戻ってまいりました
空車の列に混じって窪地へ入りましたのは、昼を過ぎたころでございます。
石積みの平屋がひとつ。板葺きの屋根が、片側だけ新しくなっております。三年前に葺き替えたのだと、前に伺いました。
庭で、男たちが轅を下ろしております。
いつもなら、ここから夕の一巡の支度がはじまります。
誰も、樽を転がしておりません。
積んだままの樽が、荷台の上で伏せてございました。
平屋の奥から、腕の丸太のような男が出てまいります。
マルタンでございました。
わたくしが頭巾を下ろしますと、この人は、目を細めました。
「――お嬢様」
「戻ってまいりました」
男は、しばらく黙っております。
それから、庭の樽のほうへ顎をしゃくりました。
「見てのとおりでございます」
「夕の一巡は」
「出しません。買う者がおりません」
――泉が、溢れております。
水売りは、渇いているときにしか要らない商売でございます。
今日から三日、王都はいちばん水に困っておりません。
平屋の中は、樽の匂いがいたします。
卓の上に、割れた腕木と、砕けた輻が置いてございました。
「二台、足りません」
「門のところで数えられましたか」
「はい」
「三台やられました。うち一台は、車輪だけ換えて出しました」
マルタンは、腰を下ろしました。
「今朝、高札が上がりまして。それから昼までに、五台に石が飛びました」
「怪我は」
「ジャックが、こめかみを」
わたくしは、卓の上の輻を見ておりました。
樫でございます。四百年、この組合が使ってきた木でございました。
「紋章を、削らないのですか」
「削ったら、投げた奴らの言うとおりになります」
それきりでございます。
わたくしは、卓の向こうに腰を下ろしました。
「今日、何が起きましたか。順に伺わせてください」
マルタンは、卓の上に指を三本、間を空けて置きました。
「ひとつ。夜明けに高札。三つの門と、市中の広場という広場に、同じ板が上がりました」
「読みました。南門で」
「ふたつ。泉の水が、昨日の倍でございます。西区の共同井戸も、朝から止まっておりません」
「はい」
「みっつ」
男は、三本目の指を、卓に押しつけました。
「昼前に、王宮の宮内省から使いが参りました。日に二十樽、王宮へ納めてくれと」
――二十樽。
あの方が、荷馬車で置いていかれたのと、同じ数でございます。
「値は」
「向こうから、二リーヴルでと」
わたくしは、すぐには申し上げませんでした。
二十樽で四十リーヴルでございます。
九日目、わたくしは王都の相場で四百八十リーヴルと申し上げました。閣下は、それを渇きの値だと仰って、ガルデニアの平時の相場まで下げさせられました。お支払いしたのは、四十リーヴル。
いま王家がこちらへ寄越したのも、同じ四十リーヴルでございます。
――同じ値でも、下げた方と、決めて寄越した方とは、別のものでございます。
「王宮には、馬も荷車もございましょう」
「十日目に、みんな輜重へ出したそうで。南へ二個大隊が下りましたので」
「……なるほど」
「もっとも、王宮は六日目から買っておいでです」
「なんですって」
「賄い方の下働きが、西区の車の列に並んで、一樽ずつ。銭を出して、頭巾をかぶって」
――六日目の日報に、ございました。
王宮方面から流れてきた者が並んでいる、と。あのとき、わたくしは道理だと思って、それきりにしております。
「今日のは、列に並びません。使いが来て、二十樽と言いました。――隠すのを、やめたのでございます」
わたくしは、卓の木目を見ておりました。
今朝、王家は板に書いております。水は、王家より民へ戻された、と。
その同じ日の昼前に、王家は水売りに使いを出しております。
「マルタン。お受けなさいませ」
男の眉が、上がりました。
「……よろしいので」
「よろしゅうございます。値は二リーヴルのまま、びた一文も上げないでくださいませ」
「上げやしません」
「では、どこから引くかでございます」
わたくしは、指を組みました。
「荷車は二十九台。日に二百三十二樽でございます」
「へい」
「坑から汲める上限は、二百五十樽。十八樽ぶん余っております。ですが、運ぶ車がございません」
「そのぶんは、坑の底に置いたままで」
「はい。二十樽は、二百三十二樽の中から出すほかにございません」
マルタンが、こちらを見ました。
「病院と孤児院と修道院の六台からは、一樽も引かないでくださいませ」
「へい」
「西区の十八台のうち、五台を朝だけ丘へお回しください。一台四樽で、二十樽でございます」
「西区の朝が、二十樽減りますな。……もっとも、いま西区は困りません。泉が出ておりますので」
「困る方が、おいでです。共同井戸まで歩けない方でございます。寝ついた方、産んだばかりの方、目の見えない方。西区の朝の二十樽は、その方々の戸口へ置いてまいりました」
マルタンの手が、卓の縁で止まります。
「……それを、王宮へ」
「はい。わたくしが決めました。あなたが決めたのではございません」
男は、返事をいたしません。
わたくしは、続けました。
「マルタン。もうひとつ、お願いがございます。こちらは、水の話ではございません」
「へい」
「三日でございます。今日を入れて三日。四日目に、導水路が抜けます」
男は、動きません。
「抜ければ、堰も、導水路も、この中継所も、みな死にます。ここから汲めるのも、四日目まででございます」
「……へい」
「王都に、貯水の設備は一つもございません。三日のあいだ市中に流れている水が、この都が二年のうちに見る最後の水でございます」
卓の上で、割れた輻が、少しだけ転がりました。
「三日のあいだ、市中の泉は誰にでも汲めます。荷車も、銭も要りません。要るのは、汲めと言う者だけでございます」
わたくしは、卓の上で指を組み直しました。
「桶という桶、壺という壺、風呂桶も洗い桶も、三日のうちに満たさせてくださいませ。あなたの車引きは、日に二度、市壁の中を端から端まで回ります」
「――昨日、流しました。夕に、お嬢様の三つを、うちの車引きが端から端まで触れて回りました。堰が十二開いた、四日目に抜ける、王宮の管は二月かかる」
「はい」
「今朝の板で、消えました」
――そのとおりでございます。
わたくしが流させた三つには、名前がございません。名前は、あとで王宮が自分で出しますと申しました。
名前を伏せさせたのは、わたくしでございます。
名前のない三行と、名前のある四行が並べば、勝つのは名前のあるほうでございます。
「マルタン。あなたの荷車引きは、何人おいでですか」
「三十一台ぶんの人手が残っております。予備を入れて、三十四人で」
「では、丘へ上がる五人を、日ごとに入れ替えてくださいませ」
男の目が、動きました。
「二日で、十人が王宮の勝手口を見ます。十人が、あとの二十四人に話します」
「――高札を上げた王家が、水売りから桶で買っている」
「はい」
「それを、うちの車引きが見る」
「はい」
マルタンは、しばらく卓を見て、それから、割れた輻の向きを直しました。
「明日の朝の車に、水売りが一人増えます」
「……ありがとうございます」
「礼はいりません。うちは、水を売る家でございます。それだけで」
その夜、麓へ戻る少年に、言伝を一つ預けました。
ユベールへの返事でございます。
「堰の抜ける音を聞いたら、マルタンに申し上げてください。中継所の、水売組合の組合長でございます」
少年は、口の中で二度繰り返しました。
わたくしは、そこへ一行足しました。
「わたくしがどこにいても、いなくても、その方に申し上げてください。四百年、堰の音は、まずヴェルネ家に届いてまいりました。もう、こちらを通らなくてよろしゅうございます」
少年が走っていったあと、マルタンが背中で申しました。
「お嬢様。それは、商売の話でございますな」
「はい」
「うちの帳面が、一冊増えます」
わたくしは、平屋の壁に背をつけました。
尾根の陰では、セシルが油紙の包みを抱えております。
あと四日で戻らなければ、あの子はそれを持ってガルデニアへ入ります。
「マルタン。うちの倅は九つだと、前に仰いましたね」
「……へい」
「四日目には、あの井戸も涸れます」
「涸れますな」
男は、そこで初めてこちらを見ました。
「お嬢様。名前のねえ触れは、もう効きません。今朝それが分かりました」
「はい」
「名前のある触れを、どこから持ってこられます」
――そこでございます。
わたくしは、答えを持っておりませんでした。
持っていないものを、持っているように申し上げるわけには参りません。
「明日までに、考えます」
「明日、どちらへ」
「王宮へ」
男が、卓の縁から手を離しました。
「……水を、売りに」
「はい」
(第二十四話へつづく)




