わたくしが行きます
条約の清書が終わったのは、夜明け前でございました。
全十四条。ガルデニアの法務官が書いた四条はそのまま、第五条以降をわたくしが書き直し、閣下が二か所だけ直されました。直されたのは、どちらもガルデニア側の義務を重くする方向でございます。
清書は、わたくしが書きました。閣下の字は、条約に載せるには角が立ちすぎております。剣を持つ手で書かれた字でございました。
最後の一枚に、署名欄が三つ。
右に、テオドール・アシュフォード。ガルデニア公国軍務卿。
残る二つは、空でございます。
――ヴァルモア国王陛下。宗主権を渡す側。
――ヴェルネ公爵グレゴール。水利権を残し、復旧を負う側。
「――さて」
閣下が、紙を揃えられました。
「これを、どうやって王宮の中の男に書かせる」
「わたくしが行きます」
「駄目だ」
即答でございました。
「理由を伺ってもよろしいですか」
「近衛があなたの屋敷を接収した。屋敷にあなたがいなかった。次に探すのは市壁の中と、この領地の二つだ。市壁の中には、あなたの顔を知る者が何百人もいる」
「はい」
「捕まれば、あなたは公爵と同じ場所に入る。父娘そろって王宮の中では、署名を出す者が外に一人もいなくなる」
「はい」
「分かっていて行くのか」
「はい」
閣下が、初めて声を荒らげられました。
「なぜだ」
――怒鳴られたのは、初めてでございました。
殿下には十年、何度も声を荒らげられております。けれどこの方の声は、それとは種類が違いました。低いままで、量だけが増えるのでございます。
「閣下。ほかに、誰が行けますか」
「私が行く」
「行けません」
「私は正式な使節だ。旗を上げて入国している。王宮へ表から入れるのは、この国で私だけだ」
「ですから、行けません」
わたくしは、条約の束を両手で持ち上げました。
「閣下が王宮へ入って、拘束されている公爵に条約を突きつける。それが本国に伝わったとき、なんと呼ばれるかご存じですか」
「……」
「脅迫でございます。ガルデニア公国軍務卿が、他国の勾留中の貴族に、軍を背景にして署名を強いた。――議会の三分の一は、その報告書を待っておいでです」
閣下の口が、開いて、閉じます。
「わたくしが行けば、父娘の話でございます。娘が父に署名を頼んだ。それだけでございます」
「捕まる」
「捕まりましたら、そのときは条約が二年遅れます。閣下は本国へお帰りになって、議会に『交渉は不成立』とご報告ください。それなら、閣下は何も失いません」
「――あなたを失う」
手が、止まります。
紙の束が、思ったより重うございました。
――右手が、震えております。
夜会の晩から数えて、四度目でございました。
「……閣下」
「私は、それを数字にできない」
その方は、そう仰いました。
「八年、できなかった。ラングレーにも同じことを言われた。議会で問われたら数字の話だけをしろと」
「はい」
「私は、そのつもりでいた。今日までは」
角灯の油が、そろそろ尽きかけております。芯が、じじ、と鳴りました。
「アデライド」
「はい」
「条件を一つ足す」
「……三つで打ち止めではございませんでしたか」
「私が足すぶんだ」
閣下は、条約の束の上に手を置かれました。
「王都には、あなたが行く。私は行かない。――そこまでは、あなたが正しい」
「はい」
「ただし、五日だ」
わたくしは、顔を上げました。
「五日で戻れ。戻らなければ、私は正式な使節としてヴァルモア王宮へ乗り込む。脅迫と呼ばれても構わん。議会が割れても構わん」
「閣下、それは」
「これは交渉ではない。通告だ」
――返す言葉が、ございませんでした。
この方は、こちらの理屈を全部認めたうえで、その先に自分の期限を置かれたのでございます。
堰が開いてから四日目に、導水路が抜けます。五日目は、その翌日でございます。
「……五日、承知いたしました」
支度は、半刻で終わりました。
持っていくものは、三つでございます。
条約の束。
婚約契約書の写し。油紙三重の包みは、ずっとセシルが胸に抱えております。十日目の朝から、この子はこれを一度も手放しておりません。
そして、母の手紙。
封を切ったのは、夜会の晩でございます。それきり、折り目のとおりに戻してございます。
『あなたは三つのとき、井戸に落ちた仔猫のために、泣きながら父上の書斎の扉を叩き続けた子です。半刻でした。手が赤くなっても、やめませんでした』
――半刻。
これから会いに行くのは、その扉の向こうにいた人でございます。
あのとき扉を開けたのかどうか、母は書いておりません。書かなかったのか、書けなかったのかも分かりません。
――なぜこれを持っていくのか、自分でも説明できません。
役に立つ場面が、一つも思い浮かびません。それでも懐に入れました。
「セシル」
「はい」
「あなたは残りなさい」
「お断りいたします」
「今度は理由があります。あなたは契約書の写しを持っております。二人で行って二人とも捕まれば、写しも取られます」
「……」
「写しが王家の手に渡れば、この世の写しは王宮の地下三層の一通だけになります。第七条が、書き換えられるようになります」
「――条約の束は、お持ちになるのですか」
「これは構いません」
わたくしは、そう申し上げました。
「取り上げられても、中身は頭にございます。全十四条、昨夜のうちに覚えました。……八歳のときに全十二条を覚えさせられた者に、十四条は多うございません」
セシルは、包みを抱えたまま、動きませんでした。
しばらくして、こう申しました。
「では、お預かりいたします」
「ええ」
「――ですが、お嬢様」
この子は、顔を上げました。目が赤うございます。夜通し、紙を押さえていただけの子が。
「五日で戻ってこられなかったら、わたくし、これを持ってガルデニアへ参ります」
わたくしは、少し驚きました。
「なぜ」
「閣下がヴァルモアの王宮へ乗り込まれるなら、こちらの写しは国外に出しておかねばなりません。両方が王都にあるのは、いちばん危のうございます」
――この子は、いつの間にか、そういう考え方をするようになっておりました。
五年前、市場の路地で泣いていた子でございます。
「……よく分かりましたね」
「お嬢様のお側で五年、書類を運んでおりましたので」
支度が終わりかけたころ、ユベールが窪地へ上がってまいりました。
「お嬢様。麓の子が、王都から戻りました」
「早いのね」
「荷車が一日二度、市壁の中を回っておりますので」
老人が、折った紙を差し出します。
マルタンの字でございました。
『水の話、市中に流し申した。
ついでにひとつ、こちらからも。
王宮の井戸端に、桶を提げた女中が並んでおります。
男爵令嬢が湯を使うたびに、一列ぶん減るそうで』
わたくしは、その四行を二度読みました。
――七日目に、あの方が浴槽をお持ちだったのは存じております。
いえ。存じておりませんでした。三日目から、そう囁かれていただけでございます。噂は噂で、数ではございませんでしたので、わたくしはどの欄にも書きませんでした。
書かなかったものが、いま、事実として戻ってまいりました。
貯水槽が尽きかけた晩に湯を張れる方が、まだ王宮においでなのでございます。
「セシル」
「はい」
「王宮に、まだ水がございます。少なくとも、桶に汲めるだけは」
「……はい」
「覚えておいてちょうだい。わたくしが戻らなかったときのために」
尾根を下りたのは、第一鐘の前でございました。
道は、炭焼きの道でございます。閣下が越えてこられた道を、逆に辿ります。馬は一頭。ユベールが麓から引いてきた、荷馬の老いたものでございます。
――逆に辿る、というのは、この十二日で二度目でございました。
水の来た道を逆に辿って、市壁の外から南部三領へ。今度は、あの方の来た道を逆に辿って、南部三領から王都へ。
いつも、誰かが先に通った道でございます。
わたくしが自分で引いた道は、いまのところ一本もございません。
ユベールが、鐙の高さを直しながら申しました。
「お嬢様。麓の宿場に、うちの縁の者がおります。名を出せば、馬を替えてくれます」
「ありがとう」
「それから――王都で、もし逃げ場がのうなりましたら」
老人は、そこで一度、鍵束を鳴らしました。
「中継所の点検坑は、内側からも開きます。棒は、蓋の裏に括りつけてございます」
「いまは、水がいっぱいでございましょう」
「へえ。十二も開いておりますので、人の通れる道ではございません」
老人は、それきり黙ります。
鍵束の音が、もう一度。
「――抜けたあとなら、通れます。抜けたあとは、いつ崩れるか分かりませんが」
その言葉を、書き留めるように二度繰り返します。
「アデライド」
鞍に足をかけたところで、呼ばれました。
振り返ります。
夜明け前の光は、まだ色がございません。その方の輪郭だけが、灰色の中に立っておりました。
その方は、外套の内側から、あの紙を取り出しておいででした。
「持っていけ」
「――閣下」
「八年、これが私の側にあった。次の五日は、あなたの側にある」
わたくしは、受け取れませんでした。
「捕まれば、取り上げられます」
「そのときは、取りに行く」
その輪郭が、動きません。
「軍務卿としてではない。数字で説明のつかないほうで行く」
――この紙が、王家の手に渡ればどうなるか。
ガルデニア公国軍務卿が、他国の貴族に八年前の停戦覚書を託した。ご本国の議会は、それを私情と呼びます。
この方は、承知のうえで仰いました。
わたくしは、両手でそれを受け取りました。
受け取ってみると、驚くほど薄うございました。八年ぶんの重さというものは、紙には残らないのでございます。
外套の内側の、いちばん深いところへ入れました。
――持ちものが、一つ増えました。
「数えられるな」
――そういう訊き方をなさるのだ、と思いました。
数えることだけは、八歳から今日まで、一度も外したことがございません。
「数えられます」
わたくしは、そう申し上げました。
馬の腹を軽く蹴りました。
炭焼きの道を、北へ。
あと三日で導水路が抜けます。その翌日に、この方が王宮へ乗り込まれます。
その二つより先に、王宮から署名を二つ取ってまいります。
父が留め置かれて、今日で六日でございます。
――五日。
数えはじめます。
(第二十二話へつづく)




