↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄をご希望でしたら、契約書の第七条をご確認ください ~王都の水は、わたくしの領地から流れております~  作者: 七条 みなも


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/25

わたくしが行きます

 条約の清書が終わったのは、夜明け前でございました。


 全十四条。ガルデニアの法務官が書いた四条はそのまま、第五条以降をわたくしが書き直し、閣下が二か所だけ直されました。直されたのは、どちらもガルデニア側の義務を重くする方向でございます。


 清書は、わたくしが書きました。閣下の字は、条約に載せるには角が立ちすぎております。剣を持つ手で書かれた字でございました。


 最後の一枚に、署名欄が三つ。


 右に、テオドール・アシュフォード。ガルデニア公国軍務卿。


 残る二つは、空でございます。


 ――ヴァルモア国王陛下。宗主権を渡す側。


 ――ヴェルネ公爵グレゴール。水利権を残し、復旧を負う側。


「――さて」


 閣下が、紙を揃えられました。


「これを、どうやって王宮の中の男に書かせる」

「わたくしが行きます」

「駄目だ」


 即答でございました。


「理由を伺ってもよろしいですか」

「近衛があなたの屋敷を接収した。屋敷にあなたがいなかった。次に探すのは市壁の中と、この領地の二つだ。市壁の中には、あなたの顔を知る者が何百人もいる」

「はい」

「捕まれば、あなたは公爵と同じ場所に入る。父娘そろって王宮の中では、署名を出す者が外に一人もいなくなる」

「はい」

「分かっていて行くのか」

「はい」


 閣下が、初めて声を荒らげられました。


「なぜだ」


 ――怒鳴られたのは、初めてでございました。


 殿下には十年、何度も声を荒らげられております。けれどこの方の声は、それとは種類が違いました。低いままで、量だけが増えるのでございます。


「閣下。ほかに、誰が行けますか」

「私が行く」

「行けません」

「私は正式な使節だ。旗を上げて入国している。王宮へ表から入れるのは、この国で私だけだ」

「ですから、行けません」


 わたくしは、条約の束を両手で持ち上げました。


「閣下が王宮へ入って、拘束されている公爵に条約を突きつける。それが本国に伝わったとき、なんと呼ばれるかご存じですか」

「……」

「脅迫でございます。ガルデニア公国軍務卿が、他国の勾留中の貴族に、軍を背景にして署名を強いた。――議会の三分の一は、その報告書を待っておいでです」


 閣下の口が、開いて、閉じます。


「わたくしが行けば、父娘の話でございます。娘が父に署名を頼んだ。それだけでございます」

「捕まる」

「捕まりましたら、そのときは条約が二年遅れます。閣下は本国へお帰りになって、議会に『交渉は不成立』とご報告ください。それなら、閣下は何も失いません」

「――あなたを失う」


 手が、止まります。


 紙の束が、思ったより重うございました。


 ――右手が、震えております。


 夜会の晩から数えて、四度目でございました。


「……閣下」

「私は、それを数字にできない」


 その方は、そう仰いました。


「八年、できなかった。ラングレーにも同じことを言われた。議会で問われたら数字の話だけをしろと」

「はい」

「私は、そのつもりでいた。今日までは」


 角灯の油が、そろそろ尽きかけております。芯が、じじ、と鳴りました。


「アデライド」

「はい」

「条件を一つ足す」

「……三つで打ち止めではございませんでしたか」

「私が足すぶんだ」


 閣下は、条約の束の上に手を置かれました。


「王都には、あなたが行く。私は行かない。――そこまでは、あなたが正しい」

「はい」

「ただし、五日だ」


 わたくしは、顔を上げました。


「五日で戻れ。戻らなければ、私は正式な使節としてヴァルモア王宮へ乗り込む。脅迫と呼ばれても構わん。議会が割れても構わん」

「閣下、それは」

「これは交渉ではない。通告だ」


 ――返す言葉が、ございませんでした。


 この方は、こちらの理屈を全部認めたうえで、その先に自分の期限を置かれたのでございます。


 堰が開いてから四日目に、導水路が抜けます。五日目は、その翌日でございます。


「……五日、承知いたしました」


 支度は、半刻で終わりました。


 持っていくものは、三つでございます。


 条約の束。


 婚約契約書の写し。油紙三重の包みは、ずっとセシルが胸に抱えております。十日目の朝から、この子はこれを一度も手放しておりません。


 そして、母の手紙。


 封を切ったのは、夜会の晩でございます。それきり、折り目のとおりに戻してございます。


『あなたは三つのとき、井戸に落ちた仔猫のために、泣きながら父上の書斎の扉を叩き続けた子です。半刻でした。手が赤くなっても、やめませんでした』


 ――半刻。


 これから会いに行くのは、その扉の向こうにいた人でございます。


 あのとき扉を開けたのかどうか、母は書いておりません。書かなかったのか、書けなかったのかも分かりません。


 ――なぜこれを持っていくのか、自分でも説明できません。


 役に立つ場面が、一つも思い浮かびません。それでも懐に入れました。


「セシル」

「はい」

「あなたは残りなさい」

「お断りいたします」

「今度は理由があります。あなたは契約書の写しを持っております。二人で行って二人とも捕まれば、写しも取られます」

「……」

「写しが王家の手に渡れば、この世の写しは王宮の地下三層の一通だけになります。第七条が、書き換えられるようになります」

「――条約の束は、お持ちになるのですか」

「これは構いません」


 わたくしは、そう申し上げました。


「取り上げられても、中身は頭にございます。全十四条、昨夜のうちに覚えました。……八歳のときに全十二条を覚えさせられた者に、十四条は多うございません」


 セシルは、包みを抱えたまま、動きませんでした。


 しばらくして、こう申しました。


「では、お預かりいたします」

「ええ」

「――ですが、お嬢様」


 この子は、顔を上げました。目が赤うございます。夜通し、紙を押さえていただけの子が。


「五日で戻ってこられなかったら、わたくし、これを持ってガルデニアへ参ります」


 わたくしは、少し驚きました。


「なぜ」

「閣下がヴァルモアの王宮へ乗り込まれるなら、こちらの写しは国外に出しておかねばなりません。両方が王都にあるのは、いちばん危のうございます」


 ――この子は、いつの間にか、そういう考え方をするようになっておりました。


 五年前、市場の路地で泣いていた子でございます。


「……よく分かりましたね」

「お嬢様のお側で五年、書類を運んでおりましたので」


 支度が終わりかけたころ、ユベールが窪地へ上がってまいりました。


「お嬢様。麓の子が、王都から戻りました」

「早いのね」

「荷車が一日二度、市壁の中を回っておりますので」


 老人が、折った紙を差し出します。


 マルタンの字でございました。


『水の話、市中に流し申した。


 ついでにひとつ、こちらからも。


 王宮の井戸端に、桶を提げた女中が並んでおります。


 男爵令嬢が湯を使うたびに、一列ぶん減るそうで』


 わたくしは、その四行を二度読みました。


 ――七日目に、あの方が浴槽をお持ちだったのは存じております。


 いえ。存じておりませんでした。三日目から、そう囁かれていただけでございます。噂は噂で、数ではございませんでしたので、わたくしはどの欄にも書きませんでした。


 書かなかったものが、いま、事実として戻ってまいりました。


 貯水槽が尽きかけた晩に湯を張れる方が、まだ王宮においでなのでございます。


「セシル」

「はい」

「王宮に、まだ水がございます。少なくとも、桶に汲めるだけは」

「……はい」

「覚えておいてちょうだい。わたくしが戻らなかったときのために」


 尾根を下りたのは、第一鐘の前でございました。


 道は、炭焼きの道でございます。閣下が越えてこられた道を、逆に辿ります。馬は一頭。ユベールが麓から引いてきた、荷馬の老いたものでございます。


 ――逆に辿る、というのは、この十二日で二度目でございました。


 水の来た道を逆に辿って、市壁の外から南部三領へ。今度は、あの方の来た道を逆に辿って、南部三領から王都へ。


 いつも、誰かが先に通った道でございます。


 わたくしが自分で引いた道は、いまのところ一本もございません。


 ユベールが、鐙の高さを直しながら申しました。


「お嬢様。麓の宿場に、うちの縁の者がおります。名を出せば、馬を替えてくれます」

「ありがとう」

「それから――王都で、もし逃げ場がのうなりましたら」


 老人は、そこで一度、鍵束を鳴らしました。


「中継所の点検坑は、内側からも開きます。棒は、蓋の裏に括りつけてございます」

「いまは、水がいっぱいでございましょう」

「へえ。十二も開いておりますので、人の通れる道ではございません」


 老人は、それきり黙ります。


 鍵束の音が、もう一度。


「――抜けたあとなら、通れます。抜けたあとは、いつ崩れるか分かりませんが」


 その言葉を、書き留めるように二度繰り返します。


「アデライド」


 鞍に足をかけたところで、呼ばれました。


 振り返ります。


 夜明け前の光は、まだ色がございません。その方の輪郭だけが、灰色の中に立っておりました。


 その方は、外套の内側から、あの紙を取り出しておいででした。


「持っていけ」

「――閣下」

「八年、これが私の側にあった。次の五日は、あなたの側にある」


 わたくしは、受け取れませんでした。


「捕まれば、取り上げられます」

「そのときは、取りに行く」


 その輪郭が、動きません。


「軍務卿としてではない。数字で説明のつかないほうで行く」


 ――この紙が、王家の手に渡ればどうなるか。


 ガルデニア公国軍務卿が、他国の貴族に八年前の停戦覚書を託した。ご本国の議会は、それを私情と呼びます。


 この方は、承知のうえで仰いました。


 わたくしは、両手でそれを受け取りました。


 受け取ってみると、驚くほど薄うございました。八年ぶんの重さというものは、紙には残らないのでございます。


 外套の内側の、いちばん深いところへ入れました。


 ――持ちものが、一つ増えました。


「数えられるな」


 ――そういう訊き方をなさるのだ、と思いました。


 数えることだけは、八歳から今日まで、一度も外したことがございません。


「数えられます」


 わたくしは、そう申し上げました。


 馬の腹を軽く蹴りました。


 炭焼きの道を、北へ。


 あと三日で導水路が抜けます。その翌日に、この方が王宮へ乗り込まれます。


 その二つより先に、王宮から署名を二つ取ってまいります。


 父が留め置かれて、今日で六日でございます。


 ――五日。


 数えはじめます。



(第二十二話へつづく)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。