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婚約破棄をご希望でしたら、契約書の第七条をご確認ください ~王都の水は、わたくしの領地から流れております~  作者: 七条 みなも


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桶に汲めるだけの水

 五日のうちの、二日目でございます。


 第一鐘の前に、中継所を出ました。


 荷車は五台。一台に四樽ずつ、あわせて二十樽でございます。


 わたくしは、二台目の轅の脇を歩いておりました。


 頭巾をかぶり、麻の前掛けを締めて、袖を肘まで括ってございます。爪の中には、昨日の道の土が入ったままにしてございました。


 ――手だけは、洗っておりません。


 洗えば、白い手が出てまいります。


「あんた、坂は初めてかい」


 先頭の車引きが、振り返らずに申しました。


「はい」

「丘の裾まで二マイル、一刻半だ。石畳に入ったら、押すんじゃねえ。轅を持ち上げる。押すと、樽が鳴る」

「鳴ると、どうなりますか」

「箍が緩む。緩んだ樽は、次の日に漏る」


 ――四百年、そうやって運んでこられたのでございます。


 わたくしは、樽の縁に手をかけて、一度、指を開いて見ました。


 右手は、震えておりません。


 南門の門番は、樽を数えただけでございました。


「二十。荷札も二十。どこへ持っていく」

「丘の下でございます」


 門番が、荷札から目を上げました。


「……王宮か」

「そうで」


 先頭の車引きが、そう答えます。


 門番は、それきり何も訊きませんでした。荷札に判を捺して、こちらを見ずに、脇へどきます。


 高札は、門の脇に上がったままでございました。墨が、一晩で少し薄うなっております。


 市壁の内側に入りますと、匂いが変わります。


 水の匂いでございました。


 石畳が濡れております。泉の水が縁から溢れて、路地の傾きに沿って流れております。子どもが二人、その流れに足を突っ込んで座り込んでおりました。


 誰も、叱っておりません。


 広場という広場に、同じ板が上がっております。四行の高札でございます。


 その下で、女が一人、桶に水を汲みながら、板のほうへ頭を下げておりました。


 拝んでおいでです。


 ――紙に頭を下げる方を、わたくしは見たことがございません。


「三日で止まるぞ! 桶に汲んでおけ!」


 先頭の車引きが、そう怒鳴りました。


 広場の顔が、揃って上がります。


 それから、笑いになりました。


「昨日も言ってたな」

「溢れてるじゃねえか」

「樽を売りてえだけだろう」


 車引きは、二度目を怒鳴りませんでした。


 三つ目の広場でも、四つ目でも、同じ怒鳴り方をして、同じ笑われ方をしております。


 ――昨日は、名前のない三行でございました。


 今日も、名前がございません。


 足りないのは、言う者ではございません。


「あんた、上まで持ってくのかい」

「裾までと、伺っております」

「そりゃそうだ。上まで入れるのは、王様の車だけさ」


 先頭の車引きは、それきり黙りました。


 南の門から北の丘まで、市壁の中を端から端まで抜けてまいります。二マイル。荷車で一刻半でございました。


 道の左右が、少しずつ変わってまいります。板葺きが瓦になり、瓦が石になり、やがて塀のほうが道より高くなります。


 丘の裾で、車を止めました。


 ここから上は、石段と、荷を上げるための坂道が一本きり。坂は、まっすぐでございます。


 四百年前、この丘の主は、上がってくる者のことを考えて道を引いておりません。考えたのは、上から見下ろしたときに、その道がどう見えるかでございました。


 わたくしの家の丘の道は、三度折れております。上がる者を、三度折るために。


 高いところに置いた者と、折り曲げた者。四百年、どちらも一度も試されずに参りました。


 ――そういう家の娘が、いま、裾の勝手口から樽を入れております。


 勝手口は、東の塀の中ほどにございました。


 鉄の枢戸が一枚。石畳が擦り減って、真ん中だけ低うなっております。四百年、荷を入れてきた口でございました。


 中は、外庭でございます。


 厩と、厨と、洗い場と、薪小屋と、それから、井戸。


 厩は、扉が開いたままで、中が空でございました。十日目に、輜重へ出ております。


 二個大隊が南へ下るとき、王宮の馬も荷車も、そちらへ回ったのでございます。だから王家は、水売りに使いを出すほかにございませんでした。


 わたくしは、頭巾の縁を深く直しました。


 十年、わたくしはこの外庭を第一鐘の前に横切っております。頭巾のまま、灯りの届かぬ側を、一度も足を止めずに。書庫へ上がる階段が、この奥にございましたので。


 外庭の者が十年見てきたのは、早足で通り過ぎる背中でございます。


 顔で覚えている方は、三人。女中頭と、賄い方の頭と、厩の親方でございました。


 厩は、空でございます。


 井戸端に、女中が並んでおりました。


 二十人ばかり。みな、桶を提げております。


 滑車が回って、桶が上がってまいります。


 半分でございました。


 次の女中が縄を手繰ります。しばらく待って、また巻き上げます。今度は、三分の一ほど。


 ――この井戸を、存じております。


 掘り抜きではございません。市壁の中の井戸は、四百年ぶんの分水管の漏れが浅い層に溜まっただけの、人の作った水溜まりでございます。


 水門が閉じて三日目に濁り、四日目には死んでおります。


 いま、また汲めております。一昨日から、分水塔の下の口に水が来ておりますので。


 漏れが、戻ってまいりました。


 王宮の女中が桶を提げて並んでいるのは、王家が戻したと板に書いた水が、市中の管から漏れているからでございます。


 四日目に導水路が抜ければ、漏れも止まります。この井戸も、そのあと数日で死にます。


 六日目のご報告に、井戸のことは一行もございませんでした。数えられていたのは、貯水槽だけでございます。


 当てにできる水では、ございませんので。


 わたくしは、樽を下ろしながら数えておりました。


「……十八、十九、二十」

「あんた、数えるのが好きだねえ」


 樽を受けていた下働きの女が、笑いました。


「二十で合っております」

「合ってるさ。誰も数えやしないけどね」


 女は、桶の列のほうへ目をやりました。


「昨日まで、あれが三十人だったよ。今朝から二十人」

「減ったのですか」

「十人は、荷造りさ」


 わたくしは、転がしかけた空樽を押さえました。


「……荷造り」

「宰相様が、一昨日の晩に御前で仰ったそうでね。四日目に水が止まる、って。給仕に立った子が聞いて、女中頭が聞いて、それで今朝までに十人が暇をもらったんだ」


 女は、空樽を転がしながら続けます。


「陛下は工部の話だと仰ったそうだよ。工部の話なら、あたしらの話じゃないやね」


 ――工部の話だ。


 三年前の東部の飢饉のときにも、同じ言い方が三度出ております。


「あんた、荷造りしないのかい」

「いたします。今日のうちに」

「そりゃあいい」


 女は、笑って、樽を積みました。


 外庭の北側に、石の棟がございます。


 窓が、上下に二列。三つ目と四つ目の窓には、格子が入っております。


 ――東の棟でございます。


 父は、六日目からあの中においでです。今日で、七日でございました。


 二十間ばかりでございます。ここから、あの棟の扉まで。


 わたくしは、空樽を積み直しました。


 そのとき、洗い場のほうから声がいたしました。


「湯を、二はい」


 女中が三人、揃って手を止めます。


 列の脇に、若いご婦人が立っておられました。


 髪を結わずに背に流して、朝のうちから絹の部屋着でございます。裾が、濡れた石畳を引いております。


 ――ミレーユ・カンタン様でございます。


 男爵令嬢は、女中頭の前で立ち止まられました。


「湯を、二はい。ぬるいのは嫌ですのよ」

「……恐れ入ります。陛下のご下命で、湯はお止めになっております」

「そのご下命は、七日目でございましょう」


 ご婦人は、井戸のほうへ顎を向けられます。


「水は戻りましたのよ。高札に、そう書いてございましたわ」

「戻りましたのは、市中の泉でございます。この丘には」

「まあ」


 ミレーユ様は、目を丸くなさいました。


「では、丘には戻らなかったとお言いになるの」

「……」

「それを、高札にお書きになった方に申し上げてごらんなさいな」


 女中頭は、動きません。


 わたくしは、空樽の陰で、その背中を見ておりました。


 この女中頭は、王宮の勝手を四十年握っております。わたくしが八歳で上がったときには、もうこの外庭に立っておいででした。


 その方が、動けずにおられます。


 四行の板が一枚上がっただけで、断る言葉が全部使えなくなるのでございます。


 ミレーユ様は、袖から折った紙を半分だけお出しになりました。


 女中頭にだけ見える高さで、指の腹で二度、その紙をお叩きになります。


 封蝋が、割ってございました。


 黒でございます。


 声は、井戸端まで届きません。届いたのは、女中頭の返事のほうでございました。


「……二度、お通しいたしました」

「では、三度目もね」


 女中頭の背が、下がりました。


 ――四十七家に、黒い蝋を使う家はございません。


 二十三の税制を覚えさせられた冬に、四十七の紋も覚えました。色と、形と、どの家が誰と縁を結んだかまで。


 黒は、一家もございません。


 その蝋の使いを、この方は二度、どこかへお通しになっております。


「そこの」


 声が、こちらへ参りました。


 顔を上げますと、ミレーユ様が、わたくしのほうをご覧になっております。


「その桶を、こちらへ」


 わたくしは、足元の桶を両手で差し出しました。


 ご婦人の指が、縁にかかります。


 目が、合っております。


 合ったまま、二つ数えるほど。


 それから、離れてまいります。


 ――ご覧になっておいでです。


 見ていて、分からずにおいでなのでございます。


 あの晩、この方はわたくしの顔をまっすぐご覧になりました。上目遣いで、殿下の袖を握って。わたくしは、殿下の起こし方と、赤い封蝋の扱いを申し上げました。


 三百人の前で言葉を交わした相手の顔が、麻の前掛けの下では出てまいりません。


 人は、着ているものを見ているのでございます。


 ミレーユ様は、桶を女中に渡して、洗い場のほうへ戻ってゆかれます。


 途中で、一度だけ振り返られました。


「二はいでございますよ。二はい」


 女中頭が、頭を下げます。


 列の女中たちは、誰も顔を上げません。


 桶が、また半分だけ上がってまいります。


 わたくしは、積み終えた空樽を数えておりました。


 五台。二十樽。


 昨日、わたくしが西区の朝から引かせた二十樽でございます。


 共同井戸まで歩けない方の戸口へ、置いてくるはずだったものでございました。


 ――その二十のうちの、二はいでございます。


 女中頭が、こちらへ顔を向けます。


 わたくしは、空樽の箍を締め直しておりました。顔は、上げません。


 この方の目は、四十年、外庭のものだけを見てまいりました。桶の底の欠けも、薪の減り方も、一目でお分かりになります。


 ――だから、この方の目に入るのは、箍を締めている手だけでございます。


 空車を出しますとき、勝手口の脇に人が立っておりました。


 近衛でございます。


 肩の房飾りの色が、中隊長のものでございました。


 二十四、五でございましょう。兜は脇に抱えておられます。


 わたくしは、目を伏せて、轅に手をかけました。


 土くれを運ぶ女が、騎士に見られて怯えている。そう見えるように。


 三日前は、それで通りました。


 馬蹄の音は、いたしません。


 この方は、馬に乗っておられません。


 石畳の上を、靴音が二つ、近づいてまいります。


「――少し、伺ってもよろしいか」


 わたくしは、轅を握ったまま、動きません。


「堆肥の車で、丘を下りていかれた方でございますね」



(第二十五話へつづく)

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