れております~  作者: 七条 みなも


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20/25

二年後に、あの方はここにいない

 昼過ぎに、わたくしどもは木立の縁から尾根の陰まで退きました。歩兵が柵を組みはじめましたので、四半マイルでは近すぎます。


 ここからは、堰は見えません。あいだに尾根が一本入っておりますので。


 ――旗が立ったあと、体ごとこちらへ向き直られたきり、閣下は何も仰いません。


 王都へ戻ると申し上げたことについて、訊かれるのを待っておいでなのだと、尾根まで退いてから気づきました。訊かれれば、答えねばなりません。答えを持っていないのは、わたくしのほうでございます。


 見えるのは、水源林の上に立ちのぼる煙だけでございます。野営の煮炊きの煙が、朝から数を増やしております。


 その煙を数えていたユベールの手が、途中で止まりました。


「――音が、変わりました」


 わたくしには、分かりません。


 この老人には分かるのでございます。四百年、この林の水を扱ってきた家の、いまの水門長でございますので。


「開けております」

「五つのままではないのですか」

「いえ。……六つ。七つ。八つ」


 ユベールの声が、途中から掠れてまいりました。


「九つ。十。十一――」


 老人は、そこで口を閉じました。


 それから、地面に膝をつきました。


「十二でございます」


 わたくしは、しばらく動けませんでした。


 ――十二。


 十九ではございません。全部開けたのなら、何も分からずに開けたのでございます。十二という数は、分かっていなければ出てまいりません。


 十二は、分水塔の上の口に水面が届く、いちばん少ない数でございます。


 立て札は、読まれました。読んで、測って、そのうえで開けた方が、あの中にいらっしゃいます。


 ――そして。


 わたくしは、堰の並びを思い浮かべておりました。


「ユベール」

「へえ」

「錠は、十四かかっていたはずでございます」

「……へえ」

「破るには、錠の形も、歯車の噛み方も、板の上げ方も要ります。四十人で二刻かかる作業でございました」


 老人の顔が、ゆっくりと上がりました。


「――開いてる五つを、見りゃあ分かりますな」

「はい」


 昨日、わたくしが開けさせた五つが、残りの十四の開け方を教えたのでございます。


「お嬢様。三日でございます」

「はい」

「三日で目地が緩みます。四日目に一か所抜けて、そこから連鎖いたします。あとは――」

「二年」

「二年で済めば、御の字でございます」


 尾根の風が、木の間を抜けてまいります。


 ユベールが、地面に手をついたまま、こちらを見上げました。


「お嬢様。読んで、そのうえで開けたのでございますか」

「はい」

「――なぜでございます」


 その答えだけが、わたくしにも出てまいりませんでした。


 王宮の管は、とうに空になっております。空になった石の管は、詰め直しに二月かかる。上の口まで水面が上がっても、貯水槽には一滴も入りません。あの管の見積りは、わたくしが王宮にいた十年のあいだに、工部が三度出しております。


 水は、届かないのです。


 届かないと分かっている水のために、二十万人が二年渇く。


「ユベール。あちらは、二年後にどうなるかを分かっておらんのでしょうか」

「分かっとらんのでしょう」

「いいえ」


 わたくしは、煙のほうを見たまま申し上げました。


「分かっております。分かったうえで、二年後にはご自分がそこにいないと判断なさったのでしょう」


 ――こういう計算が、この世にはございます。


 わたくしは、それを知っておりました。王宮で十年、決裁を回しておりましたから。


 三年前の東部の飢饉のとき、救援の書類が二月止まりました。理由は、その年に退官する方が、任期の最後に赤字を出したくなかったからでございます。四晩かけて経路を引き直したのは、そのあとでございました。


 あのときも、誰も嘘はついておりません。全員が、自分の任期の中で正しいことをいたしました。


「ユベール」

「へえ」

「立て札は、無駄ではございませんでした」

「……お嬢様。二年、水が来ませんのに」

「無駄ではございません」


 わたくしは、尾根の岩に手をついて立ち上がりました。


「あの中に、二年先まで数えた方がおられます。数えたうえで、上官の命令に従った方が。――その方は、いま、たいへん気分が悪いはずでございます」


 しばらく、老人はわたくしを見ております。


 それから、こう申しました。


「お嬢様は、その方をどうなさるおつもりで」

「覚えておきます。名前は知りませんが、立て札の前で足を止めて、導水路の口へ戻って、また読みに来た方でございます。――あの方は、二年後、抜けた導水路の前に立っております」


 わたくしは、外套の裾を払いました。


「ユベール。麓の少年を、もう一度走らせてくださいませ」

「どちらへ」

「中継所のマルタンへ。三つ書いていただきます」


 老人の手が、腰の帳面へ伸びます。


「ひとつ。十一日目の第五鐘、王国軍が南部三領の取水堰を十九のうち十二まで開いた。開けたのは工兵隊でございます」

「へえ」

「ふたつ。十二の開門により、導水路は三日で目地が緩み、四日目に抜ける。復旧に二年。これは開門の前日、堰の脇に立て札で掲示してあった」

「……三つめは」

「みっつ。王宮の管は二月かからねば水を通しません。上の口まで水が上がっても、貯水槽には入りません」

「……へえ」

「増やした七つぶんは、王宮へは一滴も行きません。行き場がないので、そのぶんは市中へ落ちます。――明日から三日、市中の泉は勢いが増します。三日ぶんだけでございます。四日目に、全部が止まります」


 老人の手から、帳面が滑り落ちました。


「お嬢様。それを、市中に」

「マルタンの荷車は、日に二度、市壁の中を端から端まで回ります。王都でいちばん耳が早い方でございます」


 わたくしは、水音のするほうへ目をやりました。昨日の倍になっております。


「四日目に水が止まってから知らせても、それはただの言い訳でございます。止まる前に知らせておけば、止まった日に、王都の民は誰の顔を思い浮かべるかを、もう決めております」

「……お嬢様」

「日付と、堰の数だけは違えずに。誰が命じたかは書かなくて結構です。名前は、あとで王宮が自分で出します」

「……お嬢様。市中が荒れますな」

「荒れます」


 わたくしは、そう申し上げました。


 水の値が跳ねます。買い占めが出ます。先に知るのは、桶をいくつも買える方でございます。マルタンは二リーヴルを守れなくなります。


 水門を閉じると決めた晩、父に「二十万の民がおります」と申し上げたのは、わたくしでございました。


「それでも、止まってから知るよりは、ましでございます」

「……誰にとって、でございます」


 ユベールは、そう訊きました。


 この人は、こういうときだけ、遠慮をなさいません。


「わたくしにとっても、でございます」


 その夜。


 尾根の陰の窪地で、わたくしどもは条約の草案を広げました。


 紙は、ガルデニアの法務官が書いたものでございます。テオドール閣下が宿場から持ってこられました。


 角灯を二つ。地面に荷の油布を敷いて、その上に紙を並べます。


「読んだか」

「はい。三度」

「どうだ」

「よく書けております。第一条から第四条までは、直すところがございません」


 わたくしは、五枚目を引き抜きました。


「第五条以降を、書き直させてください」


 閣下が、こちらを見られました。


「半刻で書かせたものだ。粗はあるだろう」

「粗ではございません。前提が変わりました」


 角灯を、紙のほうへ寄せます。


「この草案は、南部三領が無事であることを前提に書かれております。水源地の宗主権を移し、水利権をヴェルネ家に残す。――ですが、四日目に導水路が抜けます」

「……ああ」

「抜けた導水路のついた水源地を、相場で買っていただくわけには参りません。ガルデニアは、二年間なんの役にも立たない土地に金を払うことになります」

「構わん」

「構います」


 わたくしは、はっきりと申し上げました。


「議会が割れておいでなのでしょう」


 紙の上で、閣下の指が動かなくなりました。


「――なぜ、それを」

「使節が街道の宿場で丸一日動かなかったというのは、本国から帰れと言われている方の止まり方でございます」


 わたくしは、五枚目の余白を指しました。


「役に立たない土地を相場で買った軍務卿、という報告書が上がります。そのとき閣下を守るのは、この紙一枚でございます」

「何を書く」

「復旧条項でございます」


 鉛筆を、取ります。


「導水路の復旧費用は、ヴェルネ家が負担いたします。持参金十二万リーヴルと、南部三領の年間収入をあてます」

「……ほう」

「復旧が成るまで、ガルデニアは買収代金の支払いを繰り延べる」


 閣下は、紙から指を離されません。


「――これで、閣下は『壊れた土地を買った』のではなく、『直るまで払わない契約を取った』ことになります」

「あなたの家が、二年、無収入になる」

「はい」

「それで、あなたに何が残る」


 わたくしは、鉛筆を止めました。


 ――何も残りません。


 持参金も、領地の収入も、二年ぶんの人生も。


 けれど、この条項がなければ、この方が本国で立てなくなります。


「閣下」

「なんだ」

「三つめの条件を、覚えておいでですか」


 冬の川の色をした目が、角灯の光の中でこちらを見ておりました。


「好きにはなれない、というやつか」

「はい。……あれは、たぶん、少し違っておりました」


 言ってから、自分の声が思ったより低いのに気づきました。


「なりかたを知らないと申し上げました。いまも知りません。ただ、いま、わたくしは自分の持参金を全部差し出す条項を、ためらわずに書いております」


 鉛筆の先が、紙の上で止まったままでございます。


「これが何という名前の行いなのか、わたくしには分かりません。ご存じでしたら、教えてくださいませ」


 閣下は、しばらく黙っておられました。


 角灯の芯が、細くなってまいります。油が尽きかけているのでございます。


 それから、外套の内側に右手を当てて――やめて、その手を下ろされました。


「知らん」

「……そうですか」

「だが、私はそれを八年やっている」



(第二十一話へつづく)

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