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婚約破棄をご希望でしたら、契約書の第七条をご確認ください ~王都の水は、わたくしの領地から流れております~  作者: 七条 みなも


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王国軍が、水を戻した

 下りは、上りより悪うございました。


 踏み固められた土が、夜露で滑ります。乗ったまま行ける場所と、下りて引かねばならない場所が、半々でございました。


 二晩前、この道を十二騎が一列で越えてまいりました。旗は下ろし、灯りだけを上げて。


 尾根の下から数えて、十二で止まった灯りでございます。


 いまは、馬が一頭きり。


 尾根の上で、一度だけ振り返りました。


 水源林の方角に、煙が上がっております。野営の煮炊きの煙でございます。数は、昨日より増えておりました。


 その煙の下で、十九のうち十二が開いております。


 昨日――十一日目の第五鐘から数えて、今日が一日目。三日で目地が緩み、四日目、十五日目の朝に抜けます。


 わたくしの五日も、今日が一日目でございます。


 尾根の陰には、セシルが残っております。油紙三重の包みを胸に抱えた子が、今日から同じ数を数えているはずでございました。


 道を下りながら、ひとつ思い出しております。


『お嬢様がおられんかったら、わしは誰にそれを申し上げりゃあよろしいので』


 旗の立った日の夕方、ユベールがそう訊きました。わたくしは、王都へ戻ると答えただけでございます。訊かれたことには、答えておりません。


 あの老人は、堰の抜ける音を、この林でいちばん先に聞く人でございます。聞いたあとで、それを誰に言えばよいのかを尋ねたのでございました。


 ――答えを、置いてまいりませんでした。


 答えは、まだ出てまいりません。


 麓の宿場に下りたのは、第二鐘を過ぎたころでございます。


 宿場は、変わっておりました。


 馬繋ぎの前に、麦の袋が背丈ほど積んでございます。荷駄が二十頭ばかり、鼻面を並べて桶に口をつけ、その番に兵が立っておりました。


 二日前まで、ここはただの馬方の宿でございます。


 厩の裏で、ユベールの名を出しました。


 出てまいりましたのは、五十がらみの男でございます。ドニと名乗りました。ユベールの姉の子だと申しました。


 男は、わたくしの顔を見て、それから馬を見て、鼻を鳴らしました。


「この馬で、ここまで来られましたか」

「ええ」

「よくもったもので」

「馬を、替えていただけますか」

「替えます。……ただ、お伺いしてよろしいですか」


 ドニは、厩の柱に肩を預けます。


「叔父の名を出す方が、この十日で三人目でございます。あとの二人は、うちの麦を持っていきました。銭は置いていきません」

「わたくしは、置いてまいります」


 わたくしは、外套の内から銀を三枚出しました。


「馬の値には足りません。足りないぶんは、証文を――」


 そこまで申し上げて、口を閉じました。


 母屋の板戸の前に、兵が二人立っております。


 ――紙に、名を書くところでございました。


 わたくしの名の書いてある紙を、この人が持っているところを見られましたら、檻に入るのはこの人でございます。


 屋敷の使用人を二十三人、同じ理由で出しました。答えられる者を置いてこない。それだけのために、名簿も出入り帳も焼いております。


 その二日後に、初対面の馬方へ証文を書こうとしております。


「――失礼いたしました。証文は、お書きいたしません」

「なぜでございます」

「わたくしの名の書いた紙は、いま、持っているだけで罪になります」


 ドニは、しばらく黙って、それから厩の奥へ入っていきました。


 引いてきたのは、鹿毛でございます。腹の締まった、脚の細い馬でございました。


「銀は、いただいておきます。足りないぶんは、叔父につけておきますで」

「……ありがとうございます」

「ひとつだけ、お願いがございます」


 男は、鞍帯を締めながら申しました。


「叔父にお会いになったら、わしは断らなかったと、そう申し上げてくださいまし」

「必ず」

「それだけで結構でございます。うちは、代々そういう家でございますので」


 わたくしは、銀を三枚、飼葉桶の縁に置きました。


「街道は、通れますか」

「南へ行く車は、みんな検められます。幌をめくって、樽の中まで」

「北へは」

「北へ上がるのは空の車ばかりで。誰も見ちゃおりません」


 ――見張るというのは、向きを決めることでございます。


 向きを決めれば、必ず背中ができます。


「もうひとつ伺います。街道に、早馬は」

「昨日の昼から、北へ二騎。今朝も一騎」


 男は、鐙の革を穴一つぶん詰めました。


「あちらさんは、堰を開けたことをお知らせに行かれたんでございましょう。わしらには関わりのねえことで」


 街道の検問は、二か所ございました。


 どちらも、南を向いております。


 槍を立てた兵が、南へ下る荷車の幌をめくり、樽の中を検めております。北へ上がる馬に顔を向ける者は、一人もおりません。


 二か所目を過ぎたところで、外套の上から内側を一度だけ押さえました。


 条約の束。母の手紙。それから、八年前の覚書。


 ――紙が、三つ。


 一つは、これから二つの署名を載せる紙でございます。一つは、書いた方がもうおられません。


 もう一つは、両軍が十マイル退いたことを書いて、八年、そのとおりに守られている紙でございます。


 紙に書いたことが守られた例を、わたくしは一枚しか存じません。


 荷駄の列が、南へ下ってまいります。麦と、飼葉と、蹄鉄の箱。水の樽は、一つも積んでおりません。


 あの方々は、水には困りません。林の中においでですので。


 王都へ届かぬ水の前に、二個大隊が座っております。


 南門が見えてまいりましたのは、第三鐘を過ぎたころでございます。


 門の外の泉に、人が並んでおりません。


 二日前、セシルが息を呑んだ列でございます。桶と壺を抱えた三十人ばかりが、市壁の外のたった一つの泉の前に立っておりました。日に汲めるのは千人分でございます。


 いま、泉の縁にいるのは犬が一匹きりでございました。


 ――中に、水が出ております。


 わたくしは、馬を下りました。


 門の脇に、高札場がございます。


 新しい板が一枚。墨が、まだ黒うございます。


 人が十人ばかり集まって、読める者が読み上げております。


『王国軍は南部三領の水源地を保全し、王都への給水を回復せしめた。


 これに先立つ断水は、ヴェルネ公爵家が水門を閉ざしたことによる。


 公爵家に与する者の申すことを、信じてはならぬ。


 水は、王家より民へ戻された』


 四行でございました。


 板に字を書いて立てるという点では、堰の脇の立て札と同じものでございます。


 違うのは、どちらが二年先まで数えているか。それだけでございました。


 ――ひとつだけ、正しゅうございます。


 断水は、ヴェルネ公爵家が水門を閉ざしたことによります。


 署名したのは、わたくしでございました。


 読み上げが終わりますと、人が手を叩きます。


 誰かが王国軍万歳と申しました。もう一人が唱和して、三人目で笑いになって、それきりでございます。


 喜んでいるというより、ほっとしている音でございました。


「ヴェルネの水売りは、値を上げなかったぞ」


 高札の前で、男が二人話しております。


「上げなかったんじゃねえ。上げられなかったんだ」

「どういうこった」

「上げてみろ。あの紋章で、二十四リーヴル取ってみろ。次の日に焼き討ちだ」


 わたくしは、板の裏側へ回りました。


 九日目の相場が二十四リーヴルで、組合が二リーヴルで売り続けたことは、この方々の中では、もう別の形になっております。


 値を上げなかったのは、優しさではなく、上げられなかったからだ。


 ――六日ぶんの記憶が、板一枚で書き換わりました。


 書き換えたのは四行の文でございます。誰の名で書いてあるかを、この方々は誰も見ておいでではございません。


 空車の列が、門から出て、西へ折れてまいります。


 朝の一巡を終えて、中継所へ戻る車でございます。荷を下ろした帰りは、いつも一列になります。


 わたくしは、馬を引いて、その最後尾につきました。


 歩きながら、数えます。


 三十一台。今朝この門をくぐったはずの数でございます。


 ――二十九。


 二度、数え直しました。


 二十九台きりでございます。


 二台、足りません。


 列の中ほどで、石が飛びました。


 側板に当たって、乾いた音がいたします。二つ目は樽に当たり、三つ目は外れて、道の土を跳ねました。


 当たった側板に、ヴェルネ家の紋章が入っております。


 荷車引きは、振り返りません。手綱を持ち替えもせず、速さも変えず、そのまま進んでまいります。


 ――列の速さに合わせる。


 この十二日で、わたくしがいちばん多く見た歩き方でございました。


 石を投げたのは、若い男でございます。


 投げてから、自分の手を見ておりました。


 その男の足元に、いま泉から汲んできたばかりの水が、桶ひとつぶん置いてございました。


 昨日まで、この男は二リーヴルで水を買っております。売ったのは、いま石の当たった荷車でございました。


 三日のちに、その桶は空になります。


 そのとき、この男が水を買える相手は、いま石を当てた荷車のほかにございません。



(第二十三話へつづく)

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